三つの異変
レイズは、ついにジュラの近辺までたどり着いていた。
ここへ来るまでの道中では、いくつかの小さな生物や見慣れない獣の姿を目にすることもあった。だが、ジュラへ近づけば近づくほど、明確に見かけなくなっていく存在がある。それは人だった。
「まぁ……いるわけないか」
レイズは辺りを見渡しながら小さく呟く。
当然といえば当然だった。この近辺にわざわざ居を構える人間などいるはずがない。領土という区分だけで見ればここも王国領の一部ではあるが、王国の騎士たちが常に巡回し、魔物が出れば即座に討伐へ向かってくれるような場所ではない。もしジュラから魔物が一斉に溢れ出せば、それだけで近隣一帯が危険地帯へ変わる。王国の領土でありながら、王国ですらほとんど管理できていない。それがジュラという土地だった。
レイズは一応周囲へ意識を向けていたが、人の気配はまるで感じられない。代わりに辺りへ広がっているのは、どこまでも濃密な自然の気配だった。
「……でかいな」
目の前に立つ一本の木を見上げる。
その巨大さだけでも、普通の人間なら言葉を失うだろう。幹は何人もの大人が手を繋いでも囲みきれないほど太く、見上げても枝葉の先がどこにあるのか分からない。一本一本が、まるで世界樹と呼ばれてもおかしくないほどの威圧感を持っている。
だが、レイズは知っている。
「これでも……違うんだよな」
世界樹。
その存在は、こんなものではない。ジュラに生える巨大な樹木ですら比較にならないほど大きく、そして圧倒的な存在感を持つ。そして何より、その世界樹こそがダークエルフたちが長い間、夢にまで見ながら探し求めているものだった。
レイズは思わず小さく笑う。
「フェリルの探し物か……」
その笑みは呆れから出たものではない。むしろ逆だった。
今ならフェリルだけではない。フェリルの仲間たち、アルバードへ力を貸してくれたダークエルフたち、その全員に世界樹を見せることができるかもしれない。どれだけ喜ぶだろう。どれだけ驚くだろう。そして、どれだけ恩を返すことができるだろう。
アルバードが危機にあった時、彼らは種族の違いなど関係なく力を貸してくれた。ならば今度は自分が返す番だ。
そしてレイズの祖母であるレイ。自身にとって大切な祖母である彼女も、きっと喜んでくれる。
「……見つけたいよな」
レイズは改めて目を凝らした。
だが当然ながら、そんな簡単に見つかるはずもない。レイズは死属性を自身へ薄く纏わせ、ジュラに漂う濃密な魔力の流れを少しずつ散らしながら周囲を探る。それでも何も見つからない。
「まぁ……そりゃそうだよな」
自分でやっておきながら苦笑する。
今レイズがしていることは、砂漠の中に落ちた一粒の黄金を、ただ目だけで探し当てようとしているようなものだった。無謀にもほどがある。
だからこそ、世界樹そのものを探すのではなく、世界樹へ辿り着く方法を知る存在へ先に会わなくてはならない。
それこそが、かつてゲームの世界で主人公カイルの仲間となる存在。
ジュラを守る神獣。
メーレ。
「まずは……あいつだな」
レイズは歩を進める。
そして森へ入れば入るほど、あることへ気づいていった。
「……やっぱり」
森は自分から逃げていない。
深く入るにつれて樹木の種類が変わり、空気が変わり、草木の密度も魔力の濃さも少しずつ違っていく。つまり、自分は確実に奥へ進めている。
「まぁ……ジュラから見たら、俺なんか別に怖くないしな。」
レイズは軽く笑った。
だが、それはあまりにも大きな勘違いだった。
ジュラから見たレイズは、今もっとも理解し難い存在の一つとなっていた。
強者であれば、強者として認識できる。圧倒的な魔力を持ち、圧倒的な存在感を放ち、森そのものが警戒するほどの存在なら、拒めばいい。道を閉じればいい。近づかなければいい。
だがレイズは違う。
魔力を持っている。強い。明らかに普通の人間とは違う。なのに、その魔力が死属性によって、まるでそこに存在しないかのように薄れている。認識しようとすれば消え、捕らえようとすれば曖昧になる。それなのに確実に奥へ進んでくる。
ジュラからすれば、あまりにも理解できない異物。
それが今のレイズだった。
本人だけが、それにまるで気づいていなかった。
その頃。
ジュラの別の場所でも、もう一つの異変が起きていた。
「……なんだ?」
一人の男が首を傾げている。
その男こそ、王国でもジュラへ一人で入る唯一の人間として、半ば噂、半ば事実として語られている存在。
グレサス・グレイオン。
「なぜだ?」
グレサスは明らかに不満そうな顔をしていた。
いつもならジュラへ入れば、いくつかの強力な魔物と遭遇する。それを倒し、さらに奥へ進み、また強い魔物と出会えば戦う。それがグレサスにとってのジュラだった。
だが今日は違う。
「……いない」
魔物の気配がない。
それどころか、避けられている。そう感じるほど何も近寄ってこない。
「妙だな」
だが、その理由をグレサス本人だけがまったく理解していなかった。
グレサスの強さは、すでに森の許容を越えてしまっていた。以前ならジュラも、グレサスを危険な人間の一人として認識していた。だが今は違う。森から見れば、明らかに災害に近い圧倒的な存在。
