デュランの考察
真っ暗なジュラ。
夜が深まれば深まるほど、巨大な木々に覆われた森は外界から完全に切り離されたかのような静寂に包まれていく。空を見上げたところで星の一つすら見えず、月明かりさえ木々の遥か上で遮られている。そんな闇の中で周囲を照らしているのは、二人が起こした小さな焚き火だけだった。
揺れる炎を眺めながら、デュランは短く告げる。
「私が寝ずの番をする。グレサス、あなたは休んでください」
「不要だ。デュラン、貴様こそ病み上がりだ。ゆえに寝て休め」
「…………その原因はすべてあなたでしょうに」
デュランの眉が僅かに動いた。
「そもそも私が病み上がりなのは、あなたとの模擬戦であそこまで負傷したからでしょう。それに――グレサス、あなたが先ほどすべて治してしまいました。この通りです」
そう言ってデュランは立ち上がると、腰に差していた剣を抜いた。
暗闇の中で鋭い一閃が走る。右から左へ。その勢いを殺すことなく身体を捻り、下から上へ切り返す。踏み込み、さらに一閃。病み上がりの人間とは到底思えないほど華麗な剣捌きであり、足運びにも乱れはなく、剣先も微塵もぶれていない。
数度の斬撃を披露したところで、デュランは静かに剣を鞘へ戻した。
「どうです。問題ないでしょう」
グレサスはしばらく黙っていた。
そして。
「こんな真っ暗な中で何をはしゃいでる、デュラン」
「…………」
「貴様……まだ若いな」
「グレサス!?」
デュランが思わず振り返った。
「あなたにだけは言われたくないですよ! それに私は今、問題なく身体が動くことを示しているのですよ!?」
珍しく語気を強めたデュランを見て、グレサスはようやく意味を理解したらしい。僅かに笑みを浮かべると、手に持っていた網を地面へ置いた。
「そういうことか……。ならば、お言葉に甘えるとするか」
「最初からそう言っています」
「なにせ、先ほどの不調もほとんど治ってはいるが……まだ僅かに身体が重い。久方ぶりに疲れというものを感じているのかもしれんな」
「…………」
デュランは何も言わなかった。
おそらく疲労ではない。
先ほど食べた、生焼けのコカトリス。それが原因で腹の調子を崩した影響が、まだ僅かに残っているのだろう。
だが、それを説明したところで、この男が素直に認めるとも思えなかった。
「はい。それでは、そちらで横になっていてください」
デュランが用意したのは簡易的なテントだった。王国の遠征で使用される最低限のもので、柔らかな寝具があるわけでもなく、地面の硬さもそのまま身体へ伝わる。決して快適とは呼べないが、この二人にとっては、それでも十分に寝床と呼べるものだった。
「では任せた」
そう言い残し、グレサスはテントの中へ入っていく。
しばらくすると物音が消えた。
デュランは一人、焚き火の前へ腰を下ろす。
パチッ――。
薪が小さく爆ぜる。
揺れる炎を眺めながら、デュランはようやく今日起きた出来事を一つずつ頭の中で整理し始めた。
以前、ジュラの奥へ進むことができなかった。
その原因については、すでにある程度まで推測できている。
グレサスだ。
正確には、この男が放つあまりにも巨大な魔力。
ジュラそのものがグレサスを危険な存在として認識し、奥地へ近づけまいとしている可能性が高い。道が閉ざされ、進んでいるつもりでも、いつの間にか同じ場所へ戻される。まるで森そのものに意思があり、侵入する者を選別しているかのような現象だった。
だが。
今回は違う。
「…………なぜだ」
デュランが小さく呟く。
光を消したから進めた。
最初はそう考えた。
だが、それでは説明がつかない。
グレサスが自らの光を抑えるよりも前に、二人はすでに以前より奥へ進むことができていた。
つまり。
光そのものが原因ではない。
ならば、何が違った。
何か別の条件が存在するのか。
ジュラそのものに変化が起きているのか。
あるいは――自分達以外の何者かが、この森へ何らかの影響を与えているのか。
「…………」
考えても、まだ答えは出ない。
デュランは小さく息を吐き、何気なく視線を横へ向けた。
そこには、コカトリスの残骸が転がっている。
本来であれば災害級と呼ばれ、王国の騎士ですら複数人で対処すべき魔物。だが今となっては見る影もない。二人がここへ辿り着いた時にはすでに死んでおり、さらにグレサスが豪快に引き裂いてその大半を食べてしまったため、残っているのは骨や羽、僅かな肉片ばかりだった。
「…………」
デュランはしばらくそれを眺めていた。
そして。
眉を寄せる。
「……ない」
何かがおかしい。
立ち上がり、残骸へ近づく。
骨。
肉片。
周囲の地面。
一つ一つ確認する。
だが――ない。
「魔力石が……見当たらないですね」
コカトリスほどの魔物であれば、当然その体内には相応の魔力石が存在する。
グレサスが食べた?
