遭遇してしまう恐怖
グレサスは、満面の笑みを浮かべながらジュラの森を歩いていた。
相変わらず、魔物の姿はない。
これまで何度もジュラへ足を踏み入れてきたグレサスにとって、それは明らかに異常なことだった。普段であれば、森の奥へ進むにつれて一体、また一体と強力な魔物が姿を現す。時にはグレサスですら多少は楽しめるほどの個体が現れることもあり、それこそが彼がジュラへ足を運ぶ理由の一つでもあった。
だが、今日は違う。
どれだけ歩いても何も現れない。それどころか、森そのものが自分から遠ざかっているような、奇妙な感覚さえある。
「ハハハ……面白い」
普通の人間であれば不安を覚える状況だった。
だが、グレサスは違う。
未知とは、恐れるものではない。
理解できないことが起きているのなら、それはまだ自分の知らない何かが、このジュラには存在しているということなのだから。
アルバードとの戦いが終わって以降、グレサスの日常はどこか退屈となるはずだった。王国へ戻れば、彼とまともに剣を交えられる者などほとんどいない。デュランですら全力で戦えば長くは保たず、魔物を相手にしたところで、かつて感じていたほどの刺激を得ることは少なくなっている。
だからこそ、今の状況が楽しくて仕方がなかった。
「いっそ、この辺り一帯を更地にしてみるか?」
グレサスは本気でそんなことを考え、周囲の巨大な木々へ視線を向けた。
邪魔ならば薙ぎ倒せばいい。
それだけの力はある。
だが、すぐに首を振った。
「いや……それではつまらんな」
この奇妙な現象そのものが、今のグレサスにとっては貴重な刺激だった。
力任せに壊してしまえば、何が起きているのかを知る機会まで失ってしまうかもしれない。それではあまりにも勿体ない。
ならば。
まずは確かめればいい。
「そういえば……俺は今、どの辺りまで来ている?」
それなりの時間を歩いた。
感覚としては、すでにジュラのかなり深い場所まで入り込んでいるはずだった。
だが。
それを確かめる方法は簡単だった。
グレサスは遥か上空を見上げる。
ジュラに群生する樹木は、王国の森に生えているものとは比較にならない。一本一本が異常なほど巨大で、地上から見上げてもその頂上を容易に確認することすらできないほどだった。
「上から見れば分かるか」
ただそれだけの理由で。
グレサスは、その場で軽く膝を曲げた。
だが、すぐに動きを止める。
「……柔らかいな」
足元を見る。
普通の人間からすれば何の変哲もない地面だった。
だが、グレサスが全力で踏み込むには柔らかすぎる。
このまま跳べば、脚力を地面へ伝えるより先に足場そのものが崩壊する。ならば、足場を壊れないようにすればいい。
グレサスの足元から魔力が広がった。
まず地属性。
地面そのものを強固に固める。
さらに氷属性を重ね、内部まで一気に固定する。その上から風属性によって力の逃げる方向を調整し、踏み込んだ際の反動を最大限に利用できる形へ整えていく。
複数の属性を同時に扱う。
それだけでも、王国の魔法使いからすれば目を疑うような光景だった。
グレサスは、死属性や神聖属性といった極めて特殊なものを除けば、ほとんどあらゆる属性を扱うことができる。
それは間違いなく、生まれ持った規格外の才だった。
だが。
本人にとっては。
「よし。これなら踏めるな」
その程度の認識でしかない。
魔法とは便利なもの。
必要なら使う。
ただそれだけだった。
そして次の瞬間。
グレサスは全力で地面を蹴った。
――ドゴォォォォォォンッ!!
