ガイルも動き出す。
ジュラの森で、三つの異物がそれぞれの思惑を抱えながら動き始めていた頃。
そこから遥か遠く離れた最果ての地でもまた、一人の男が動き出そうとしていた。
そのきっかけとなったのは、たった一つの報告だった。
最果てに住まう魔族たちは、決して一枚岩ではない。同じ魔族であろうとも互いに争うことは珍しくなく、ましてやこの地に集うのは、いずれも自らを最上位と称して憚らないほどの力を持った者たちである。強者が弱者を従え、さらに強い者が現れればその関係すら簡単に覆る。それが最果てでは当たり前だった。
そんな場所においても、誰もが共通して認識していることが一つだけある。
最も強く。
最も危険で。
そして――絶対に敵へ回してはいけない男。
それが、ガイルだった。
そんなガイルは今。
「グァァァァァァァァァッ!! クッソォォォォォォ!!」
戦っていた。
誰かと戦っているわけではない。
魔法を鍛えているわけでもない。
ただひたすらに――己の肉体を鍛え上げていた。
最果ての地には、『不動の地』と呼ばれる場所が存在する。
なぜ不動なのか。その理由は至って単純でありながら、あまりにも常識から外れている。この地を形成する土や石、そのすべてが異常なまでに重く、そして異常なまでに硬いのだ。
普通の地面を掘るような感覚で鉄製のスコップを突き立てようものなら、地面へ傷をつけるよりも先に鉄の方がひしゃげる。魔力を纏わせた武器であろうと簡単には通らず、たった一センチ掘り進めることすら容易ではない。
そんな不動の地の中でも、ひときわ巨大な物体が存在していた。
岩。
そう呼ぶには、あまりにも巨大すぎる。
いつからそこにあるのかも分からない。誰が最初に見つけたのかも定かではない。ただ、この地に住まう者たちの間では一つの名前だけが残されていた。
――不動の岩。
名前の由来など考えるまでもない。
動かないからだ。
いや、正確には違う。
誰一人として、本気で動かそうなどと考えなかった。
この大地そのものと一体化しているのではないかと錯覚するほど巨大で、重く、硬い。そんなものを動かそうとする行為自体が馬鹿馬鹿しく、誰も挑戦することすらしなかった。
だが。
今、その岩が。
ゆっくりと。
本当に僅かずつではあるものの。
確実に――動いていた。
ズズズズズズズズ――。
ガリガリガリガリガリッ!!
「グゥゥゥゥゥゥゥゥッ!!」
巨大な岩と地面が擦れ合い、最果ての地一帯へ凄まじい音が響き渡る。
キィィィィィィィィィィィィィ――!!
「うぐっ!?」
「み、耳が……!!」
「また始めやがった!!」
周囲にいた魔族たちが一斉に耳を塞ぐ。
だが。
そんなことなどお構いなしに。
「グァァァァァァッ!! クッソ重てぇぇぇぇぇ!!」
ガイルは両腕を不動の岩へ押し当て、全身の筋肉を隆起させながら力任せに押し続けていた。
「動けやゴラァァァァァァ!!」
ズズズズズッ!!
キィィィィィィィィ!!
「うるさぁぁぁぁぁい!!」
一人の魔族がついに耐えきれず叫んだ。
「ガイル様!! もうやめてください!!」
「ァァァァ!? ナニ言ってやがんだァァァ!?」
ガイルは岩を押したまま振り返る。
「俺がここでやめたらよぉ!!」
「はい!?」
「守れねぇだろうがァァァァ!! 違うかァァァァ!?」
「違います!!」
「ァァァ!?」
「我らの耳が先に壊れると言っているのです!! だから一度でいいからやめてくれ!!」
「…………」
ピタリ。
不動の岩が止まった。
同時に。
あれほど最果ての地を震わせていた不快な金切り音も、嘘のように消え去った。
「…………」
静寂。
周囲の魔族たちは、心の底から安堵した。
ようやく理解してくれた。
ようやく終わった。
そう思った。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
ガイルは荒い息を吐きながら額の汗を腕で拭い、やがてニヤリと笑った。
「任せろよ」
「……はい?」
「耳が聞こえなくなってもよぉ……」
「…………」
「俺がなんとかしてやるからよぉぉぉ!!」
「そういう話じゃねぇぇぇぇぇぇ!!」
ズズズズズズ!!
