難関はすぐ側に
「さてと……」
レイズは小さく呟き、旅の荷物を背負い直した。
思えば、この世界へ来てからというもの、本当の意味で自由な旅へ出るのはこれが初めてだった。もちろん今回にも目的はある。ダークエルフと交わした約束を果たすため、王国領に存在するジュラの森へ向かい、そこにいる神獣と会わなければならない。だが、それでも今までとはまるで違う。これまでアルバードの外へ出る時には、いつだって何かしら重たいものがレイズの肩へ乗っていた。アルバードの未来、王国との争い、魔族との戦い、原作で知っている滅びの未来、そして誰かの命。何かを変えるため、何かを守るため、あるいは誰かを救うために動き続けてきた。
だが今は、王国との長い争いも終わった。王国領へ足を踏み入れた瞬間に敵として扱われることもなければ、アルバードの家名だけで命を狙われるような関係でもない。ジュラへ向かう以上、完全な観光旅行などとは到底言えないものの、それでも今までレイズが感じてきた重圧とは比べものにならないほど心は軽かった。
ゲームの知識としてではなく、自分の目でこの世界を見る。
風の匂いも、知らない町も、そこで暮らす人々も、この世界にしかない景色も。
ようやく、それを純粋に楽しめるのだ。
「ふふふ……」
自然と笑みがこぼれる。誰かに追われているわけでもない。クリスに鍛錬へ連れ出されるわけでもない。イザベルに説教されるわけでもない。今日は完全に一人なのだ。
――自由だ。
そんな解放感を噛み締めながら、レイズはアルバードを抜けるため町へ向かっていった。
そして、その自由な一人旅は。
始まって早々、いとも簡単に終わりを迎えた。
「あっ!! レイズ様だ!!」
「…………」
一人の子供が指差した瞬間、レイズは嫌な予感を覚えた。
「レイズさまぁぁぁ!!」
「本当だ! レイズ様だ!」
「今日はお一人なのか!?」
「クリス様がいないぞ!」
「おい! だったら今なら普通に話せるんじゃないか!?」
「ちょ、ちょっと待て!! なんでそうなるんだよ!?」
最初は数人だった。それが十人になり、気づけば二十人を越え、通りの店からも人が顔を出し始める。噂というものは恐ろしいもので、「レイズ様が一人で町を歩いている」という情報は、まるで何かの祭りでも始まったかのような勢いで広がっていった。
「レイズ様! この前の明かり、本当に助かっています!」
「レイズさまのおかげで夜も明るいから、昨日も外で遊べたんだよ!」
「こら! あんたは子供なんだから、明るくても夜に出歩いちゃ駄目でしょ!」
「だって明るいもん!」
「明るいかどうかの問題じゃありません!」
「いや……それ俺に言われても困るんだけど……」
親子のやり取りにレイズが苦笑している間にも人は増えていく。
「レイズ様! 今日はどちらへ向かわれるのですか?」
「ん? ちょっと出掛けるだけだよ」
「出掛ける……?」
町人の一人がレイズの進もうとしている方角を眺め、ふと表情を曇らせた。
「まさか……王国へ?」
その一言で、それまで賑やかだった周囲の空気が少しだけ変わった。
王国とアルバードの争いが終わったことは、既に多くの者が知っている。国王カイネル自らアルバードへ訪れ、レイズと直接話し合い、長く続いてきた関係に終止符が打たれたことも伝わっていた。しかし、頭で理解できることと、長い年月をかけて染みついた感情は別物だ。昨日まで敵として警戒していた国を、今日から完全に信用しろと言われたところで、簡単に切り替えられるものではない。
「レイズ様……まさか、お一人で王国へ向かわれるのですか?」
「護衛も何もつけずに……?」
「クリス様はどうされたのです?」
「ちょ、ちょちょ! 待てって! 王国に行くわけじゃないから!」
「それでは一体どちらへ!?」
「それは……ちょっと言えないけど」
「次はどんな発明を!?」
「だから発明しに行くんじゃない!」
「レイズ様! 今度は何を作るんです!?」
「話を聞けよ!」
「レイズさまぁぁ!!」
「おい! 純粋!! フェリルには会いに行かないのか!?」
「…………」
レイズの眉がぴくりと動く。
「おい!? 今、誰だ!? 純粋って言ったやつ!!」