「…………」
デュランは一瞬だけ、本気でその可能性を考えた。
「いや……さすがに食べないですよね?」
いくらグレサスでも石まで食べるとは思えない。
思いたい。
そもそも、このコカトリスは二人がここへ辿り着いた時にはすでに死んでいた。
ならば。
「このコカトリスを倒した者が……魔力石を抜き取り、持ち去った?」
それなら説明がつく。
つまり。
自分達より先に。
ここには誰かがいたのは間違いない。
その瞬間だった。
背後が徐々に明るくなった。
「……?」
黄金色。
先ほどまで真っ暗だった森の一角が、ゆっくりと黄金色へ染まっていく。
しかも。
光っているのは――。
「…………テント?」
デュランは目を見開いた。
「まさか!?」
慌てて立ち上がり、テントの中を覗き込む。
そこには。
「…………」
すやすやと眠っているグレサスがいた。
完全に寝ている。
だというのに、その身体からは膨大な黄金色の魔力が絶え間なく溢れ出し、薄い布越しに周囲を明るく照らしていた。
「…………なるほど」
デュランはしばらく無言で眺めた後、ようやく理解した。
グレサスは普段、意識的でなければ自らの魔力を抑えられない。
つまりそれは。
眠ってしまえば――抑えられない。
「この男は……もはや意識していなければ、自分の魔力を抑えることすらできないのですか」
呆れたように呟く。
本来ならば王国の騎士として、これほど誇らしい姿もないのかもしれない。己を鍛え続け、誰よりも強くなり、ついには眠っているだけで周囲を照らしてしまうほどの魔力を身につけた。
だが。
今こうしてジュラの真ん中で見ていると。
「鍛えすぎるのも……考えものですね」
デュランは苦笑した。
そして、そのグレサスから溢れる黄金色の光によって、先ほどまでは暗闇に隠されていた地面まで明るく照らし出される。
「…………ん?」
デュランの視線が止まった。
地面。
何かがある。
しゃがみ込む。
「これは……」
足跡。
人間のもの。
一つではない。
いくつも連続して残っている。
デュランの表情から、先ほどまでの呆れが消えた。
「やはり……」
コカトリスの魔力石がない。
そして人間の足跡。
偶然とは考えにくい。
デュランは自分の足をその横へ置き、大きさを比較する。
「…………小さい」
予想外だった。
コカトリスほどの魔物を倒した存在だ。
相応の体格。
相応の装備。
少なくとも自分と同程度か、それ以上の大人を無意識に想像していた。
だが違う。
足跡はデュランよりも明らかに小さい。
僅かな差ではない。
大人と青年。
それほどの違いがある。
「つまり……これを成した者は、それほど年齢が……?」
デュランは眉間に皺を寄せた。
「馬鹿な……」
ここはジュラ。
それもかなりの奥地。
並の若者が一人で辿り着ける場所ではない。
そもそも、この足跡の主がコカトリスを倒したのだとすれば、年齢という常識で判断すること自体が間違っている可能性さえある。
デュランは立ち上がり、さらに周囲を調べ始めた。
すると、グレサスの黄金色の光のおかげで、先ほどまでは見えなかった痕跡が次々と浮かび上がってくる。
少し離れた場所。
「…………水?」
石の窪みにできた小さな水溜まりのようなもの。
だが、周囲の地面は乾いている。
雨が降った形跡もない。
近くに水源もない。
なのに、そこだけが濡れている。
「自然にできたものではない……ですよね?」
さらに視線を動かす。
今度は地面の一部が黒く焦げている。
「焚き火……」
そして、その近く。
一本の枝。
デュランはそれを拾い上げた。
ただの枝ではない。
細く、先端が鋭く整えられている。
表面には僅かに脂が付着していた。
デュランは枝を見る。
そしてコカトリスの残骸を見る。
「…………なるほど」
水を用意した。
火を起こした。
枝を加工した。
そこへコカトリスの肉を突き刺した。
そして。
「焼いて……食べたんですね」
デュランの眉間にさらに皺が寄った。
コカトリスを倒した。
魔力石を抜き取った。
その肉を切り分け。
火を起こして焼いた。
そして何事もなかったかのように先へ進んだ。
「いったい……何者ですか」
だが。
まだ痕跡は残されていると思った。
デュランは焚き火跡の周囲へ視線を落とした。
属性石。
ない。
砕けた欠片すら見当たらない。
先ほどデュラン自身が焚き火を起こした際には、使用した火属性の石が役目を終え、細かな破片となって周囲へ散っている。
だが、この焚き火跡にはそれがない。
わざわざ使用済みの無価値な石の欠片だけを拾い集めた?