固められていたはずの足場が、それでも耐え切れず爆発するように砕け散った。
同時に。
グレサスの身体が消える。
いや。
消えたのではない。
あまりにも凄まじい速度で、真上へ跳び上がったのだ。
風を切り裂き、巨大な枝を次々と通り過ぎる。鳥ですら容易には辿り着けないような高さを一気に駆け抜け、やがてグレサスはジュラの巨木、その頂上近くへ到達した。
太い枝へ着地し。
「さて」
周囲を見渡す。
そして。
「…………」
数秒。
グレサスは黙った。
遠くまで続くジュラの森。
果てなど見えない。
だが。
一つだけ。
明らかにおかしいものが見えた。
「……ハハ」
口元が吊り上がる。
「ハハハハハハハ!!」
グレサスは大声で笑った。
「まったく進んでいないではないか!!」
自分が侵入してきたジュラの外縁が、驚くほど近い。
かなり歩いたつもりだった。
何度も進路を変えながら、それでも確実に森の奥へ向かっていたつもりだった。
だが。
実際には。
ほとんど入り口付近を彷徨っていただけだった。
「なるほど……そういうことか」
普通ならば、恐怖するところなのかもしれない。
知らぬ間に方向感覚を狂わされている。
どれだけ進んでも、森の奥へ入ることができない。
明らかに自然現象ではない。
何かが。
自分を拒絶している。
だが、グレサスは。
「ハハハハ!! 面白い!!」
さらに楽しそうに笑った。
「俺を中へ入れたくないということか?」
返事などない。
だが、それで十分だった。
「ならば話は早い」
グレサスは自分が入ってきた方向を確認すると、その正反対へ身体を向ける。
「地面を歩けば惑わされる。それなら――」
太い枝の上で。
また膝を曲げた。
「上から行けばいい!!」
――ドンッ!!
巨大な枝が大きくしなる。
グレサスは再び飛んだ。
枝から枝へ。
木から木へ。
まるで巨大な森を遊び場にする獣のように、地上を歩くことそのものをやめてしまった。
「ハハハハハ!! これならどうだ!!」
何に勝負を挑んでいるのか。
誰と競っているのか。
本人以外にはまるで分からない。
だがグレサスは本気だった。
そして。
そんな試行錯誤を続けていたからこそ。
ついに。
見つけてしまった。
「…………ん?」
グレサスの目が止まる。
遥か下。
巨大な木々の間を。
何か白いものが走っていた。
「…………」
目を凝らす。
白い。
ふわふわしている。
大きくない。むしろ小動物の類い。
そして何より。
明らかに何かから逃げるように、必死になって森の中を駆け回っている。
グレサスの顔が。
輝いた。
「ハハハ!!」
そして。
何故か勝ち誇った。
「残念だったな!!」
何が残念なのか。
誰に言っているのか。
当然、誰にも分からない。
だが。
その声は。
遥か下を走っていた白い生物にも届いていた。
「…………!」
ディアの足が止まった。
全身の毛が。
一瞬にして逆立つ。
「…………チガウ」
何かがいる。
見られている。
それだけで分かった。
これまでジュラの中で遭遇してきた魔物とは違う。
自分を食べようとしてきた魔物とも違う。
この森に満ちている巨大な魔力とも違う。
もっと。
もっと分かりやすく。
危険。
「チガウ……!」
ディアは震えながら、ゆっくりと上を見る。
巨大な木。
その遥か上。
一本の枝に。
男が立っていた。
「…………」
金色の魔力を纏い。
自分を見下ろしながら。
ものすごく嬉しそうに。
笑っている。
「ハハハハ……!」
「…………ッ!」
ディアの身体が完全に硬直した。
グレサス。
当然。
ディアがその名を知るはずもない。
王国最強の騎士。
ジュラへ何度も単身で入り込み。
この森に住む魔物たちからすら、今や明確な危険として認識され始めている存在。
そんな男が。
今。
満面の笑みで。
自分を見ている。
「…………」
一方のグレサスも。
ディアをじっと観察していた。
「ほう……」
最初は。
戦うつもりだった。
今日初めて見つけた生物である。
しかも、これまで見たことのない姿。
当然、何か特別な魔物だと思った。
だが。
「…………」
丸い。
白い。
ふわふわしている。
何より。
あまりにも。
「……愛らしいな」
戦う相手には見えなかった。
そして。
グレサスの思考は。
恐ろしいほどの速さで。
