絶望的な事実。
少し歩いただけだというのに、全身から汗が噴き出していた。荒い息をどうにか整えながら、俺はようやく巨大な屋敷の中へと辿り着く。
「はぁ……はぁ……なんなんだよ、この身体……」
走ったわけでもなければ、長い坂道を登ったわけでもない。ただ屋敷まで歩いただけ。それなのに足は鉛でも括りつけられたように重く、肺は必死に空気を求め、額から流れた汗が頬を伝っていく。この身体が今までどれだけ運動をしていなかったのか、それとも単純にこの体重そのものが原因なのか、今の俺には分からない。ただ一つだけ確かなのは、以前の俺とは比較にならないほど身体を動かすことが苦しいということだった。
「……しんどすぎるだろ……」
思わずそう呟きながら重厚な扉をくぐると、その先には長い廊下が続いていた。外から見ても巨大な屋敷だったが、中へ入るとその広さがさらによく分かる。磨き上げられた床、高い天井、壁に飾られたいくつもの絵画。少なくとも普通の人間が暮らしているような家ではない。どこかの貴族か、それに近い立場の人間が暮らしているのだろう。
そして、どうやら俺もここの人間らしい。
先ほどから使用人たちは俺を見るたびに目を逸らしている。誰一人として「あなたは誰ですか」と尋ねてこない。それどころか、俺が近づくだけで道を空け、中には頭まで下げる者がいる。つまり向こうは俺を知っているのだ。自分が何者なのかを知らないのは、どうやら俺だけらしい。
「……ほんと、誰なんだよ……俺」
答えを探すように周囲を見回しながら廊下を進んでいると、不意に視界の端で光を反射するものが見えた。
「…………あ」
思わず足を止める。
廊下の片隅に立てかけられていたのは、一枚の大きな鏡だった。
「……やっと見つけた……」
探していた。自分の姿を確認できるものを、この世界へ来てからずっと探していた。だというのに、いざ鏡を目の前にすると、先ほどまで必死に動かしていた足が急に止まってしまう。
正直に言えば、見たくない。
手を見れば分かる。腹を触ればもっと分かる。頬に触れた感触からだって、今の俺が以前とはまったく違う身体になっていることくらい理解できている。それでも顔だけはまだ知らない。だからこそ余計に怖かった。
「…………よし」
それでも、知らないままでいるわけにはいかない。何より俺は、この世界で自分が何者なのかすら知らないのだ。覚悟を決め、俺はゆっくりと鏡へ近づいていった。
そして、おそるおそる自分の姿を映す。
「…………え?」
思わず声が漏れた。
「……まじで………誰これ……?」
そこに映っていたのは、俺の知らない少年だった。年齢は十一……いや、十二か? 十四くらいにも見える。正確には分からないが、少なくとも大人ではない。間違いなくまだ少年と呼ばれる年齢だ。
金色の髪は窓から差し込む陽光を受けて輝き、瞳は深い海のような青色をしている。肌もかなり白く、鼻筋も整っていて、唇の形だって悪くない。
俺は鏡へ少し顔を近づけ、右を向き、次に左を向いてみる。
「いや……顔だけなら、めちゃくちゃ整ってなるとは思う……」
自分のことを自分で褒めるのも妙な話だが、普通に美少年だった。いや、かなりの美少年と言ってもいいかもしれない。金髪碧眼に白い肌。これだけ聞けば、異世界に転生した主人公としては申し分のない見た目だ。
「なんだよ……ちゃんと当たりじゃ――」
そこまで言いかけて、視線を下げる。
「…………」
頬は丸い。顎は肉に埋もれ、首との境目が曖昧になっている。肩も丸く、そしてさらに視線を下へ移せば、鏡の中で圧倒的な存在感を放つ巨大な腹があった。
「…………いやいやいや」
もう一度顔を見る。
美少年。
腹を見る。
でかい。
顔を見る。
かなり整っている。
腹を見る。
やっぱりでかい。
「…………なんだこれ」
素材だけなら間違いなくいい。それなのに、そのすべてを覆い隠すような圧倒的な肉の存在感。頬は丸く膨らみ、せっかく整っている顎の輪郭も埋もれ、腹に至っては鏡の手前へ向かってこれでもかというほど主張している。