キィィィィィィィィィィ!!
「ギャァァァァァァ!!」
再び始まった。
止まったと思った。
理解してくれたと思った。
だが。
ガイルは何一つ理解していなかった。
もっとも、本人はふざけているつもりなど微塵もない。
ガイルなりに、本気だった。
魔法が効かない存在がいる。
それをガイルは、すでに身をもって知っている。
アルバード。
そして、そこにいる何者か。
かつてガイルは、自らが誇る魔力を真正面から否定されるという経験をした。どれだけ魔力を高めようとも、それ自体を無効化されてしまえば意味がない。
ならば。
魔法が駄目なら。
殴ればいい。
あまりにも単純で。 あまりにもガイルらしい結論だった。
だからこそガイルは、魔力をさらに高めることよりも、生身の肉体そのものを鍛え始めた。魔法が通じないのなら拳で殴る。拳が足りないならもっと鍛える。それでも足りないなら、さらに重いものを動かせばいい。
そうして最終的に辿り着いたのが。
誰も動かせない不動の岩だった。
そんなある意味では真っ当で、ある意味では狂気じみた鍛錬を続けるガイルのもとへ。
「ヒィィィィィィィィ!!」
凄まじい勢いで一人の魔族が飛んできた。
「ガイル様ァァァァ!!」
「ァァァ!? なんだてめぇ!!」
ガイルが岩から手を離す。
「何があったァ!?」
「何があったじゃない!!
「ァァ!?」
「この音だ!! この音が全部の原因だろうが!! 一回でいい!! 一回でいいから止めてくれ!! 大事な話があるんだァァァ!!」
「…………大事な話?」
ピタリ。
再び音が止まった。
「はぁ……はぁ……」
飛んできた魔族は荒い息を整えながら、心底安堵した。
今度こそ。
ようやく。
本題を伝えられる。
「ガイル様……」
「なんだ?」
「ヴェルビェイヌァイの連中が……動いている」
「…………」
ガイルの表情が僅かに変わった。
「ヴェルビェイヌァイ?」
「はい。奴らが最果て近辺にいる魔族たちを次々と傘下へ加えている。それも……尋常ではない勢いで」
「…………」
数秒。
ガイルは考え。
「ァァ!? あいつ、たかが上位のくせに調子乗ってやがんのか!?」
「そこではありません!!」
「ってか、あの程度の奴に統率されるとか、どんだけてめぇら弱ぇんだよ!」
「弱いのではない!!」
報告に来た魔族も思わず声を荒らげた。
「ガイル様! 以前、言っていたではないですか!!」
「何をだよ?」
「魔法が効かない相手がいる、と!!」
「…………ァァ?」
ガイルの眉が僅かに動く。
「んなのアルバードの奴らの話だろ。なんでヴェルビェイヌァイと関係すんだよ」
「分からない!! だから我らも混乱しているのだ!!」
「…………」
「だが、奴には魔法が効かない!」
「…………は?」
「ヴェルビェイヌァイだけではない!! 奴の傘下へ入った魔族の中にも、同じような現象を持つ者が現れ始めている!!」
「…………」
ガイルが黙った。
先ほどまでの馬鹿騒ぎが嘘のように。
「はぁぁ……?」
やがて。
本当に理解できないという顔で首を傾げる。
「なんだよ、それ……」
「それだけではありませんよ!?」
「まだあんのかよ」
「どうやらヴェルビェイヌァイは……アルバードと盟約を結んだんだ!!」
「…………」
「その中心にいる人間の名は――」
一拍。
「レイズ・アルバード」
「…………」
ガイルの目が見開かれた。
「レイズ?」
「はい」
「…………レイズって言ったか?」
「ガイル様……知っているので?」
「てめぇ馬鹿かよ」
「なっ……」
「アルバードの連中が、そもそも俺らの魔力を無効にしてやがったんだ。それに……そのレイズって奴が……最初にディアブロに……」
そこまで言って。
ガイルの言葉が止まった。
「…………」
何かが。
噛み合わない。
「……なんでだ?」
「ガイル様?」
「俺は……」
ガイルの顔から、ほんの少しだけ笑みが消える。
「俺は、人を……王国の強ぇ奴らを引っ張り出すために殺した」
