ジュラの攻略①
真夜中のジュラ。
当然ながら、この森に街灯などという気の利いたものは存在しない。
昼間でさえ巨大な木々が空を覆い隠し、陽光すらまともに地上へ届かないほど鬱蒼とした森なのだ。ましてや夜ともなれば、その暗さは王国の森などとは比べものにならず、空を見上げたところで月も星も見えない。辺りを埋め尽くすのは、どこまでも続いているように感じられる黒い木々と、時折どこか遠くから聞こえてくる正体不明の鳴き声だけだった。
本来であれば、焚き火でも起こして、その僅かな光へ縋るしかない。
小さな炎の周囲だけがぼんやりと照らされ、その一歩外側には何が潜んでいるのかさえ分からない。そんな孤独と恐怖を嫌でも感じさせられるのが、夜のジュラという場所のはずだった。
だが。
今、グレサスとデュランがいる一帯だけは――そんなジュラ本来の暗闇とは、まるで無縁だった。
明るい。
とにかく明るい。
焚き火など必要ないのではないかと思えるほど、辺り一帯が眩い黄金色の光によって照らされている。
その光源はもちろん――。
「…………」
デュランは、隣に座っている男を見た。
グレサス。
王国最強の剣とまで呼ばれるその男の全身から、相変わらず黄金色の魔力が溢れ続けていた。本人が何か特別な魔法を使っているわけではない。ただそこに座っているだけ。それなのに、身体から自然と漏れ出している魔力が光となり、周囲の木々どころか頭上の枝葉までぼんやりと黄金色へ染め上げている。
ジュラへ入ってからずっとこれだった。
最初こそデュランも興味深く観察していた。
なぜグレサスだけが光るのか。
ジュラの何らかの作用なのか。
あるいはグレサス本人の魔力が、この森に満ちる特殊な魔素と反応しているのか。
いくつもの可能性を考えていた。
だが。
何時間も隣で光られ続ければ、そんな知的好奇心にも限界がある。
「…………目が疲れますね」
デュランが小さく呟いた。
グレサスの光は灯りとしては便利だった。
便利なのだが――明るすぎる。
暗闇へ目を慣らそうにも、すぐ隣に人間の形をした巨大な灯火が座っているのだから、どうしようもない。
しかし。
「…………グレサス?」
返事がない。
いつもなら何かしら言い返してくる男が、妙に静かだった。
デュランが改めて隣を見る。
グレサスは僅かに俯き、珍しく深刻そうな表情を浮かべていた。
「グレサス?」
もう一度呼ぶ。
「…………ん?」
ようやく顔を上げた。
「どうしたのですか。そのような顔をして」
「なんだかな……」
グレサスは眉間へ皺を寄せたまま、自分の腹へ視線を落とした。
「少し腹が痛いような気がする。」
「…………」
デュランは黙った。
原因は聞くまでもなかった。
だが、グレサスは至って真剣だった。
「さすがはジュラ……と呼ぶべきか……」
「…………はい?」
「俺にこれほど明確な不調を感じさせるとはな。少し疲れというものを、久々に感じているのかもしれん」
「…………」
デュランは何とも言えない表情でグレサスを見つめた。
本気だ。
この男、本気で言っている。
ジュラを歩き回ったせいで腹が痛くなったと思っている。
デュランの頭に、数刻前の光景が鮮明に蘇った。
コカトリスの死体。
それを何の躊躇もなく千切り、火へかけ。
そして――まだ中まで十分に火が通っていない肉へ豪快に齧りついたグレサス。
デュランは確かに言った。
ちゃんと焼いて食べてください、と。
だがグレサスは笑っていた。
『ハハハ! 意外とこのくらいがちょうどいいぞ!』
その結果が、今である。
「…………」
デュランは額へ手を当てた。
疲労ではない。
ジュラの恐ろしい魔力でもない。
ましてや未知の呪いなどでもない。
この男は――。
ただ腹を壊したのだ。
それだけだった。
もっとも、グレサスが勘違いする理由がまったく理解できないわけでもない。
王都からジュラまで移動し、そのまま森へ入り、何時間も探索を続けている。本来であれば、それだけでも常人ならばまともに動けなくなるほど疲労していて当然だった。