別の方向へ切り替わった。
「ハハハ……」
笑う。
「土産には……ちょうどいいか?」
王都へ持ち帰れば。
きっと陛下も驚くだろう。
いや。
王族の誰かが気に入るかもしれない。
それに。
グレサス自身も。
少し欲しくなっていた。
「…………よし」
捕まえよう。
決断まで数秒だった。
グレサスは枝から静かに飛び降りる。
地面へ着地すると。
できる限り。
ゆっくり。
ディアへ歩み寄った。
本人としては。
怖がらせないようにしているつもりだった。
だが。
ディアからすれば。
恐怖そのものだった。
「…………!」
来る。
さっきまで遥か上にいた。
異常な気配を持つ存在が。
こちらへ向かって。
ゆっくり。
歩いてくる。
「チガウ!!」
「ん?」
「オマエ……!」
ディアは必死に身体を大きく見せようとする。
全身の白い毛を逆立て。
「アッチイケッ!!」
「…………」
グレサスの足が止まった。
ディアも止まる。
沈黙。
そして。
グレサスの目が。
さらに輝いた。
「…………言葉を話すのか?」
「…………!」
「ハハハハハ!!」
最悪だった。
ディアの必死の威嚇は。
グレサスの興味をさらに煽っただけだった。
「面白い!!」
「クルナ!!」
「安心しろ。何もせん」
「クルナァァァァァ!!」
何もしないと言いながら。
近づいてくる。
グレサスには、小動物へ近づくための技術などなかった。
ゆっくり歩けば怖がらせない。
敵意を出さなければ逃げない。
その程度の知識しかない。
ましてや。
自分自身の存在そのものが、どれほど周囲へ圧迫感を与えているのかなど。
理解しているはずもない。
「大丈夫だ」
「ヤダ!!」
「怖くないぞ?」
「コワイ!!」
「…………そうか?」
「コワイ!! クルナ!!」
「…………」
グレサスは少し考え。
また一歩進んだ。
「ヤダァァァァァ!!」
ディアは。
全力で逃げた。
「お?」
白い身体が森の奥へ飛び込んでいく。
「ハハハハハ!! 逃げるか!!」
グレサスの目に魔力が集中する。
光。
そして闇。
相反する二つの属性が瞳へ宿り、森の暗がりを一瞬にして見通していく。
どれだけ木々の陰へ隠れようと。
どれだけ暗い場所へ逃げようと。
今のグレサスから姿を隠すことなど容易ではない。
「見えているぞ!!」
「ヤダァァァ!!」
「言葉を話す白い魔物か……ハハハ!!」
グレサスが走り出す。
「必ず捕まえる!!」
普通なら。
そこで終わっていた。
純粋な速度。
身体能力。
反応速度。
そのすべてにおいて。
グレサスはディアを遥かに上回っている。
逃げ切れるはずなどない。
数秒。
いや。
本来なら一瞬で。
その白い身体を捕まえることができる。
はずだった。
「…………?」
グレサスの眉が僅かに動く。
見えている。
確かにディアは前を走っている。
速い。
だが。
追いつけないほどではない。
なのに。
「…………おかしいな」
距離が縮まらない。
それどころか。
少しずつ。
離れている。
「…………」
グレサスが速度を上げる。
ディアより速く走っている。
そのはずなのに。
木々が。
地形が。
進路が。
まるで意思を持っているかのように、二人の間へ入り込んでくる。
グレサスが右へ回れば。
ディアはいつの間にか左にいる。
直線で追おうとすれば。
そこには先ほどまで存在しなかったような巨大な樹木が立ちはだかる。
枝を飛び越え。
木を迂回し。
視界から一度も逃していないにもかかわらず。
距離だけが。
縮まらない。
「…………なるほど」
やがて。
グレサスは足を止めた。
遠くで。
ディアが必死に逃げていく。
「これ以上追っても……無駄だとでも言いたげだな」
その声には。
ほんの僅かに。
悔しさが混じっていた。
グレサスほどの男が。
捕まえられるはずの相手を捕まえられない。
本来ならば、滅多に味わうことのない感覚だった。
そして。
だからこそ。
グレサスは考えた。
「…………待て」
あの白い生物。
言葉を話した。
見たことのない姿。
そして。
自分が追いかけた瞬間。
ジュラそのものが。
あれを守るかのように動いた。
「…………」
グレサスの目が。
ゆっくりと見開かれていく。
「まさか……」
一つの答えへ。
辿り着いた。
「そういうことか」
ニヤリ。
口元が吊り上がる。
