傍迷惑な連中
そうして朝方。とはいえ、ここが本当に朝なのかどうかすら分からない。ジュラの森は相変わらず巨大な木々に空を覆われ、外の明るさなどほとんど届かず、昨夜からずっとグレサスの身体から溢れ続けていた黄金色の魔力が辺りを一定の明るさで照らしていたため、時間の感覚すら曖昧になっていた。
そんな中、テントの中で眠っていたグレサスがゆっくりと目を開ける。昨夜まで感じていた腹の重さもほとんど消え、身体の感覚はいつものものへ戻っていた。「…………ふむ」よく寝た、とでも言わんばかりに身体を起こし、そのままテントから外へ出たグレサスが最初に目にしたものは、鞄を枕代わりにし、地面へ横になって完全に眠っているデュランだった。
「…………」
昨夜、確かに「私が寝ずの番をする」と名乗り出ていた男が、普通に寝ている。グレサスは呆れたように鼻を鳴らし、「まったく……緊張感が足りんのだ」と呟きながら、地面へ置いてあった網を手に取った。神獣捕獲用。本人はそう思っている。その網を確認した後、昨夜消えてしまった焚き火へ手を向けると、ボッと小さな火が灯った。
その音に反応して、デュランの瞼がすぐに開く。身体を起こしたデュランの目の前には、網を手に持つグレサスがいた。
「ここはジュラだぞ。お前まで寝てしまってどうする」
至極まっとうな注意だった。あまりにも普通に正しい。だからこそデュランは、グレサスの手にある網をじっと見たあと、「…………あなたが、それを言うのですか……」と心の底から呆れた声を漏らした。
「何か問題でもあるのか?」
「いえ……申し訳ございません。あまりにも危険がなさすぎたもので……」
「ジュラでその言葉を口にするとはな」
グレサスは僅かに眉を上げた。だが、グレサスの言っていることは正しい。そしてデュランの言っていることもまた正しかった。ここはジュラ。本来であれば、ほんの僅かな油断が死へ繋がる場所だというのに、昨夜はあまりにも何も起こらなかった。魔物の気配すらない。いや、正確には近づいてきたものがいなかった。その理由を、デュランは隣にいる男を見ながらなんとなく理解していた。眠っているだけで周囲へ膨大な魔力を垂れ流し、暗闇の森を黄金色へ染め、サーチすらまともに機能しなくなるほどの存在。そんなものの近くへ、わざわざ近づいてくる魔物がいるだろうか。
「危険という言葉が……この場では妙に似合わないですよ………」
「なんだ?」
「いえ、何でもありません」
デュランは立ち上がると、すぐに昨夜使った荷物をまとめ始めた。テントを畳み、鞄へ入れ、焚き火の処理をし、必要なものを腰へ固定する。その様子を見ながらグレサスは明らかに機嫌が良かった。デュランがちらりと見ると、三十代の男とは思えないほど妙にウキウキしている。一刻も早く捕まえたいのだろう。あの白いもふもふを。本当に神獣を捕獲するつもりらしい。
「準備はできたか?」
グレサスが笑う。
「ええ、お待たせしました。それでは行きましょうか」
「方角は決まっているのか?」
「ええ。夜のうちに、進む方向は決めています」
デュランは短く答えると片手を上げた。淡い光が指先へ集まり、「ライトトラップ」と唱えた瞬間、森の中の地面や木の根元、草の隙間など、そこかしこで小さな光が点々と浮かび上がっていく。それは奥へ向かうように、まるで道を示すように続いていた。
「ほう……器用なことをする。それを仕掛けていたから安全と判断したのだな」
グレサスは少し感心したように周囲を見渡す。デュランは一瞬だけ黙った。どうやらグレサスは勘違いしている。ライトトラップを、魔物が近づいた際に反応する罠として仕掛けていたと思っているらしい。実際、その用途でも使える。だが今回、デュランが使った理由は違う。昨夜見つけた小さな足跡、その痕跡があった位置へ一定間隔で光を仕込んでおいたのだ。追跡のために。
ただし、その事実をデュランはまだグレサスへ伝えるつもりはなかった。最初から神獣以外の人物を追いかけると言えば、この男がどう反応するか分からない。ならば少しだけ、利用させてもらう。