考えにくい。
これほど堂々と足跡を残している人物だ。
痕跡を隠そうとしている様子など微塵もない。
ならば。
「属性石は使用していないですね」
つまり。
火を起こしたのは本人の魔法。
そして。
デュランは不自然な水溜まりを見る。
こちらも同じだとすれば。
「水と火……ですか」
相対する二つの属性。
非常に珍しい。
人は誰しも魔力を持つが、明確な属性適性を持つこと自体が一つの才能でもある。基本的には一人一つ。才能に恵まれた者ならば二つ。
そして。
ごく一部。
そんな常識から完全に外れてしまった者達がいる。
デュランは背後を見る。
黄金色に輝くテント。
「…………」
すやすやと眠っている男。
その一人がグレサス。
そして――ウラトス。
デュラン自身の属性は光と風。
だからこそ先ほど、クリアランスという魔法の構造を理解し、グレサスへ教えることはできても、自分自身で発動することはできなかった。
属性とは、それほど明確な制約なのだ。
「水と火……そして、この足跡の大きさから考えれば、かなり若い……」
デュランは考える。
王国の騎士。
貴族。
これまで自分が知った者達の顔を一人ずつ頭の中へ並べていく。
だが。
該当者がいない。
いや。
一人だけ。
足跡の小ささから、ふと脳裏をよぎった少年がいた。
金色の髪。
まだ幼さの残る体格。
年齢からは考えられないようなことを、これまで何度もやってのけてきた少年。
「……アルバードの……レイズ……?」
その名を口にする。
だが。
次の瞬間。
「いや」
デュランは即座に首を横へ振った。
「あり得ないな」
考えるまでもない。
レイズの属性は――氷。
少なくともデュランは、そう認識している。
足跡の大きさだけならば、確かに一致する可能性はある。
そしてレイズという少年が、年齢という尺度だけで測ることのできない存在だということも、デュランは知っている。
だが。
属性が違う。
この場所に残されているのは水。
そして火。
氷ではない。
ましてや相反する水と火、その両方をレイズが扱えるなどという話を、デュランは一度として聞いたことがない。
「水と火……レイズではないね」
そこで。
レイズという候補は、デュランの頭の中から完全に消えた。
「となると……誰でしょうか?」
疑問はさらに深まる。
水。
火。
若い。
コカトリスを単独で倒せるほどの戦闘能力。
魔力石を抜き取り、その肉を食料として利用するだけの知識。
その条件に当てはまる人物を、デュランは知らない。
ウラトスの可能性も考えた。
だが。
足跡を見る。
違う。
グレサスもウラトスも、自分より背が高い。
当然、足も大きい。
この足跡とは一致しない。
「…………誰なんですか」
その疑問が。
徐々に好奇心へと変わっていく。
デュランはさらに足跡を追った。
一歩。
また一歩。
グレサスの黄金色の光が届く範囲を確認しながら、その進行方向を調べていく。
そして。
さらに奇妙なことに気づいた。
「…………迷っていない」
足跡が右往左往していない。
立ち止まり、周囲を確認した様子もない。
引き返した形跡もない。
ただ。
真っ直ぐ。
恐ろしいほど真っ直ぐに。
ジュラの奥へ向かっている。
「まるで……この先に何があるのか、最初から分かっているような……」
その事実が、デュランには何よりも不気味だった。
強いだけなら理解できる。
複数属性を持つ天才だって、極めて珍しいだけで存在しないわけではない。
だが。
ジュラの中を迷わない。
デュランとグレサスですら道を閉ざされ、方向感覚を狂わされ、何度も同じ場所へ戻された。
なのに。
この人物には迷った痕跡がない。
目的地を知っている。
そして。
そこへ向かう方法まで知っているかのように。
「…………面白いですね」
デュランの口元に、僅かな笑みが浮かんだ。
グレサスは神獣を探すことを目的としている。
自分もそのためにここへ来た。
だが。
もしかすると。
「この人物を見つける方が……神獣を闇雲に探し回るより、価値があるかもしれませんね」
