転生が始まる
ここは……俺のいた世界じゃない。
そう確信した瞬間、背筋に冷たいものが走った。
目の前に広がっていたのは、見慣れたアスファルトの道路でも、信号機のある交差点でも、コンビニの看板でもなかった。足元には古びた石畳が敷き詰められ、その向こうには、巨大な屋敷がまるで城のようにそびえ立っている。
高い塀。重厚な門。手入れの行き届いた庭園。遠くに見える噴水。
そして、その屋敷の前を行き交うのは、黒と白の衣装に身を包んだメイドたちだった。
どう見ても、現代日本ではない。
俺はしばらく呆然と立ち尽くしていた。夢だと思いたかった。いや、夢であってほしかった。けれど、頬を撫でる風の感触も、石畳から伝わる硬さも、額に滲む汗の気持ち悪さも、あまりにも現実味を帯びている。
「……なんだよ、これ……どこだよ…それに……」
声に出した瞬間、自分の声に違和感を覚えた。
少し幼い。少し高い。けれど、息が詰まったように重い声。
俺は無意識に、自分の手を見下ろした。
「……は?」
そこにあったのは、俺の知っている手ではなかった。
太い。
指が、めちゃくちゃ太い。
丸みを帯びた指。短く見える手のひら。関節の形すらはっきりしない。俺の手は本来、細くすらりとしていたはずだ。いや、正直に言えば、不健康なほど細かっただけかもしれない。それでも、少なくともこんな手ではなかった。
嫌な予感が全身を駆け巡る。
俺は慌てて腹に手を当てた。
分厚い。
指が沈み込むほど柔らかい肉がそこにあった。
続けて頬に触れる。
丸い。
顎の輪郭も曖昧で、首元にも重たさがある。
「う、うそだろ……?」
喉が乾いた。
認めたくなかった。
だが、認めるしかなかった。
「太ったキャラに……転生したってやつなのか…?」
言葉にした瞬間、それは急に現実として俺の前に立ちはだかった。
異世界転生。
その可能性だけなら、まだ理解できた。物語の中ではよくある話だ。事故に遭ったのか、死んだのか、神様に選ばれたのか、理由は分からない。けれど、見知らぬ世界にいる以上、そう考えるしかない。
だが問題はそこじゃない。
なぜ、この身体なんだ。
勇者でもない。王子でもない。天才魔法使いでもない。誰もが振り返るような美形でもない。
俺は、太った少年になっていた。
「デブキャラ転生……? なんで……なんでよりによって……意味がわからなすぎる!!」
情けない声が漏れる。
自分で言っていて、惨めだった。
俺は必死に周囲を見回した。
「鏡……鏡はどこだ……」
一刻も早く、自分の姿を確認したかった。見たいわけじゃない。むしろ見たくない。だが、見なければ何も始まらない気がした。
自分が何者なのか。
どんな顔をしているのか。
どれほど酷い状態なのか。
それを知らないままでは、息をすることすら落ち着かなかった。
だが、俺が屋敷の方へ向かおうとした瞬間、異変に気づいた。
メイドたちが、俺を見ている。
いや、正確には見てすぐに目を逸らしている。
俺の存在には確実に気づいている。けれど、誰も声をかけてこない。誰も近づいてこない。むしろ、俺がそちらに視線を向けるだけで、彼女たちはわずかに肩を震わせ、そっと距離を取っていく。
まるで、触れてはいけないものを見るように。
まるで、関わりたくないものを避けるように。
胸の奥がざわついた。
なんだよ。
俺、そんなにひどいのか。
姿が醜いからか。
それとも、この身体の持ち主が何かをしたのか。
分からない。
何も分からないことが、こんなにも怖いとは思わなかった。
俺は震える足を一歩前に出した。
その瞬間だった。
「……っ! お、重てぇ……!」
全身が沈んだ。
一歩。
本当に、ただ一歩踏み出しただけだ。
それなのに、足には鉛を巻きつけられたような重さがあった。太ももが擦れる感覚。膝にかかる負担。腹の肉が動きに合わせて揺れる不快感。腕を持ち上げようとしても、思ったように動かない。
身体が、自分のものじゃない。
いや、今はもう自分のものなのだろう。
だからこそ、余計に気持ち悪かった。
「なんだよ……これ……」
呼吸が乱れる。
はぁ、はぁ、と情けない息が漏れた。
少し歩いただけで息が切れる。額から汗が流れ、背中にじっとりとした熱がこもる。心臓が早鐘を打っているのは、恐怖のせいなのか、この身体のせいなのか分からなかった。
信じられなかった。
こんな身体で、今までどうやって生きてきたんだ。
いや。
この身体の持ち主は、どういうふうに扱われてきたんだ。
俺はもう一度周囲を見る。
メイドたちは相変わらず視線を逸らしていた。中には俺と目が合った瞬間、慌てて頭を下げる者もいた。けれど、そこに敬意はない。忠誠もない。あるのは恐怖か、嫌悪か、あるいは諦めに近い何かだった。
「……なんなんだよ」
声が震えた。
俺は何をした。
いや、俺じゃない。
この身体の持ち主が、何をしたんだ!?。
そのとき、ひそひそと小さな声が耳に届いた。
使用人たちが囁き合っている。
「……また……ですか…」
「見ない方が……」
「誰か、セバス様を……そもそも部屋からでてくるなんて……」
断片的な言葉だけが耳に入る。
意味は分からない。
だが、俺に向けられたものだということだけは分かった。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
恥ずかしい。
悲しい。
腹立たしい。
でも、それ以上に怖い。
知らない世界に放り出されたことよりも、自分の身体が変わっていたことよりも、周囲の人間が俺を知っているような目で見ていることが恐ろしかった。
俺だけが知らない。
この世界のことも。
この屋敷のことも。
この身体のことも。
そして――この身体の持ち主が、どんな人間だったのかも。
「俺は……誰なんだよ……」
呟いた声は、誰にも届かなかった。
メイドたちは俺を避けるように道を空ける。屋敷の門は重々しく開かれている。まるで、俺を中へ招き入れているようだった。
けれど、その先に待っているものが歓迎ではないことだけは、なぜか分かった。
足が竦む。
進みたくない。
けれど、ここに立ち尽くしていても何も変わらない。
俺は震える拳を握りしめた。丸く、太く、力の入りにくい手。それでも必死に握った。
そして、もう一歩だけ前に出る。
重い。
苦しい。
怖い。
それでも進むしかなかった。
知らない世界。
知らない身体。
知らない人間関係。
何もかもが不気味で、何もかもが俺を拒んでいるように見えた。
ただひとつだけ、確かなことがある。
俺はこの瞬間から、この身体で生きていかなければならない。
たとえこの身体の持ち主が、どれほど嫌われていたとしても。
たとえこの屋敷の誰もが、俺を蔑んでいたとしても。
俺はまだ、何も知らない。
だからこそ、知らなければならない。
俺が誰なのか。
この世界で、俺が何者として扱われているのかを。
その答えを求めるように、俺は屋敷の中へと足を向けた。