あまりにも不釣り合いだった。
「いや……もったいなさすぎるだろ……」
自分のことなのに、思わずそんな感想が漏れる。髪も目も顔立ちも、おそらく相当に恵まれている。それなのに、この身体だけですべてが台無しになっていた。
俺は恐る恐る自分の腹へ手を伸ばす。
ぷにっ。
「…………」
もう一度触る。
ぷにっ。
間違いなく現実だった。
「…………マジかよ」
俺が鏡の前で頭を抱れた、そのときだった。
「あ、あの……」
突然、背後から声が聞こえた。
「…………?」
振り返ると、少し離れた場所に一人のメイドが立っていた。先ほど外で見かけた使用人の一人だろうか。俺より少し年上にも見える少女で、両手を身体の前で重ねながら、こちらの様子を窺っている。
だが、やはりおかしい。
俺と目が合った瞬間、少女の肩がわずかに跳ねた。
まただ。
やっぱり怖がられている。
俺は何もしていない。少なくとも、この世界に来てからは何もしていない。それなのに、この少女は明らかに俺の顔色を窺っている。だとすれば、問題があるのは今の俺ではなく、この身体の元の持ち主なのだろう。
いったい何をしたんだ。
そう考えた、そのときだった。
「あの……レイズ様……?」
「…………」
時間が止まったような感覚がした。
「…………は?」
今、なんて言った?
少女は俺の反応に驚いたのか、さらに身体を強張らせながら、もう一度同じ名前を口にする。
「レ、レイズ様……?」
聞き間違いではない。
はっきりと聞こえた。
レイズ。
確かに、この少女は俺をそう呼んだ。
「…………レイズ?」
自分の口からその名前が漏れた瞬間、心臓がドクンと大きく跳ねる。
「…………いや、待て」
待て待て待て。
俺は勢いよく鏡へ振り返った。
金色の髪。青い瞳。白い肌。そして、太った身体。
レイズ。
アルバード・レイズ。
「…………え?」
もう一度、鏡の中の少年を凝視する。
だが、違う。
俺の知っているレイズじゃない。
ゲームのチュートリアルで、俺が何度も、何十回も、何百回も見続けた男。俺がカイルを操作して何度も倒し、そのたびに何かがおかしいと感じ続けた男。世界を変えかねない死属性を持ちながら、その力を使うこともなく、氷属性の片鱗すら見せず、最後にはどこか安心したような顔で倒れていった――アルバード・レイズ。
確かに特徴は似ている。
金髪。
青い目。
太った身体。
だが、決定的に違う。
「…………若すぎないか?」
俺の知っているレイズは、もっと年上だった。
少なくとも、こんな少年ではない。
ゲームの中で何度も見たレイズを、そのまま何十年か若返らせれば、目の前にいるこの少年になるのかもしれない。
そう考えた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
「…………まさか」
俺は、レイズに転生した?
いや。
それだけじゃない。
俺が知っているレイズよりもずっと昔――その少年時代に?
「あ、あの……レイズ様。大丈夫ですか……?」
背後から少女の声が聞こえ、俺はゆっくりと振り返った。
大丈夫?
俺はもう一度、自分の身体を見る。
この腹。
この姿。
そして何より、自分が今誰なのかを考える。
チュートリアルでカイルに殺される男。世界を変えられるかもしれない死属性を持ちながら、氷属性すら使わず、何もできないまま物語から消えていく男。
その少年時代に。
俺はいる。
「…………大丈夫なわけないだろぉぉぉぉぉ!!」
叫び声が屋敷の廊下に響き渡った。
「ひっ!?」
少女が大きく肩を震わせ、その場で飛び上がる。
「ご、ごめんなさい! 申し訳ありません!」
「えっ!? いやいやいや! 違う違う! 君に怒ったんじゃない!」
少女が顔を青ざめさせながら何度も頭を下げ始めたため、俺も慌てて両手を振った。
「そうじゃなくて! 俺は、その……!」
何か説明しなければならない。
だが、何を説明する?