「…………」
「それでアルバードと王国をぶつけて……強ぇ奴らが出てくりゃ、そいつらと戦える。そういう話だったはずだ」
ガイルは頭を掻く。
「なのによぉ……」
その目に。
本気の疑問が浮かぶ。
「なんで魔族がアルバードと手ぇ組むことになってやがんだ?」
「…………」
「意味分かんねぇな」
「それはこちらも同じです!!」
魔族は一歩前へ出た。
「だからこそガイル様!! 我らと共に奴らを討ってください!!」
「ァァ?」
「ヴェルビェイヌァイを! そして奴に従う魔族たちを!! 人間と手を結ぶ魔族など、それこそ我ら魔族の――」
「おい」
「…………」
「俺だって元は人だろうがよ」
「…………」
一瞬。
完全な沈黙が落ちた。
そして。
報告に来た魔族が。
本当に不思議そうな顔をした。
「……ご冗談を」
「ァァ!?」
「ガイル様が、どう見ても人間なわけがないでしょう」
「…………」
「どこからどう見ても、立派な魔族です」
「…………」
「それも最上位の」
「…………クッ」
ガイルの肩が震える。
「クハハハハハハハハ!!」
大爆笑した。
「てめぇ!! それ褒めてんのか貶してんのか分かんねぇよ!!」
「もちろん褒めています!!」
「クハハハハ!! 面白ぇじゃねぇか!!」
「それでガイル様!!」
「ァァ?」
「どうします!? たかだか上位魔族ごときに、このまま好き勝手させるのですか!?」
「…………」
「我ら最果ての魔族が! 奴らの下に置かれるなど――」
「てめぇは、だから弱ぇんだよ」
「…………は?」
ガイルの笑みが消えた。
「魔族が魔族に負けるんなら、俺はどうだっていい」
「ガイル様……?」
「強ぇ奴が上に立つ。弱ぇ奴が下に行く。気に入らねぇなら、ぶっ倒して上に行く。それが魔族だろうが」
「…………」
「魔族は強き者が絶対だ。それは今も昔も変わらねぇ。ヴェルビェイヌァイがてめぇらより強くなったんなら、そいつが上に立つ。それだけだ」
「ですが!!」
「だから俺は、そいつらには興味ねぇよ」
「ガイル様!! しかし奴らは人間と手を結んだのです!! そんなもの、魔族の面汚しでは――」
「ァァ?」
ガイルの目が。
ほんの僅かに細くなった。
「てめぇ」
「…………」
「いつから俺様にそんな意見ぶつけられるほど偉くなった?」
「…………っ!」
魔族の顔色が一瞬で変わった。
「も……申し訳ありません……」
「…………」
「ですが……頼む。我らは奴らを許せないのです」
「…………はぁ」
ガイルは面倒そうに頭を掻いた。
「落ち着けよてめぇ。」
「…………」
「てめぇら、アルバードって場所を正しく理解してねぇ」
「アルバードを……?」
「ァァ」
ガイルは思い出す。
自らが見た。
あの場所を。
「あそこはよぉ……人間の味方ってわけでもねぇ」
「…………」
「だからって、魔族の味方ってわけでもねぇ」
「では……」
「どっちの味方でもねぇんだよ。どちらかって言やぁ……どっちも敵だ」
「…………?」
「俺にもよく分かんねぇ!」
「分からないのですか!?」
「うるせぇな!!」
「も、申し訳ありません!!」
だが。
ガイルの頭の中で。
ある一つの可能性が浮かんだ。
「…………待てよ」
「ガイル様?」
「もし」
口元が。
少しずつ吊り上がっていく。
「もしだぞ?」
「はい……?」
「アルバードが……魔族を選んだってんなら」
「…………」
数秒の沈黙。
そして。
「クハハハハハハハハ!!」
ガイルが突然、大声で笑い始めた。
「ガ、ガイル様!?」
「王国、終わるじゃねぇか!!」
「…………」
「クハハハハハ!! 絶対滅ぶぞ!! あのアルバードが魔族側についたってんならよぉ!!」
「ガイル様……?」
「レイズ……」
ガイルの口から。
その名が漏れた。
「レイズ・アルバード……」
「…………」
「人間なのに、魔族と手ぇ組んだ?」
そして。
何かに気づいたように。
目を見開く。