だが、目の前の男はグレサスだ。
体力も。
魔力量も。
魔力の回復速度も。
何もかもが常人の尺度から大きく外れている。
おそらく本人にとって「疲労で身体の調子が悪くなる」という経験自体が、ほとんどないのだろう。
だからこそ。
腹が痛い。
身体が重い。
なんとなく気持ちが悪い。
そんな普通の人間ならば一度や二度は経験したことのある体調不良を、グレサスは――。
『さすがはジュラ』
で片づけようとしている。
「…………はぁ」
デュランは小さく息を吐くと、自分の荷物へ手を伸ばした。
やはり準備してきて正解だった。
グレサスの荷物など、干し肉と水と、あの意味不明な網くらいしかなかったのだから。
デュランは荷物の中から、一冊の本を取り出した。
山岳地帯や森林地帯を探索する際に起こり得る問題と、その対処方法についてまとめられた本だった。毒を持つ植物の見分け方、飲料水の確保、怪我をした際の応急処置、魔物から受けた傷への対応。そして体調不良を起こした際に有効な薬や魔法についても、簡潔ながら記されている。
ページをめくる。
「…………これですかね」
一つの項目で指が止まった。
――クリアランス。
疲労や体内へ入り込んだ異物、魔素などによる不調を軽減するための魔法。厳密には傷を塞ぐ治癒魔法とは少し異なるが、体内へ干渉し、身体の正常な状態を取り戻すという意味では治癒系統に近い。
デュランは説明へ目を走らせる。
魔力構造。
必要属性。
発動時に意識すべき場所。
そして――自分では使えないことも、すぐに理解した。
「グレサス」
「なんだ?」
「クリアランスという魔法を聞いたことはありますか?」
グレサスが顔を上げる。
「こんなときに魔法の話か?」
「必要だから聞いているのです」
「どんな魔法だ?」
「知らないということですね」
「だから聞いている」
デュランは本を見ながら説明した。
「簡単に言えば、疲労や身体の不調を取り除くための魔法です。治癒魔法に近いものと考えてください」
グレサスの表情が僅かに明るくなった。
「ほう。それならばデュラン、俺にかけてみろ」
「無理です」
「…………なに?」
「私では属性が足りません」
グレサスの眉が寄る。
「では、どうする?」
「グレサス。あなたが自分で使ってください」
「…………」
今度はグレサスがデュランを見た。
「デュラン」
「なんです?」
「魔法とは、名前を聞いただけで使えるものではないぞ?」
「知っていますよ」
「ならば馬鹿馬鹿しい。俺はそんな魔法を使ったことなどない」
「ですから、今から説明します」
「…………」
デュランは本を片手に、グレサスへ向き直った。
「まず、お腹へ手を当ててください」
「こうか?」
「ええ。そしてゆっくりと魔力を流してください。本当にゆっくりです。痛みが強くなった場合は、すぐに止めてください」
「ふむ」
「体内へ直接干渉する魔法です。外へ放つ魔法とは違いますから、慎重に――」
デュランは説明を続ける。
クリアランスは水と光を組み合わせた複合魔法に近い。
光によって異常のある場所へ干渉し、水の性質によって不要なものを流す。
グレサスの不調が先ほど食べたコカトリスに含まれていた濃密な魔素によるものだと仮定するならば、その魔素が体内――おそらく腸の周辺で悪さをしている可能性が高い。
ならば。
原因となっている魔素を砕く。
そして流す。
それだけを意識すればいい。
「光属性で痛みの原因へ干渉するイメージを持ってください。そして水属性で、それを身体の外へ流す。水槍と光属性の魔法を同時に生成するような感覚で――」
グレサスが腹を触る。
そして。
「…………ハハハ」
突然笑った。
「何がおかしいのです?」
「いや。分かったぞ」
「何がです?」
「ここだ」
グレサスが腹の一部分を押さえる。
「痛みと呼ぶほどではないが、確かに気色の悪い感覚がある」
「そこへ慎重に魔力を――」
「一応聞くが」
グレサスがデュランを見る。
「俺の臓器は問題ないのだな?」
「ええ。ですから慎重に――」
「――クリアランス」
