強者得物選ばず。
その頃、レイズがジュラの奥深くでメーレの作り出した迷宮へ足を踏み入れようとしていたのと、ほぼ同じ頃。
王都を発ったグレサスとデュランもまた、ジュラの外縁へと辿り着いていた。
遠くから眺めるだけでも、そこが普通の森ではないことは分かる。空を覆い隠さんばかりに巨大な木々が幾重にも枝を伸ばし、昼間だというのに森の奥は薄暗く、外から吹いてきた風さえも境界を越えた途端に吸い込まれていくような、不思議な静けさが漂っている。
王国の人間であれば、ジュラという名前を知らぬ者のほうが少ない。
数多くの魔物が生息し、奥へ進めば進むほど道は人を惑わせ、かつて調査へ向かった騎士や研究者の中にも帰還しなかった者がいる。学院で教えられる伝承の中には『迷いの森』『帰らずの森』などという呼び名まで残されており、王国でも容易に踏み込んではならない危険地帯として扱われている場所だった。
だからこそ、デュランは森へ足を踏み入れる直前になって、改めて隣に立つ男を見た。
「…………グレサス」
呆れを隠す気すらない声だった。
「なんだ?」
対するグレサスは、至って真面目な顔で振り向いた。
その姿を見て、デュランはますます頭が痛くなった。
何日ジュラへ滞在するつもりなのか。どこまで奥へ入るつもりなのか。例の白い存在を見つけられなかった場合、どの程度まで探索を続けるのか。帰還の判断を何を基準にするのか。
何一つ、まともに決まっていない。
それなのにグレサスが持ってきた荷物といえば、干し肉がいくつか。それから皮袋で作られた水筒に水を入れたもの。最低限の応急処置に使えそうな物が僅かにある程度で、とてもではないが王国屈指の危険地帯へ長期間踏み込もうとする者の装備には見えなかった。
そして何より。
デュランの視線が、グレサスの手へ向く。
「…………」
そこには一本の棒が握られている。
棒の先には――網。
正確に言えば、棒の先端へ袋状の網を括り付けただけの、極めて単純な道具だった。
特殊な金属が使われているわけでもない。魔法具でもない。王国の技術者が総力を挙げて作った特殊装備でもなければ、神獣に関する伝承を参考に開発された捕獲器具でもない。
どちらかといえば、町の子供たちが小さな生き物でも捕まえるために使っていそうな代物だった。
しかも、作りが粗い。
デュランはしばらく無言でそれを見つめたあと、どうしても確認せずにはいられなかった。
「グレサス……正気ですか?」
「ああ」
返事だけは早かった。
「念には念というやつだ」
「…………」
伝わっていない。
まったく伝わっていない。
デュランが何に呆れているのか、グレサスには欠片も伝わっていなかった。
デュランは小さく息を吐き、自分の荷物へ視線を落とす。
自分は可能な限り準備してきた。
数日分を想定した食料。保存の利くものを中心にしながらも、現地で何かを調達できた場合に備えて最低限の香辛料も用意している。飲料水だけでなく、水を確保できなかった場合まで考えた備え。野営に使う寝具。火を起こすための道具。簡単な治療に使用するもの。そしてジュラで想定される環境へ対応するための細かな品々。
当然、その分だけ荷物は大きい。
騎士として行軍するだけなら、ここまで持ち込む必要はないかもしれない。しかし今回はジュラなのだ。
もし伝承に残されている『迷宮』と呼ばれる領域へ入り込んでしまえば、予定通り帰還できる保証などどこにもない。一日で戻るつもりが三日になるかもしれない。三日のつもりが一週間になる可能性すらある。
むしろデュラン自身、これでも足りないのではないかと考えていた。
それに対してグレサスは――。
干し肉。
水。
網。
「…………」
デュランは心の底から思った。
(……やはり、この男一人に任せなくてよかったな…)
おそらくグレサスを一人で送り出していたら、何の疑問も抱かずこの装備でジュラへ入っていただろう。
いや。
実際、前回はほとんど何も持たずに入ったのだ。
「グレサス」
「今度はなんだ?」
「本来、森や山へ入る際には、それなりの準備が必要なはずです。ましてや、ここはジュラなのですよ?」
「ああ。その通りだ」
「…………」
「ゆえに今回は、ちゃんと準備をしている」
「…………どこがです?」
グレサスが僅かに眉を寄せた。
本当に分かっていないらしい。
デュランは改めてグレサスの姿を見る。
確かに、装備だけを見れば軽装ではない。
王国の座位持ちが身につける装備は、一般的な騎士の鎧とは比べものにならない。様々な材質を組み合わせ、耐久性だけでなく魔力との親和性まで考えて作られている。剣も同様であり、それらすべてを合わせれば相当な重量になる。