何者なのか。
なぜジュラにいる。
どこへ向かっている。
そして。
どうしてこの森を知っている。
知りたい。
「明日……グレサスには上手く理由をつけて、この者の後を追うことにしましょうか」
そう呟きながら。
デュランは振り返った。
そこには。
黄金色に輝くテント。
「…………」
あまりにも目立つ。
暗黒に包まれたジュラの中で、巨大な灯籠でも置かれているかのようだった。
デュランは思わず笑った。
「にしても……本当に分かりやすいですね。あれは」
寝ているだけなのに、自分の居場所を全力で周囲へ知らせている。
ジュラの魔物達からすれば、「ここにいます」と宣伝しているようなものだ。
デュランは一度、自分達が来た方向へ戻った。
そして。
「サーチ」
魔力を周囲へ広げる。
存在を探知する。
だが。
「…………」
何も分からない。
正確には。
一つだけ。
とてつもなく巨大な反応だけがある。
グレサス。
すぐ後ろから放たれている膨大な魔力が、周囲の小さな反応をすべて掻き消してしまっている。
「…………」
デュランは無言でテントを見る。
「これでは寝ずの番の意味がないではありませんか」
何かが近づいてきたところで、サーチではまともに感知できない。
それどころか、こちらは黄金色に輝いている。
隠れることすらできない。
ならば。
デュランは諦めたように小さく息を吐いた。
「私も……少し休みますか」
鞄を地面へ置き、枕代わりにする。
だが。
周囲を見る。
石
枝。
枯れ葉。
さすがに、このままでは寝づらい。
デュランは片手を上げた。
「風よ」
柔らかな風が地面を撫でる。
枯れ葉が舞い上がり、小さな枝が飛び、土埃が端へ寄せられていく。
あっという間に、自分が横になる程度の場所だけが綺麗になった。
「…………」
その瞬間。
昼間の自分の言葉が脳裏をよぎった。
魔力を無駄遣いするな。
確か。
グレサスへそう言った。
「…………」
デュランは黄金色に輝くテントを見る。
「これは……必要な使用です」
誰に言い訳しているのか、自分でも分からない。
そのまま鞄へ頭を乗せる。
本来なら。
ジュラという場所は、一瞬たりとも気を抜いていい場所ではない。
だが。
すぐ隣には。
眠っているだけで周囲を黄金色に染め、サーチすらまともに使えなくしてしまうほどの男がいる。
何かが襲ってきたとしても。
おそらく。
先に不幸になるのは――襲ってきた側だろう。
「…………」
デュランは目を閉じた。
先ほどまでグレサスへ魔力の無駄遣いだと怒っていた男も。
こうして。
どこか気を許してしまうのだった。
そして。
黄金色の光に照らされたジュラの夜は、静かに更けていく。
だが。
デュランは一つ。
致命的な考察を忘れていた。
彼の推理は決して間違ってはいない。
足跡。
コカトリス。
抜き取られた魔力石。
人為的に生み出された水。
そして火。
そこから導き出した答えも、理屈だけを見れば極めて正しい。
だからこそ。
デュランは「氷属性しか持たないレイズ」を、候補から真っ先に外した。
しかし。
属性を持っていなければ、その魔法を使えない。
そんな常識を。
すでに覆すものが、この世界には存在している。
――メモリアルストーン。
それさえあれば。
氷属性しか持たないはずのレイズであろうと。
水を生み出せる。
火を起こせる。
そして皮肉なことに。
そのメモリアルストーンという存在を、デュラン自身も知っていた。
にもかかわらず。
あまりにも綺麗に残された痕跡を一つ一つ紐解き、そこから人物像を組み上げることに集中しすぎたがゆえに。
その可能性だけを。
デュランは――完全に見落としていた。
だからこそ彼はまだ知らない。
「流石にレイズではない…」
そう断定したその少年こそが。
この場所でコカトリスを倒し。
魔力石を抜き取り。
水を使い。
火を起こし。
その肉を焼いて食べ。
そして迷うことなくジュラの奥へと進んでいった――。
すべての痕跡の主であることを。