「ええ。このコカトリスがどこから来たのか、少し道を辿らせてもらいました。その道へ念のためライトトラップを仕掛けておいたのですが……何も引っ掛かりませんでしたね」
デュランは点々と続く光を見ながら、その先へ視線を向ける。
「ですが、この先から魔物が来た。それだけは判断できます」
グレサスの目が僅かに細くなった。その瞬間、デュランの心臓が少しだけ跳ねる。自分が話をずらしていることに気づいたのか。それともライトトラップの配置そのものから何かを見抜いたのか。グレサスは黙ったままデュランを見たあと、「ほう……大したものだ。さすが学院を首席で卒業しただけのことはある」と普通に褒めた。
「…………え?」
「どうした?」
「いえ……ありがとうございます」
何も気づいていない。完全に信じている。デュランは少しだけ拍子抜けしながらも、そのまま歩き始めた。グレサスも一切疑う様子なく後ろをついていく。
「どうやら、こちらですね」
デュランが見ているのは足跡だった。昨日見つけたもの。葉が覆い被さり、ところどころ途切れ、土の硬い場所では消えている。だが、僅かな窪み、草の倒れ方、枝の折れ方。そこには確実に痕跡が残っていた。何より、この足跡は追いやすい。あまりにも真っ直ぐなのだ。迷った形跡がなく、右へ行ったかと思えば戻るような動きもない。ただひたすら一直線。ならば追跡する側も基本的には真っ直ぐ進めばいい。少し先で再び痕跡を見つけられる。
そんなデュランの背中を見ながら、グレサスは一つ確信していた。連れてきて正解だった。道を見る。痕跡を見る。考える。そういうことはデュランに任せればいい。
グレサス自身は足跡など見ていなかった。視線はずっと遠く、木々の隙間や上空、左右、森全体へ向けられている。何か、生き物、巨大なもの、あるいは白く、もふもふしたもの。それを探している。
「サーチ」
グレサスは広範囲へ魔力を広げ、周囲の生命反応を探りながら進んでいく。そしてしばらく歩いたところで、先頭を歩いていたデュランが突然足を止めた。
「…………」
地面を見る。足跡。その先。
ない。
完全に途切れている。
「…………グレサス」
「なんだ?」
「見えますか?」
デュランが前を見たまま尋ねると、グレサスは少し笑った。
「ぁあ。歪んでいる。ここから先は……まるで別の空間だと言いたげだな」
景色そのものは変わらない。木々、草、土。同じジュラ。だが確かに境界がある。目では分かりにくいが、魔力を広げればはっきり分かる。その先ではサーチが完全に遮断されていた。
「恐らくですが、この先が……迷いの森と呼ばれる場所でしょう」
「迷いの森か。ここへ辿り着くまでに、ずいぶん迷っていたのにか?」
「ええ。あれらは……小手調べのようなものだったのでしょう。この先からが、本当のジュラの未知になるはずです」
デュランは一歩踏み出すべきか、ほんの僅かに迷った。だが、その横をグレサスが普通に歩いていく。
「グレサス!? もう少し……話し合いをしてから入るべきでは!?」
「下らん。この空間そのものが厄介なら、いざとなればぶち壊せばいいだけだ」
デュランは黙った。普通なら「何を言っている」と思う。だが目の前の男ならやりかねない。いや、それどころか本当にできるかもしれない。自分の中で謎の信頼が、あまりにも根深く芽生えている。
「はぁ……分かりました。ですが、決め事を作りましょう」
「なんだそれは?」
「もし我々が迷っていると即座に判断できた場合、その時はすぐに抜け出すべきでしょう。その際は、頼みます」
グレサスが笑った。
「面白いことを言う。すでに迷っているかどうかすら判断できなくなる場所なのだろう?」
「ええ。ですが、生きて出られた者の言葉が文献として残っています。何度も何度も同じ場所へ戻され、引き返そうとしても気づけば同じ地点へ戻る。目印を付けても、それすら消され、完全に方向感覚を狂わされる。そして魔物を倒しても、また同じ道を通れば同じように現れるとも記されています。他にも、建物のようなものを見たという記録もありますが、近づこうとしても辿り着けなかったそうです。判断するなら、それらの現象を確認してからです」