グレサスの身体から自然と溢れ出す金色の魔力は、ジュラに漂う魔力の空気をまるで塗り替えるように周囲を照らしていた。
「ほう」
グレサスは自分の身体を見る。
「俺の身体が光るか」
暗い森の中、樹木に覆われて本来なら光がほとんど届かないはずの場所を、グレサスの魔力が勝手に照らしている。
「なんとも……これは……とても便利だな」
普通に満足した。
今までなら暗い場所を進む際、光属性の魔法を使い辺りを照らしていた。だが今は、そんな必要すらない。自身の魔力が勝手に周囲を明るくしている。
グレサスは完全に、便利なものを手に入れた程度にしか感じていなかった。
当然、それは便利になったわけではない。
森がグレサスを危険すぎる存在として認識しているだけだった。
故に魔物は近づかない。故に道は少しずつグレサスを本来の進路から遠ざける。
それでも本人は、まったく気づかない。
「ハハハッ!! ジュラ!! こんなことは長く通っていて初めてだ!!」
目を輝かせる。
「つまり!! まだまだ俺を楽しませてくれるということだな!!」
森は何も答えない。
グレサスだけが楽しそうだった。
そしてそのまま、我が道を一直線に突き進んでいく。本人は進んでいるつもりだったが、実際にはジュラの深部へほとんど近づけていない。森が少しずつ道を歪め、右へ進んだつもりが少しずつ左へ、真っ直ぐ進んだはずなのに気づけば同じ場所の近くへ戻っている。
それでもグレサスは、
「面白い!!」
と楽しんでいた。
そしてさらに。
ジュラでは三つ目の異変が起きていた。
白い、ふわふわとした小さな獣のような存在。
それはいつからここにいたのか、誰にも分からない。突然ジュラに現れ、魔物たちに食われた。
だが、死ななかった。
身体を噛み千切られても、食われても、少しすればまた元に戻る。そして自分を食らった魔物へ逆に噛みつき、食べる。
ただ腹が減っているから。
それだけだった。
何者なのか、自分でも分からない。なぜ死なないのかも、なぜジュラにいるのかも分からない。ただ、お腹が空いている。だから食べ物を探し、見つけ、食べる。
それだけ。
そんな白い存在に、突然声が届いた。
『こっち……こっちにおいで……?』
白い獣が足を止める。
その声は恐ろしくなかった。敵意もない。むしろ優しい。何かを自分に与えてくれる。そんな気がした。
白い獣は首を傾げる。
「ドコ……?」
辺りを見る。
誰もいない。
でも、聞こえる。
誰かが呼んでいる。
『ディア……私のもとに……』
「…………?」
白い存在は自分の身体を見る。
「ディア……?」
自分の名前など知らない。
そもそも名前というものが何なのかすら、ほとんど分かっていない。
でも今、誰かが自分へ向かってそう呼んだ。
なら、それが自分なのかもしれない。
「ワタシ……ディア……?」
少し考える。
そして少しだけ嬉しそうに、
「ワタシ……ディア」
初めて、自分に名前ができた。
それだけで少しだけ世界が変わった気がした。
『こっち……』
また声がする。
ディアはすぐに顔を上げた。
「ドコ……? ドコニ……イル!?」
声がする方向へ、まっすぐ向かう。
そして不思議なことに、ディアの歩みだけは確実に奥へ近づいていた。
だが、簡単ではない。
森はディアを理解できない。何者なのか分からない。魔力も、生態も、存在そのものもどこかおかしい。
ただ少なくとも、今のジュラにとっては簡単に排除できる存在。そう判断されていた。
だから魔物たちがディアへ襲いかかる。
噛みつく。
引き裂く。
食らう。
ディアは何度もボロボロになる。
それでも死なない。
また起き上がる。
「ドコ……?」
そして声がする方向へ進む。
「ディア……イク」
また魔物に襲われる。
倒れる。
食われる。
戻る。
それでも進む。
理由などない。
ただ、誰かが自分を呼んでいる。
だから、そこへ行く。
そして今。
ジュラには三つの異物が存在していた。
一つは、ジュラの理を知る者。
レイズ・アルバード。
森が強者を拒絶することを知り、死属性によって自身の存在を曖昧にしながら、それでも確実に奥へ進んでいく。
一つは、ジュラの理を何一つ理解していない者。
グレサス・グレイオン。
強すぎるが故に森そのものから拒絶され、道を閉ざされ、それでも本人だけは楽しそうに「進めている」と勘違いしている。
そしてもう一つ。
何も知らない。
何者なのかすら、自分で理解していないディア。
森から異物として排除されながら、誰かの声に導かれ、傷つき、食われ、それでも少しずつ確実に奥へ近づいていく。
三者。
三つの存在。
それぞれが、まるで違う方法でジュラの理へ触れ始めていた。
レイズは知識で。
グレサスは圧倒的な力で。
ディアは、理由すら分からない何者かとの繋がりで。
そしてその三つの異変が、少しずつジュラという巨大な森の均衡を揺らし始めている。
だが三人とも、まだ知らない。
自分たちが同じ森の中で、それぞれ別の異変を起こしていることを。
そしてその先で、三つの道がいつか一つの場所へ繋がろうとしていることを。