グレサスもデュランも、普通の人間ならば身につけて歩くだけで疲弊しかねない装備を当然のように纏っている。
二人が歩くたびに、ガチャ、ガチャと金属の擦れる音が響く。
そういう意味では、確かに重装備だった。
だが。
デュランが聞いているのは、そういうことではない。
「……なぜ、そのような立派な装備を身につけておきながら、その手にはそんな網を持っているのです?」
グレサスが網を見る。
そして真顔で答えた。
「素手では噛まれてしまう可能性を考慮しただけだ。」
「…………」
デュランは数秒黙った。
「仮にも、あなたが神獣と定めた相手なのですよ?」
「ああ」
「その神獣を――そんな子供が使うような道具で捕まえるつもりなのですか?」
グレサスの眉が僅かに動いた。
「子供が使う道具だと?」
「そこに引っかかるのですか……?」
「デュラン」
グレサスは妙に真剣な顔をした。
「誰が使うかなど関係ない」
「はい?」
「俺が使えば、どのようなものでも屈強な道具となる」
そう言った次の瞬間。
――ビュッ!!
凄まじい勢いで、グレサスが網を振り下ろした。
「なっ――!」
空気が弾けた。
本来ならば、そんな速度で振るえば棒が折れるどころか、先端の網など一瞬で千切れていてもおかしくない。振り抜いた際の風圧だけで、周囲の草木が大きく揺れるほどの勢いだった。
にもかかわらず。
網は――無事だった。
棒にも亀裂一つ入っていない。
デュランはすぐに理由を察する。
「……まさか」
グレサスの手から棒へ。
棒から網へ。
極めて濃密な魔力が流れている。
武器や防具へ魔力を巡らせ、その強度を一時的に引き上げる技術そのものは珍しくない。熟練した騎士であれば、戦闘中に剣へ魔力を流し、強大な攻撃へ耐えられるよう補強することもある。
だが、当然ながら何にでも同じように使えるわけではない。
元々強固な剣と、ただの木の棒では必要となる魔力の量が違う。脆いものほど、それを無理やり強固な状態へ維持するためには大量の魔力を高密度に固定し続けなければならない。
ましてや、この粗末な網である。
「…………」
デュランは頭を抱えた。
「はぁ……」
「どうした?」
「そんなものへ魔力を無駄遣いする人間など……世界中を探しても、おそらくあなたくらいですよ」
「そうか……?」
「褒めていません」
「だが壊れぬ。」
「そういう問題ではないでしょうに……」
グレサスはもう一度網を軽く振った。
ビュンッ!
また空気が鳴る。
「十分だ」
満足そうだった。
神獣を捕まえるための道具として、本人の中では完全に合格らしい。
デュランはそれ以上何も言わなかった。
いや、言うことを諦めた。
そしてその直後。
グレサスは腰につけていた袋へ手を伸ばし、中から干し肉を一つ取り出した。
そのまま何の躊躇もなく。
ガブッ。
「…………」
噛んだ。
デュランの眉が動く。
グレサスは気にせず干し肉を噛み続ける。
「…………グレサス」
「なんだ?」
「それは?」
「干し肉だが?」
「見れば分かりますよ?」
デュランの声が低くなる。
「ただでさえ食料が少ないというのに、なぜ今食べているのです!?」
「腹が減ったからだ」
「これからジュラへ入るのでしょう!?」
「だから食っている。」
「逆です! だからこそ残しておくのです!」
グレサスは不思議そうな顔をした。
そして少し考えたあと、デュランを見る。
や
「……なんのために、お前を連れてきたと思っている?」
「…………はい?」
その言葉に、デュランは一瞬だけ黙った。
もしかすると。
ジュラに関する知識。
学院で学んだ伝承。
迷宮に関する考察。
グレサスにはない慎重な視点。
そういったものを必要としている、という意味なのだろうか。
そう考えた直後。
グレサスが笑った。
「食料など、ジュラにもいくらでも群生しているだろう」
「…………」
「だが俺には、それが食えるのか食えんのか分からん」
「…………」
「ゆえにデュラン。お前が判断しろ」
デュランはしばらく無言だった。
「…………そのためですか?」
「もちろん、それだけではないぞ?」
「今、少し安心しました」
「神獣についてもお前の知識が必要だからな」
「……ええ。それならば」
「ついでに食えるものも見分けろ」
「結局それもやらせるのですか……」
グレサスが豪快に笑う。
「ハハハ! 適材適所というやつだ!」
「使い方が少し違うと思いますよ……」
デュランは大きく息を吐いた。
