ファーストコンタクト
その頃、レイズはジュラのさらに奥深くへと足を進めていた。
先ほどまでと同じように、頭上には巨大な木々が幾重にも枝葉を伸ばし、その隙間から柔らかな陽光が細く差し込んでいる。足元には湿り気を帯びた土と苔が広がり、遠くから聞こえてくる鳥や魔物の鳴き声も、森を吹き抜ける風の匂いも、それまで歩いてきたジュラと大きく変わったようには見えない。だというのに、ある地点まで近づいたところで、レイズは自然と歩みを止めていた。
「…………」
空気が変わった。
いや――正確には、空気そのものが変化したわけではない。
目の前に、歪みがある。
森と森との間に、まるで透明な膜でも張られているかのような、ごく僅かな揺らぎ。それは注意深く見なければ気づかないほど自然に景色へ溶け込んでおり、その向こう側にも今までと変わらない森が続いている。木があり、草があり、そのさらに奥には獣道らしきものまで見えているため、何も知らない者ならば、そこに境界が存在していることすら理解せず、そのまま足を踏み入れてしまうだろう。
だが、レイズは知っていた。
「……来たか」
むしろ――ここからが本番だった。
目の前に存在する歪みこそ、ジュラが持つ本当の恐ろしさの一つ。
メーレによって作り出された、より強力な迷いの結界。
ゲームの中でも幾度となくプレイヤーを苦しめた場所であり、単純に正しい方向へ進めば突破できるようなものではない。ここへ一歩でも足を踏み入れれば、距離や方角といった人間が当たり前のように頼っている感覚そのものが意味を失い、森そのものが侵入者を弄ぶように姿を変えていく。
だからこそレイズは、目の前の歪みを眺めながら腕を組んだ。
「んーーーー…………」
困ったような声が漏れる。
結界そのものが怖いわけではない。
むしろ問題なのは――なぜ、この結界が自分の前に現れたのかということだった。
「これが出てきたってことは……」
レイズは眉を寄せる。
「……やっぱり警戒されてるってことだよな?」
少なくとも歓迎されているとは思えない。
通常のジュラが持つ迷いの性質とは明らかに違う。ここから先は、メーレ自身がより強く干渉する領域であり、その力が自分に対して向けられたということは、こちらの存在をすでに認識されている可能性が極めて高い。
だが――。
「俺……なんかやったか?」
本気で分からなかった。
敵意を向けた覚えはない。
森を荒らしたつもりもない。
無意味に魔物を殺して回ったわけでもなければ、木を切り倒したわけでもない。ジュラを支配しようなどという気も当然なく、レイズからすれば、目的のものを見つけて話をして、可能ならば数日以内にアルバードへ帰りたいだけだった。
しかしレイズは知らない。
先ほどメーレが、自分の目的と能力を確かめるためにコカトリスを送り込んでいたことを。
そして、そのコカトリスをレイズがあっさり倒し――。
解体し。
肉へ香辛料を振り。
串へ刺し。
火を通し。
普通に昼食として美味しそうに食べていたことが、メーレの警戒心をさらに強めていたことを。
メーレからすれば、レイズという少年はあまりにも意味が分からない存在だった。
ジュラが外敵を見分けるために利用している魔力感知を何らかの方法ですり抜け、自らの存在を正しく認識させないまま奥地へ進み、それを確認するために差し向けた災害級の魔物を苦もなく倒したかと思えば、その死骸を前に警戒するどころか「食料が手に入った」とでも言いたげな様子で料理を始めた。
強者ならば理解できる。
侵略者ならば理解できる。
ジュラに眠る何かを狙っているのなら、それもまだ理解できる。
だが――何をしに来たのかが分からない。
それこそがメーレにとって最大の問題だった。
だからこそ、メーレはレイズをこの場所へ誘い込んだ。
迷わせるため。
閉じ込めるため。
そして――観察するために。
結界の内側には、すでにいくつかの魔物が配置されている。さらに森の中には、古びた小屋のような建物や、崩れかけた石造りの遺構、特徴的な形をした巨木など、侵入者が目印として利用したくなるものが意図的に存在していた。
だが、それらは決して道標にはならない。