その瞬間、グレサスの目がギラリと光った。
「倒しても倒しても……復活する魔物か」
「ええ」
デュランは頷く。言いたいことは分かっている。そういう魔物が、たとえば災害級なら、同じ相手と何度も何度も戦わされる。こちらは体力を削られ、魔力を削られ、消耗していく。だから油断するな。そう言いたかった。
だが。
グレサスの口から出てきた言葉は違った。
「それはつまり、魔力石が取り放題ということではないのか?」
「…………」
デュランはしばらく黙った。
「えっと……概ね、合っています」
違う。言いたかったのはそういうことではない。だが、目の前の男に「何度も戦えば消耗する」などと説明する意味がどう考えても薄い。
「ははは! それは実に面白いな!!」
「ええ……面白い……ですね」
本当に意味が違うが、グレサスはご機嫌だった。
「魔力石を大量に持ち帰れば、陛下も喜ぶだろう」
それは確かに否定できない。ジュラの魔物は、そんじょそこらにいる魔物とは質が違う。魔力量も、魔力石の大きさも、王国周辺で手に入るものとは比較にならない可能性が高い。そして今、王国ではメモリアルストーンの普及により、魔力石の需要そのものが急激に高まっている。大量に持ち帰れば国王カイネルが喜ぶ。その点だけを見れば、グレサスの発想は間違っていない。
「あり得ないが……」
グレサスがふと呟いた。
「何がでしょうか?」
「あの白いもふもふを捕まえられなかったとしても、最悪、魔力石だけでも十分な土産になるか?」
デュランは少しだけ頭が痛くなった。
「恐らくですが……その白い存在は、神獣ではないと思います」
グレサスがすぐに振り返る。
「だから……なぜそう言い切れる?」
「文献によれば、海に現れた神獣と呼ばれる存在は、非常に巨大だったと記されています。海そのものを自由自在に操るような力を持ち、数多の海の魔物を従え、船を沈め、多くの者が海へ飲まれ、食われたと」
一瞬、静かになる。
グレサスは僅かに考えたあと、真面目な顔で言った。
「それならば、あいつもジュラを操っていた。なにせ、この俺から逃げ切ったのだ。普通に考えて、あり得るか?」
「普通は、神獣はあなたから逃げたりするような存在ではないと私は言っているのですよ」
だが、その言葉を口にしながら、デュラン自身、妙に説得力があるとも思っていた。もし本当に神獣とグレサスが出会ったなら、どうなる。伝承に残るほどの巨大な存在。土地や海を支配するほどの怪物。その存在はグレサスを見て、どう判断する。戦うのか。逃げるのか。警戒するのか。それだけはデュランにも分からない。
「…………分かりました。ですが、グレサス」
「まだ何かあるのか?」
デュランは核心を突くように真っ直ぐ言った。
「陛下は、神獣を連れて帰られるよりも、魔力石を大量に持ち帰った方がよほど喜ばれると思いますよ?」
グレサスは一瞬黙ったあと、網を肩へ乗せて笑った。
「そうか、それなら………それは、捕らえてからのお楽しみというやつだ。ハハハハハ!!」
完全にご機嫌だった。
デュランはそんなグレサスを見ながら、小さく呟く。
「できれば……神獣とは出会いたくないのですけどね」
だが、デュランが本当に気にしているものは別にある。足跡。ここへ単身で入った謎の人物。若い。強い。水と火。コカトリスを倒す。迷わない。その人物が何者なのか。何を目的としてこのジュラへいるのか。そして、なぜこの先へ向かっているのか。それを知ることの方が、神獣そのものを捕まえるより価値があるかもしれない。デュランはそう思い始めていた。
もちろん、どちらも得られなかったとして、大量の魔力石を持ち帰れば陛下は喜ぶ。だが、ここまで来た。ここまで未知の領域へ足を踏み入れた。だから、それだけで満足できない。その点だけは、デュランもグレサスとよく似ていた。
その頃、さらにジュラの奥では、メーレとレイズとディアの三名が別の意味で頭を悩ませていた。
「なぁ……メーレ?」
レイズが少し嫌そうな顔で呼ぶ。
「なんだ。下らぬ質問なら後にしろ」
「いや、違うんだよ。その人物に……心当たりっていうか、ほぼ核心っていうかさ……」