「……おい」
「はい?」
「そいつ」
ニヤリ。
「俺と同じなんじゃねぇか!?」
「…………はい?」
「クハハハハハハハ!!」
完全に。
何かを勘違いした。
「人間を捨てて!! 魔族を選んだ人間!!」
「ガイル様!?」
「最高じゃねぇかよぉぉぉ!!」
ガイルは、生まれて初めてと言ってもいいほどの感覚に胸を高鳴らせていた。
同類。
同志。
自分と同じように人間でありながら、人間という枠から外れ、魔族側へ歩み寄った存在。
「いるじゃねぇか!!」
ガイルは嬉しそうに拳を握る。
「俺以外にも!! ちゃんといるじゃねぇかよ!!」
無論。
盛大な勘違いである。
レイズ・アルバードは、人間を捨てたわけではない。
魔族を選んだわけでもない。
人間だから守る。
魔族だから殺す。
そのような単純な線引きそのものを拒み、どちらにも守るべき者がいて、どちらにも止めるべき者がいると考えているだけだった。
だが。
そんなレイズの思想を。
ガイルが正確に理解しているはずもない。
「決めた」
「……はい?」
「会う」
「…………誰にですか?」
「レイズに決まってんだろうが!!」
「ガイル様!?」
「クハハハハ!! こいつは一回、直接会わねぇと駄目だ!!」
ガイルは完全にその気になっていた。
「そうと決まれば――」
グッと。
身体を伸ばす。
「行くしかねぇよなぁ!!」
「ガイル様!!」
報告に来た魔族の表情が一気に明るくなる。
「では!! ヴェルビェイヌァイどもを!?」
「違ぇよ」
「…………はい?」
「アルバードに決まってんだろ?」
「…………」
「…………」
「…………は?」
「俺一人でレイズに会ってくる」
「ガイル様ァァァァァ!?」
「なんだよ、うるせぇな!!」
「なぜそうなるのですか!?」
「話聞いてなかったのかてめぇ!! 同志がいるかもしれねぇんだぞ!?」
「同志!?」
「てめぇらはここで待ってろ!!」
「ガイル様!! せめて我らも――」
「いらねぇよ」
「ですが!!」
「心配すんな!!」
ガイルは。
絶対的な自信を持って。
胸を張った。
「絶対うまくいく」
「…………」
「俺様の勘を舐めんじゃねぇ!!」
「…………」
その勘は。
ある意味では。
正しかった。
レイズとガイル。
二人が直接顔を合わせることには、確かに大きな意味がある。
互いに人間と魔族という枠組みに収まりきらない存在であり、その価値観には奇妙なほど重なる部分も存在する。
だが、同時にその勘は致命的なところで大きく外れていた。
なぜなら。
今。
レイズ・アルバードは。
アルバードにいない。
彼は遠く離れたジュラの森へ向かい、そこで神獣メーレを探している。
そして。
今のアルバードに残っているのは。
レイズだけを異常なほど敬愛し。
レイズの命令であれば何よりも優先し。
ヴィルとセバスを心の底から慕い。
その二人の最期に関わった存在へ、決して穏やかではない感情を抱いている男。
さらに。
少し前に。
レイズ本人から。
『ガイルは絶対に殺すな』
そう。
冷たい声で。
絶対の命令を受けたばかりの男。
クリス。
ガイルは知らない。
自分が意気揚々と向かおうとしているアルバードに。
会いたい男はおらず。
代わりに。
その男を世界で最も敬愛していると言っても過言ではない。
度しがたいほどに真っ直ぐで。
度しがたいほどに忠義深く。
度しがたいほどにアホで。
そして――。
度しがたいほどに強い男が。
自分を待っていることを。
「クハハハハハ!! 待ってろよレイズ!!」
ガイルは笑う。
心の底から楽しそうに。
「今から俺様が会いに行ってやるからよぉぉぉ!!」
当然。
返事などない。
それでもガイルは止まらない。
こうして。
ジュラの森でレイズ、グレサス、そしてディアという三つの異物が、それぞれの道を進み始めたその頃。
最果てからもまた。
もう一つの災害が。
アルバードへ向かって。
動き始めたのであった。