「それに、ジュラに群生しているものが何でも食べられるとは思わないほうがいいですよ。見たことのない植物も多いでしょうし、魔素を大量に含んでいるものなら人体へどのような影響があるか分かりません。毒を持つ可能性もあります」
「そんなことは分かっている」
「本当ですか?」
「ああ。だが、食えるものは必ずある」
グレサスは残っていた干し肉を口へ放り込んだ。
「俺に任せておけ」
「何を任せればいいのです?」
「最悪、魔物を捕まえて食えばいい」
「…………」
デュランは思わずグレサスを見た。
「あなた……前回、魔物どころか普通の動物すらほとんど見つけられなかったと言っていませんでしたか?」
「なに。問題ない」
グレサスはジュラを見ながら、妙な自信に満ちた表情を浮かべた。
「ジュラの攻略法については大方理解している」
「…………」
その言葉を聞いた瞬間、デュランの中に強烈な不安が生まれた。
「一応、聞いておきましょう。どのような攻略法です?」
「簡単だ」
グレサスが森を指差す。
「道が分からぬのであれば、いざとなれば木々をすべて斬り倒して進めばいい」
「…………」
デュランは目を閉じた。
そして小さく呟く。
「……だからジュラに拒絶されるんですよ」
「……ん?」
グレサスが振り向く。
「今、何か言ったか?」
「いえ……何も」
これ以上言っても仕方がない。
そうして二人は、遂にジュラへ足を踏み入れた。
一歩。
また一歩。
巨大な木々の下へ入った瞬間、外から差し込んでいた光が急激に弱くなり、昼間であるにもかかわらず辺りは薄暗くなる。
ガチャ。
ガチャ。
二人の鎧が擦れる音だけが、静かな森へ響いていく。
デュランは歩きながら周囲へ意識を広げた。
グレサスから聞いていた話が本当ならば、ここからが問題になる。
前回、グレサスはジュラへ入ってからほとんど魔物と遭遇できなかったという。
それ自体が、デュランには不自然だった。
ジュラは危険地帯である。
魔物が存在しないから危険なのではない。
むしろ逆だ。
魔素が濃く、外では滅多に見られない魔物すら生息している。それゆえ王国からも危険地帯として扱われている。
なのにグレサスは、
――何もいない。
そう言った。
デュランは意識を集中させる。
「…………サーチ」
静かに魔力が広がっていく。
周囲の生命反応。
魔力。
僅かな気配。
自身の感覚だけでは拾えないものまで、慎重に探っていく。
だが。
「…………?」
デュランの眉が寄る。
いない。
正確には――近くに、ほとんど何もいない。
「……本当に?」
さらに範囲を広げる。
それでも同じ。
魔物の気配が、異常なほど遠い。
まるで。
こちらを避けているように。
「…………」
デュランが足を止める。
何かがおかしい。
そのときだった。
前を歩いていたグレサスの身体から、ふわりと魔力が溢れ出した。
「……?」
デュランが顔を上げる。
そして。
「…………グレサス?」
目を見開いた。
グレサスの身体が――光っている。
それも僅かな光ではない。
身体を包み込むように、金色の魔力がはっきりと発光している。
薄暗いジュラの森の中で、それはあまりにも目立った。
木々の隙間から光が漏れ、地面まで照らしている。
「……グレサス。それは?」
「ああ、これか」
グレサスは慣れた様子で自分の身体を見る。
「どのような魔法を使っているのです?」
「知らん」
「…………はい?」
「俺にも分からん」
グレサスは笑った。
「だが前回来たときもそうだった。ジュラへ入ると、なぜか俺の身体が勝手に光り始める」
「…………勝手に?」
「ああ」
そしてグレサスは、むしろ楽しそうに自分の腕を持ち上げた。
金色の光が周囲を照らす。
「便利なものだぞ。見ろ。これほど暗い場所でも、はっきり先が見える」
「…………」
「灯りを持ってくる必要すらなかったな。ハハハ!」
「…………」
デュランは笑わなかった。
グレサスの身体。
金色の光。
異常なほど静かな森。
そして――まったく見つからない魔物。
それらを頭の中で一つずつ並べていく。
(…………待ってください)
グレサス本人は、暗い森を照らしてくれる便利な現象だと思っている。
だが。
当然――見えるということは。
こちらから見えるだけではない。
当然……向こうからも。
見える。
それどころか、この薄暗いジュラの中でこれだけ派手に金色へ輝いていれば、相当な距離からでもグレサスの存在を認識できるのではないか。
さらに。
デュランはサーチへ意識を戻した。
魔物がいない。
いや。
本当にいないのか?