「あの白いモフモフが……ジュラの意思を操っているのか」
違う。
盛大な勘違いである。
ディアはジュラを操ってなどいない。
ただ。
ディアは今のところ、ジュラから明確に拒絶されていない。
それに対して。
グレサスは。
完全に拒絶されている。
それだけだった。
だが。
グレサスは知らない。
そして。
さらに考える。
「言葉を話す」
白い姿。
ジュラに守られているように見える存在。
この森における。
特別な何か。
「…………つまり」
グレサスは。
満面の笑みを浮かべた。
「あれが神獣か!!」
違う。
だが。
本人の中では。
すべてが綺麗につながってしまった。
「ハハハハハハハ!!」
ジュラに笑い声が響く。
「そういうことならば納得だ!!」
グレサスは。
ディアが消えていった方向を見つめながら。
堂々と宣言した。
「次は必ず捕らえてくれる!!」
神獣を。
捕まえる。
そんな恐ろしい発言を。
本人は何の疑問もなく口にしていた。
だが。
今は追わない。
グレサスにも、それくらいの判断力はあった。
「準備が足りんな」
そう。
今のグレサスは。
何も持っていない。
食料も。
水も。
まともな野営道具すら。
何一つ。
普段であれば問題などなかった。
ジュラには魔物がいる。
倒せばいい。
肉を焼いて食えばいい。
水も探せば見つかる。
それだけで十分だった。
だが。
今日は。
「…………本当に何もいないな」
グレサスの前へ。
魔物が現れない。
それどころか。
動物すら見つからない。
食べられそうな野草やキノコはいくらでも生えている。
だが。
「…………」
グレサスはキノコを見る。
「食えるのか、これは?」
分からない。
戦いに関する知識ならば、誰よりも豊富だった。
武器。
魔法。
魔物。
戦術。
そのどれもが一流を超えている。
だが。
そこら辺に生えているキノコが食べられるかどうか。
そんなこと。
知るはずもない。
「ふんっ…………やめておくか」
判断は早かった。
毒が効くかどうか試してみよう。
などとは。
さすがのグレサスも思わなかった。
「一度引き返すか」
そして。
少し考える。
「次は食料を持ってくる。それと……」
周囲を見る。
「こういう場所に詳しい者が必要だな」
ジュラの植物。
食料。
地形。
魔物。
そして。
神獣。
それらについて。
自分より詳しい者。
「…………」
グレサスの頭の中に。
誰が浮かんだのか。
この時。
それを知る者はいなかった。
一方。
その頃。
「ハァ……ハァ……ハァ……!」
ディアは走っていた。
必死だった。
振り返ることすらしない。
「ヤダ……!」
走る。
「ヤダ!!」
走る。
「ドコ!?」
自分を呼んだ声。
優しかった声。
自分に。
ディアという名前をくれた声。
「ドコニイル!?」
それを。
ひたすら探していた。
今まで。
ディアの中に存在していた感情は。
ほとんど一つだけだった。
お腹が空いた。
食べたい。
それだけ。
魔物に襲われても。
身体を食い千切られても。
怖いという感情すら。
ほとんど理解していなかった。
食われても死なない。
ならば。
また食えばいい。
それだけだった。
だが。
今は明確に違う。
「コワイ……!」
初めてだった。
あの男は。
駄目だ。
何故なのかなど分からない。
だが。
本能そのものが。
全力で告げている。
近づいてはいけない。
捕まってはいけない。
逃げろ。
逃げろ。
逃げろ。
「ヤダ……!」
白い身体を震わせながら。
ディアは。
さらにジュラの奥へ進んでいく。
「ドコ……!?」
求めるのは。
ただ一つ。
「ディアヲ……ヨンダノ……」
自分を呼んだ。
あの声。
「ドコニイルノ……!?」
そして。
ディアはまだ知らない。
自分が今。
何から逃げたのかを。
グレサスも知らない。
自分が今。
何を追いかけていたのかを。
二人とも。
互いの正体を。
何一つ理解していない。
ただ一つだけ。
確かなことがあるとすれば。
生まれてから。
空腹という感情だけを頼りに。
食べ。
食われ。
それでも進み続けてきた白い存在が。
この日。
初めて。
明確な『恐怖』を知った。
それほどまでに。
グレサスという男は。
ジュラに生きる者から見ても。
あまりにも異常な存在だったのである。