別の世界から来て、気がついたらレイズになっていました。
そんなことを言えるわけがない。
混乱した俺が咄嗟に掴んだのは――自分の腹だった。
がしっ。
「見ろよこれ!」
ぷるん。
「…………え?」
少女が固まった。
「どう見ても大丈夫じゃないだろ!?」
ぽよん。
「俺が一番びっくりしてるんだよ!?」
「…………」
廊下に沈黙が落ちた。
長い。
ものすごく長い沈黙だった。
少女は俺の顔を見たあと、ゆっくりと視線を下げて腹を見る。そして、もう一度俺の顔へ視線を戻した。
やめろ。
そんな目で見るな。
俺だって分かっている。
今の発言が意味不明なのは。
「…………その」
少女が何かを言おうとして、口を閉じた。
「なんだよ……」
「い、いえ……」
「…………」
気まずい。
ものすごく気まずい。
俺はその視線から逃げるように、再び鏡へ顔を向けた。
そこに映っているのは、金髪碧眼の太った少年。
――アルバード・レイズ。
「…………マジか」
ようやく、現実が少しずつ頭の中へ染み込んでくる。
俺は異世界へ来た。
それも、おそらく俺が何度も遊んだゲームの世界。
そして、よりによって俺が何度も何度も倒し続け、その過去を知りたいと願っていた男になっている。
「…………レイズ」
自分の名前になってしまったその言葉を、もう一度小さく呟く。
しかし、分からないことだらけだった。
ここはいつだ?
ゲーム開始まで、あと何年ある?
そもそも俺は何歳なんだ?
なぜ使用人たちは俺を見るだけで怯える?
少年時代のレイズに、いったい何があった?
そして――俺が知っているあのレイズは、なぜあんな大人になった?
そこまで考えた瞬間。
一つの言葉が脳裏に蘇った。
――『昔だったら、おまえみたいなの簡単に倒せるのにな』
「…………昔」
俺は鏡の中の自分を見つめる。
まさか。
ゲームのレイズが言っていた、その『昔』というのは。
――今なのか?
ぞくりと背筋に寒気が走った。
もしそうなら。
俺が何度ゲームを繰り返しても知ることのできなかった答えが、この時代にはあるのかもしれない。
なぜレイズは力を使わなくなった?
なぜ氷属性まで使わなかった?
なぜあれほど異質な死属性を持ちながら、チュートリアルで何もできずに敗北した?
そして、なぜ死ぬ直前。
あんなにも安堵したような顔をしていた?
俺は知りたかった。
ずっと。
何度ゲームをやり直しても分からなかった。
アルバード・レイズという男の過去を。
その答えを探し続けた結果、俺自身がその男の少年時代に立っている。
偶然なのか。
それとも何か意味があるのか。
今の俺には分からない。
「…………」
無意識に拳を握っていた。
そのとき。
「……レイズ様?」
再び少女の声が聞こえ、俺は振り返った。
少女はまだ俺を見ていた。
ただ、その表情が先ほどまでとは少し違うような気がした。
怖がっている。
それは間違いない。
だが、それだけではない。
何かを確かめるように俺の顔を見ている。まるで、知っているはずの人間が突然知らない行動を取り始めたことに、どう反応すればいいのか分からないような――そんな戸惑いが見えた。
「…………?」
なんだ?
俺、何か変なことしたか?
…………いや。
したわ……。
いきなり腹を掴んで「見ろよこれ!」と叫んだ。
間違いなく変だった。
だが、本当にそれだけなのだろうか。
俺には分からない。
この少女が、これまでのレイズをどんなふうに見ていたのか。
レイズが普段、使用人たちへどんな態度を取っていたのか。
なぜ皆が俺を見るだけで怯えるのか
俺は何も知らない。
だからこそ、この少女の視線が何を意味しているのかも、今の俺にはまだ分からなかった。
ただ。
もし俺が本当にアルバード・レイズなのだとしたら。
俺がゲームの中でずっと知りたかったことは、これから嫌でも知ることになるのかもしれない。
なぜこの少年が、あの男になったのか。
なぜ力を失ったのか。
なぜカイルの前で、死を受け入れるような顔をしたのか。
そして。
その結末を――。
今度は俺自身が迎えることになるのか。
鏡の中に映る少年の青い瞳を見つめながら、俺は初めて、自分が転生したという事実よりも恐ろしいものを感じていた。
俺はこの世界で。
アルバード・レイズとして生きていかなければならない。