(……違う)
最初から存在していないのではなく。
(離れている……?)
グレサスの存在を察知した瞬間。
危険を感じた魔物たちが、一斉に距離を取っているのだとしたら。
前回グレサスが、
『ジュラには魔物どころか動物すらおらん』
と言っていた理由。
どれだけ歩いても獲物を見つけられなかった理由。
そして――ジュラそのものから拒絶されているかのように奥へ進めなかった理由。
そのすべてが、同じ原因へ繋がっている可能性がある。
デュランは隣を歩くグレサスを見る
金色。
あまりにも金色。
薄暗い森の中で、一人だけ異常なほど輝いている。
しかも本人は魔力を抑える気配などまったくない。
片手には――魔力で異常なまでに強化された粗末な網。
腰には残り僅かな干し肉。
そして口から出る言葉は、
「さて。白いもふもふはどこにいるかだな。」
「…………」
デュランは何とも言えない表情になった。
(……それはつまり)
再び周囲を探る。
やはり近くには何もいない。
(グレサスの存在が……あまりにも分かりやすすぎるのでは……?)
魔物からすればどう見えているのだろう。
森の外から突然、とてつもない魔力を持った何かが侵入してくる。
しかも隠れる気配がない。
むしろ金色に発光している。
そしてその存在が、巨大な魔力を周囲へ撒き散らしながら歩いてくる。
逃げる。
当然ではないだろうか。
「…………」
しかし、まだ確証はない。
自分の推測にすぎない。
ジュラには未知の仕組みがあまりにも多い。
ここで結論を出すのは早い。
だからデュランは何も言わなかった。
ただ、グレサスの背中を眺めながら考察を続ける。
一方のグレサスは、そんなデュランの思考など知る由もない。
金色の光を全身から放ちながら、魔力で強化した網を肩へ担ぎ、楽しそうにジュラの奥を見つめていた。
「ハハハ……待っていろ」
「…………」
「今度こそ捕まえるぞ。あの白いもふもふを」
デュランは、その横顔を見た。
「…………」
そして、誰にも聞こえないほど小さく息を吐く。
どう考えても。
この男をジュラへ連れてきたこと自体が、何かとてつもなく大きな間違いだったような気がしてならなかった。
だが同時に。
だからこそ――デュランは少しだけ興味を持ち始めていた。
この森は、いったい何をしている?
なぜグレサスだけが、このような状態になる?
なぜ魔物がいない?
なぜ道が閉ざされる?
そして、グレサスが神獣だと言い張る――白い存在。
本当に、ただの魔物なのか。
あるいは。
グレサスの荒唐無稽な推測の中に、本当に何か一つでも正解が混ざっているのか。
「……ジュラ、ですか」
デュランが静かに呟く。
少なくとも。
退屈だけはしそうになかった。
その隣では。
「デュラン」
「なんです?」
「腹が減った」
「…………」
「何か食えるものを探せ」
「まだ入ったばかりでしょう!!」
薄暗いジュラの森へ、デュランの声が響き渡った。
そしてその横を。
金色に輝きながら、網を肩へ担いだ王国最強の剣が、何食わぬ顔で歩いていく。
二人はまだ知らない。
そのさらに奥では。
ジュラの理そのものを見抜きながら、敵意がないことを必死にアピールしている一人の少年がいることを。
そして。
その少年を警戒しながら、ジュラ全体へ意識を巡らせている神獣がいることを。
さらには、その神獣のすぐ傍らで。
グレサスがこれほどまで探し求めている白いもふもふが――。
彼が魔力まで注ぎ込んで作り上げた、その妙に頑丈な網の存在など知る由もなく。
今もなお、のんきに過ごしていることを。