「…………え?」
次の瞬間。
グレサスの腹部から、眩い光が溢れた。
「ンググググッ……!!」
「グレサス!?」
デュランが立ち上がる。
グレサスの身体が僅かに震えた。
「だから慎重にと言ったでしょう! なぜいきなり――」
「ハハハ……!」
「笑っている場合ですか!」
「先に問題ないと肯定したのはデュラン、貴様だ……!」
「話は最後までちゃんと聞いてください!」
数秒後。
光が収まった。
「…………」
グレサスが腹を触る。
そして。
何事もなかったかのように立ち上がった。
「治ったな……」
「え……」
デュランは言葉を失った。
本当に治ったのだろう。
先ほどまで僅かに曲がっていた背筋も伸び、顔色も戻っている。
初めて聞いた魔法。
しかも体内へ直接干渉する複合魔法。
それを説明だけで理解し、一度目で成功させた。
やり方はあまりにも乱暴だったが。
「…………本当に、あなたという人は」
デュランは呆れながらも、本を閉じた。
やはりこの男の魔法に関する感覚は異常だ。
剣ばかりが注目される男だが、その剣を支えている莫大な魔力と、その扱いに関する才能も尋常ではない。
だが。
そんなことを考えているデュランの前で。
グレサスは突然歩き出した。
「…………グレサス?」
返事はない。
「グレサス。どこへ?」
デュランも慌てて立ち上がり、荷物へ手を伸ばす。
すると。
「ついてくるな」
グレサスが背中を向けたまま短く言った。
「はい?」
「少し用を足すだけだ」
「…………」
デュランの手が止まった。
そして。
「ああ……」
すべてを理解した。
クリアランスによって体内の異物を流した。
流したのであれば。
当然――その後がある。
グレサスは何も言わず、そそくさと森の奥へ歩いていった。
「…………」
デュランは見送る。
そして。
「…………あそこか」
すぐに居場所が分かった。
当然だった。
真夜中。
月明かりすら届かないジュラの森。
その暗闇の中を。
一つの黄金色の光が、ゆっくりと移動している。
グレサスだった。
隠れているつもりなのだろう。
木々の奥へ進んでいる。
だが――。
光っている。
あまりにも光っている。
グレサスがどこで止まったのかまで、遠くからはっきり分かる。
「…………」
デュランは黙って視線を逸らした。
「あまり近づかないようにしておきましょう」
友人としての最低限の配慮だった。
グレサスほど誇りの高い男だ。
もしこの状況で自分が近づきでもしたら、どのような反応をするか分からない。
いや。
考えたくもない。
「しかし……」
デュランは遠くの黄金色の光を見る。
「隠れているつもりなのでしょうが……」
どう考えても。
「……隠れられるわけがないでしょう?」
しばらくして。
黄金色の光が再び動き始めた。
戻ってくる。
そしてグレサスは何事もなかったような顔でデュランの前まで歩いてきた。
ただし
表情だけは、妙に険しかった。
「デュラン」
「なんです?」
「早急に、この光をどうにかする術を考えろ」
「…………」
デュランは一瞬だけ黙った。
そして。
ようやく確信した。
「グレサス」
「なんだ?」
「魔力を一度、完全に抑えてください」
「…………なに?」
「身体へ纏わせている魔力を止めるのです」
グレサスの眉が動く。
「ほう。もう原因が分かったのか?」
「おそらくですが」
デュランはグレサスの身体を改めて観察する。
ジュラへ入ってからずっと黄金色に輝いていたため、何らかの外的要因によって発光しているのだと思い込んでいた。
だが。
違う。
ジュラそのものがグレサスを光らせているのではない。
この男は――。
「グレサス。あなた、常に魔力を身体へ纏わせているでしょう?」
「ああ」
あっさりと認めた。
「いつからです?」
「知らん。」
「…………知らない?」
「いつの頃からだったか。鍛錬をしているうちに癖になった」
「…………」
「むしろ今では、魔力を纏っていないと気持ちが悪い。」
デュランは頭が痛くなった。
魔力を武器や身体へ纏わせ続ける。
言葉にすれば簡単だ。