例えば侵入者が一つの道を進み、その途中で屋根の崩れた建物を見つけたとする。人はそれを記憶し、「ここは一度通った場所だ」と判断する。しかし結界によって再び同じ場所へ戻されたとき、その建物は姿を変えている。崩れていたはずの屋根が残っているかもしれない。窓の位置が違うかもしれない。あるいは石造りだったものが、次に見たときには木造の小屋へ変わっているかもしれない。
木々も同じ。
岩も同じ。
道も同じ。
一度目と二度目では、僅かに姿が変わる。
そのため、侵入者は同じ場所へ戻されていることに気づけない。
自分は確実に前へ進んでいる。
新しい場所へ来ている。
そう思い込んだまま――何度も、何度も、同じ場所を歩き続ける。
そして最も恐ろしいのは、一度この迷宮へ囚われた者が、自力で抜け出すことは極めて困難であるということだった。
許されるまで。
あるいは――命が尽きるまで。
過去、この場所へ挑んだ者は何人もいる。
王国の騎士。
冒険心に駆られた者。
神獣の伝承を追った研究者。
ジュラに眠るとされる未知の資源を求めた者。
だが、そのすべてが帰還できたわけではない。
森の奥には今も、人間だったものの骨が散らばっている場所さえ存在している。
だからこそ、王国でジュラを研究する者たちが残した伝承には、いくつもの名が記されていた。
――迷いの森。
――帰らずの森。
そして。
――ジュラの迷宮。
その意味を、レイズはよく知っている。
だからこそ――。
「なんで……警戒するんだよ」
レイズは困ったように頭を掻いた。
「敵意だって、全然ないのにさ……」
しかし、その表情には恐怖などなかった。
むしろ、僅かに笑ってすらいる。
理由は単純だった。
――知っているからだ。
この迷宮を。
レイズにとって、この場所は未知の領域ではない。
ゲームだった頃、何度ここへ来ただろう。
何度迷っただろう。
何度同じ場所へ戻され、何度配置された魔物と戦い、何度攻略に失敗しただろう。
最初のプレイでは、本当に意味が分からなかった。
目印として覚えた建物が変化する。
正しいと思って選んだ道が入口へ戻る。
倒したはずの魔物が一定条件で再び現れる。
分岐を覚えても意味がない。
地図を書いても、その地図そのものが役に立たない。
だからこそ何度も挑み、失敗し、攻略法を探した。
そして最終的には、この迷宮がどのような原理によって侵入者を迷わせているのか、どこに魔物が配置され、どの地点で空間が歪み、何を基準として道が繋ぎ替えられるのか、その大部分を理解するところまでやり込んでいた。
しかも――。
今のレイズには、ゲームの主人公カイルには存在しなかったものがある。
死属性。
レイズは目の前の歪みを見つめながら、僅かに口角を上げた。
「……一回、試してみたかったんだよな」
ゲームだった頃には絶対にできなかったこと。
この迷宮そのものに対して、死属性がどこまで通用するのか。
メーレが魔力によって形作っているこの迷宮と、魔法や魔力そのものへ強烈な干渉力を持つレイズの死属性。
相性だけを考えれば――。
最悪だった。
もちろん、メーレにとって。
「まあ……入ってみるか」
レイズは一歩踏み出そうとして――。
止まった。
「…………いや、待て」
もっと重要な問題があった。
迷宮を突破できるかどうかではない。
「もしメーレに会えたとして……」
レイズは真剣な顔で考え込む。
「…………なんて声かければいいんだ?」
そっちだった。
攻略法なら知っている。
迷宮の構造も知っている。
魔物の性質も知っている。
しかし――メーレとの人間関係ならぬ、神獣関係の攻略法など知らない。
レイズの頭に浮かんだのは、ゲームの主人公カイルがこの場所へやって来たときの記憶だった。
カイルには明確な理由があった。
仲間であるフェリルを救うため。
ジュラの奥地に存在するとされる世界樹の種を、何としてでも手に入れるため。
そして、それだけではなかった。
この不条理な世界を正しく導くために何が必要なのか。
自分たちは何をすべきなのか。
その答えを求めて、カイルはいくらかの仲間と共にジュラへ挑んだ。
決して簡単な旅ではなかった。
何度も迷い。
何度も傷つき。
何度も仲間たちと衝突し。
それでも諦めることなく、長い時間をかけてこの迷宮を攻略した。
そして――ようやくメーレへ辿り着く。
当然、そこで終わりではない。