「なんだ? そんなこと、我も分かっている。王国の騎士というやつだろう。あやつは過去に何度もジュラへ来ている」
レイズの表情が引きつった。
「だけど! あれの強さをメーレはちゃんと知らないだろ!? グレサスって名前だ。とんでもなく強い。たぶん俺とメーレ、二人がかりでも……いや、ディアを含めても、まともに手に負えないかもしれないやつなんだ!!」
ちゃんとディアも仲間の戦力として数えたレイズ。
メーレは数秒レイズを見たあと、淡々と返した。
「そんなことか」
「そんなこと!?」
「何も真正面から戦うつもりなどない。レイズ、お前は魔法を打ち消せる。そして我は、ジュラの自然そのものを動かせる。魔物をぶつけることもできる。」
その時だった。
「ワタシ!」
ディアが突然割り込んだ。
レイズとメーレが見ると、ディアは精一杯胸を張る。
「タベル!」
「…………何を?」
「マリョク!! タベル!!」
レイズは頭を掻いた。
「いや、魔力を食べるって……それ別に今は――」
「重要なことだ」
メーレが遮る。
「レイズ。ディアは不死の身だ。ゆえに時間をかければ、どんな強者であろうと必ず打つ手はある」
ディアはよく分かっていない顔で、それでも力いっぱい頷いている。
「それに、我はここを守る者だ。逃げることはできぬ。やることは決まっている。お前の力、ディアの力、そして我の力。三名で合わせれば、どうにかなるものだ」
「…………」
レイズは大きく息を吐いた。
「はぁ……そんな次元じゃないんだよ。あいつもさ……」
途中で言葉を止めると、メーレの目が少しだけ鋭くなる。
「ならば、レアリスが目覚めてもよいというのか?」
「いやいや!! それは絶対ダメだろ!?」
「ならば、うじうじと泣き言を言うな。我らがやるべきことはここを守ること。そしてレアリスを目覚めさせぬこと。それが我の使命だ。お前も同じはずだ」
レイズは数秒固まったあと、自分を指差した。
「いや、なんで俺がいつの間にかレアリスの番人みたいな位置に加えられてんだよ……」
「細かいことだ」
「細かくねぇよ!」
だが、口ではそう言いながら、レイズも理解している。メーレとディアの二人だけに任せる。それは絶対にまずい。そして何より、グレサスとデュランの二人と最も平和的に話ができる可能性があるのは自分だ。
レイズは森の奥を見ながら、小さく呟いた。
「話……ちゃんと通じたらいいけどな……」
「なんだ?」
「いや。メーレ、もし……もしもだぞ。グレサス達が引き返すなら、即座に迷宮から追い出してくれよ。できれば俺も会いたくないんだよ……」
メーレは小さく鼻を鳴らす。
「言われずとも分かる。帰るのであれば帰らせればよい。だが、やつらの目的が分からぬ以上、それは期待できぬ。」
レイズは小さく肩を落とした。
「そうだよな……」
だが、この三名はまだ知らない。
グレサスがジュラへ入り込んだ本当の目的。それは、神獣と信じて疑わない白いもふもふ――つまりディア。
そしてデュランが昨夜から追っている謎の人物。それは、まさに今メーレの隣にいるレイズ。
つまり。
二人が探しているものは、すでに同じ場所へ揃っていた。
本来ならば、争う理由などほとんどない。グレサスはディアを見つければいい。デュランは謎の人物の正体を知ればいい。そして、その二つとも今ここにいる。
にもかかわらず、グレサス達は自分達が探しているものがこの先に揃っていることを知らない。メーレ達は、迫ってくる二人が何を求めているのか知らない。だから互いに相手を警戒し、強敵だと考え、災害だと考え、戦う準備まで始めている。
最も簡単な解決となる鍵は、すでにここにあるというのに。
誰も、それに気づいていない。
ゆえに、歪な思い違いはさらに大きくなる。
そしてジュラから見れば、その光景はもっと単純だった。
グレサス。
デュラン。
レイズ。
誰も本来、ジュラの住人ではない。
それぞれが自分の目的を抱え、勝手に森の奥へ入り込み、勝手に互いを警戒し、勝手に事態を大きくしている。
結局のところ。
ジュラからすれば彼らは全員――ただただ、はた迷惑な御一行でしかなかった。