だが、それを数時間維持するだけでも、並の騎士であればその日の魔力をほとんど使い切る。
デュランですら、常時維持などしようとは思わない。
それを。
この男は。
おそらく――。
「……まさか、寝ている間もですか?」
「ん?」
「魔力を纏っていますか?」
「知らん。寝ているからな」
「…………」
デュランは目を閉じた。
おそらく纏っているのだろう。
そうでなければ説明がつかない。
この男は呼吸するのと同じ感覚で魔力を循環させ、常に身体へ纏わせ続けているのだ。
そして、それが可能な理由もデュランには分かっていた。
グレサスの魔力回復能力。
その速度が、尋常ではない。
消費しながら回復する。
回復しながら消費する。
それを長年繰り返し続けた結果、本人にとって魔力を纏っている状態こそが通常になってしまったのだ。
「……とにかく、一度すべて止めてください」
「ふむ……分かった」
グレサスが目を閉じる。
「…………」
数秒。
何も起こらない。
「グレサス……?」
「待て」
「…………」
「こう……だったか?」
「…………まさか」
デュランは嫌な予感がした。
「魔力の抑え方を忘れたのですか?」
「忘れたわけではない」
「では?」
「長い間やっていなかっただけだ」
「それを普通は忘れたと言うのですよ」
「うるさいぞ」
グレサスが再び集中する。
黄金色の魔力が僅かに揺らいだ。
そして。
「…………こうだな」
ふっ。
一瞬だった。
それまでジュラの一帯を照らしていた黄金色の光が――完全に消えた。
「…………」
「…………」
暗闇。
本当の暗闇だった。
あまりにも突然だったため、デュランの目がすぐには対応できない。
先ほどまで黄金色に照らされていた木々も。
地面も。
グレサスの姿も。
何も見えない。
本来のジュラの夜が、一瞬にして二人を飲み込んだ。
そして。
暗闇の中からグレサスの声がした。
「……おお」
「…………」
「消えたな」
「消えました……ね」
「さすがはデュランだ」
妙に感心した声だった。
「お前はジュラのルールをもう……理解していたのか?」
「…………」
デュランはしばらく黙った。
「ルールも何も……」
深いため息。
「あなたが勝手に光っていただけですよ……」
「そうなのか?」
「そうです」
「なるほど」
「…………」
本当に理解しているのだろうか。
デュランには分からなかった。
ただ。
一つだけ確かなことがある。
ジュラへ入ってからずっと、グレサスの存在を周囲へ知らせ続けていた黄金色の光が――初めて消えた。
デュランはまだ知らない。
その変化が、この先のジュラで何を意味するのかを。
これまで彼らの周囲から不自然なほど姿を消していた魔物たち。
グレサスの接近を遥か遠くから察知し、距離を取っていた存在たち。
そして。
ジュラという森そのもの。
それらから見れば。
今まで暗闇の中を堂々と歩いていた巨大な黄金色の光が――突然、消失したことになる。
だが。
そんなことなど知る由もなく。
デュランは火を起こした。
パチッ。
パチパチ……。
小さな炎が生まれる。
先ほどまでのグレサスの光とは比べものにならないほど弱い光だった。
照らせるのは、ほんの僅かな範囲だけ。
その向こうには、どこまでも深い闇が広がっている。
それこそが本来のジュラの夜。
小さな焚き火を挟み。
グレサスとデュランは向かい合う。
グレサスが腕を組んだ。
「なるほどな……」
「今度は何です?」
「ジュラという場所……少しずつ分かってきたぞ」
「…………」
デュランは嫌な予感しかしなかった。
「一応、聞きましょう。何が分かったのです?」
グレサスは自信満々に答えた。
「光ってはいけない」
「…………」
「まず一つ、攻略したな」
「…………はぁ」
デュランのため息が、小さな焚き火の向こうへ消えていく。
パチッ。
薪が爆ぜた。
そして。
二人の周囲に広がる暗闇のさらに奥。
先ほどまで決して近づいてこなかった何かが。
ほんの僅かに。
少しはなれた場所で――動き始めていた。