カイルはメーレと戦った。
激戦だった。
ゲームの中でも屈指の難敵。
だが、カイルは最後までメーレを殺そうとはしなかった。
それまでの道中で拾い集めてきた、いくつもの物語の欠片。
ジュラという森がなぜ存在するのか。
メーレが何を守っているのか。
なぜ人間を拒むのか。
何を恐れ、何を残そうとしているのか。
カイルはそれらを一つずつ理解していた。
だから最後に、メーレへ手を伸ばした。
――仲間になってほしい。
――助けてほしい。
力を貸してほしいと。
自分たちだけでは救えないものがある。
自分たちだけでは変えられない世界がある。
だから共に来てほしい。
その真っ直ぐな願いに、最後にはメーレが折れた。
そしてメーレが仲間になった後、世界樹の種を探すこと自体は驚くほど簡単だった。
当然だ。
メーレはジュラを守護する存在。
この森のどこに何があるのか、そのほとんどを把握している。
だから今回、レイズにも同じことが必要だった。
世界樹の種を探し回るのではない。
まずメーレへ会う。
そして事情を話す。
できることなら、世界樹の種が存在する場所まで案内してもらう。
それが最も確実だった。
だが――。
「…………」
レイズは改めて目の前の歪みを見る。
答えは、すでに出ているような気がした。
「……これ、絶対歓迎されてないよな」
現時点で、明らかに警戒されている。
カイルは長い旅の中で、自分がどういう人間なのかをメーレへ示した。
仲間のために傷つき。
それでも前へ進み。
メーレが守るものを理解し。
最後には戦いの中で自分の意思を証明した。
だがレイズはどうだ。
知らないうちにジュラの感知をすり抜け。
知らないうちにコカトリスを送り込まれ。
知らないうちにそれを倒して食べ。
そして今、より強い迷宮まで用意されている。
「これ……もしかして結構時間かかるんじゃないか?」
レイズの表情が真剣に曇った。
迷宮攻略の心配ではない。
メーレとの交渉の心配だった。
「数日でアルバードに帰るって約束してるしなぁ……」
クリスたちの顔が脳裏へ浮かぶ。
特にクリス。
予定より帰還が遅れた場合、どのような反応をするのか想像するだけでも少し怖い。
「……仕方ない」
まずは進まなければ何も始まらない。
レイズはゆっくりと息を吐き、全身へ魔力を巡らせていく。
その中へ、異質な力が混ざる。
死属性。
それを両目へ集中させる。
「――エクリプスアイ」
瞬間。
レイズの視界が変わった。
「…………うわ」
思わず声が漏れた。
あまりにも――見えすぎた。
それまで自然な森にしか見えなかった景色の中へ、幾重もの魔力の流れが浮かび上がる。
空間を歪めている場所。
同じ地点へ繋ぎ直されている道。
侵入者の認識を狂わせるために重ねられた魔力。
姿を変える建物。
不自然に配置された魔物。
そして――本当に進むべき道。
そのすべてが、驚くほど鮮明に見えていた。
「…………」
レイズは少し気まずそうな顔をする。
「いや……これは……」
想像以上だった。
ゲームの知識すら必要ない。
攻略法を思い出す必要すらない。
目の前に答えがそのまま表示されているようなものだった。
「……相性悪すぎるだろ」
もちろん、メーレ側が。
だがレイズは知らない。
この瞬間、ジュラのさらに奥深くで、メーレが明確に眉をひそめたことを。
迷宮へ入った。
それはいい。
問題はその後だった。
迷わない。
一歩。
また一歩。
一切迷わない。
最初の分岐。
迷うことなく正解。
次の分岐。
また正解。
本来ならば侵入者が目印として利用するはずの建物には視線すら向けない。
魔物が配置されている場所へ近づく前に、まるで最初からそこに何かいることを知っていたかのように進路を僅かに変える。
同じ場所へ戻すために存在している偽りの道には、一歩たりとも足を踏み入れない。
レイズからすれば当然だった。
(ここは右に見えるけど、実際は元の場所に戻される)
避ける。
(こっちは道に見えるけど……道じゃない)
避ける。
(この先は魔物がいるな)
避ける。
あまりにも簡単だった。
そして――だからこそレイズは別のことを考え始める。
(……まずいな)
迷宮ではない。
メーレの機嫌である。
(これ、普通に突破したら余計警戒されないか?)
そこでレイズは考えた。
少なくとも、自分がジュラを荒らすつもりなどないことは伝えておいたほうがいい。
メーレがこちらを見ている保証はない。
声を聞いている保証もない。
だが、もし見ているのであれば。
もし聞いているのであれば。
自分がこの場所を尊重していることを伝えるべきだ。
そこで――。
レイズはわざとらしく周囲を見渡した。
「…………なんだ……ここは!?」
少し大きめの声。
誰もいない森に響く。
「すごい……綺麗な場所じゃないか」
無論。
知っている。
何度も見た。
ゲームで。
それでもレイズは続けた。
「この森……普通じゃないな」
ゆっくり歩く。
しかし進路は一切間違えない。
「ここは……荒らしちゃ駄目だ」
魔物が待ち伏せている場所だけ綺麗に避ける。
「何かを……守るためにあるのか?」
空間が繋ぎ替えられる地点を、寸前で避ける。
「…………」
ジュラの奥深く。
メーレは黙ってその様子を見ていた。
「…………」
何も言わない。
まだ何も言わない。
レイズはさらに続ける。
「この感じ……まさか……」
わざと立ち止まる。
考えているような素振りを見せる。
そして、ゆっくり顔を上げた。
「つまり……ここは……聖域だというのか」
「…………」
メーレの眉が僅かに動いた。
レイズは知らない。
彼としては精一杯だった。
ジュラを馬鹿にしていない。
荒らすつもりもない。
ここが大切な場所であることも理解している。
それを伝えようとしているだけだった。
だが――。
メーレから見えているものは違った。
迷宮へ入った瞬間から一度も迷わない。
偽りの道をすべて無視する。
魔物の配置を完全に把握している。
空間の歪みを避ける。
目印として用意した建物に騙されない。
それどころか、そのすべてを当然のように突破しながら――。
「なんだ……ここは!?」
「すごい綺麗な場所じゃないか」
「ここは……何かを守るためにある……?」
「つまり……聖域だというのか」
などと独り言を口にしている。
メーレの目が細くなる。
「…………こやつ」
そしてついに、低い声が漏れた。
「……我を舐めておるのか?」
もはや挑発にしか見えなかった。
こちらが何をしているのか完全に理解している。
迷宮の仕組みも見抜いている。
魔物の配置すら分かっている。
そのうえで、わざと知らないふりをしている。
少なくともメーレにはそう見えた。
「…………」
姿を現すものか。
メーレはそう決めた。
もう少し見る。
この少年が何者なのか。
何を目的としているのか。
そして――どこまでこちらの理を理解しているのか。
だが、そのとき。
すぐ横から。
カリ……。
小さな音がした。
「…………?」
メーレが横を見る。
そこには白く巨大な毛玉のような存在が横たわっていた。
ディア。
先ほどから気持ちよさそうに眠っている。
そしてその前脚には、食べ残したらしい魔物の骨肉が大切そうに抱え込まれていた。
「…………」
カリ。
眠ったまま。
口だけが動く。
骨肉を少し齧る。
「…………」
メーレはレイズを見る。
正解の道を歩いている。
またディアを見る。
寝ている。
カリ。
また食べた。
「…………寝ておるときまで食うのか、おぬしは」
思わず呟く。
ディアは起きない。
ただ、抱えていた骨肉を誰にも取られないように、前脚でさらに自分の胸元へ引き寄せた。
「…………ふっ」
メーレの口元が僅かに緩む。
先ほどまでレイズに対して募らせていた苛立ちが、ほんの少しだけ薄れた。
しかし――。
再び意識を迷宮へ向ければ。
「なるほど……こっちは危険そうだな。ならこっちへ行こう」
そう独り言を口にしながら、魔物のいる道だけを正確に避けて進むレイズの姿がある。
メーレの笑みが消えた。
「…………」
そして再び目が細くなる。
「やはり……舐めておるな?」
もちろん。
レイズには――そんなつもりなど、欠片もなかった。