周囲から一斉に笑い声が上がった。
「誰でしょうね、レイズ様!」
「絶対この中にいるだろ!」
「純粋様!」
「増やすな!!」
ますます笑い声が大きくなる。もはや当主と領民というより、町の人気者が久しぶりに一人で歩いているのを見つけたような騒ぎだった。
本来ならば、ここまで簡単にレイズへ近づくことはできない。外へ出る時には大抵誰かが護衛として付き、その中でも圧倒的に多いのがクリスだった。町の者たちは決してクリスを嫌っているわけではないし、本気で恐れているわけでもない。むしろアルバードを守る圧倒的な戦力として、そしてレイズを誰よりも大切にしている従者として信頼されている。
ただし、レイズに関することになると異様に厳しい。
子供が勢いよくレイズへ飛びつこうとすれば「転ばせたらどうするのです」と止められ、人が一斉に集まれば「レイズ様がお困りです」と散らされ、少し強く肩でも叩こうものならクリスの視線が飛んでくる。一つ一つを見れば間違ったことは言っていないのだが、とにかく圧が強い。
故に町の人々の間では、いつしか暗黙の了解が出来上がっていた。
――クリス様がいる時は、レイズ様へ近づきすぎない方がいい。
だが今日は、そのクリスがいない。
しかもレイズは一人。
「今日しかないぞ!」
「だから何が今日しかないんだよ!?」
また笑い声が響いた。
十四歳となったレイズは、かつての姿から大きく変わっていた。今ではすっかり整った顔立ちの少年となり、見た目だけなら英雄だの当主だのという重たい言葉より、普通の少年として見られてもおかしくはない。
だが、アルバードの民にとって彼は紛れもなく英雄だった。
レイズが生み出したメモリアルストーンによって夜には明かりが灯り、生活に必要な水や熱を得る方法も大きく変わった。新しい仕事が生まれ、商人が訪れ、様々な資源が巡り、以前ならアルバードから出ていく者を心配していたというのに、今では逆にこの地へ移り住む者が増えている。
そして何より、今のアルバードを歩けば、かつてなら考えられなかった光景が当たり前のように目へ入る。
人間の商人と魔族の男が同じ商品を前に笑いながら値段について話し、その向こうではダークエルフの女性が町の住人と料理について何やら言い合っている。子供たちは種族の違いなど気にも留めず、その間を駆け抜けていく。魔族だからと剣を抜く者はいない。ダークエルフだからと距離を取る者もいない。少し珍しそうに見る者くらいはいても、それだけだった。
人間も。
魔族も。
ダークエルフも。
同じ町で暮らし、働き、笑っている。
王国から見れば異端。
帝国から見ても異端。
おそらく魔族から見ても異端。
それでも確実に、アルバードという場所は以前とはまるで違う土地へ変わり始めていた。
そして、その中心にいる本人だけが。
「た、頼むから……お願いだから行かせてくれよ……」
人の波に飲まれ、町から出ることすらできなくなっていた。
その切実な願いは、残念ながら誰にも届かない。
決して舐められているわけではない。
尊敬されていないわけでもない。
むしろ、その逆。
あまりにも尊敬され。
あまりにも感謝され。
そして、あまりにも愛されすぎていた。
そんなアルバードの民から向けられる重たい愛情こそが、レイズにとって自由な旅路に立ちはだかる最初の難関になるなど、この時のレイズは露ほどにも考えていなかった。
◇
その頃、アルバードの屋敷では。
「ほんっとに馬鹿なのよ……あの男は!!」
イザベルの苛立った声が響いていた。
「まぁまぁ……イザベル様。心配なのは、私たちも同じですから……」
リアノが宥めるものの、イザベルの不満は収まらない。
「そうでしょ!? 護衛を一人もつけずに、当主が一人で危険地帯へ出掛けるなんて、どこの常識にそんな話があるのよ!?」
「えぇ……非常識と言えば、確かに非常識です」
クリスが真剣な顔で頷く。
「でしょ!?」
「ですが、それすら常識へ変えてしまうのがレイズ様です」
「…………」
ディアナが思わず笑った。
「意味が分かりませんよ、それ」
「レイズ様ですので」
「もっと分かりません」
「だからぁ! そこで納得しないでよ!」
イザベルが頭を抱える。そんなやり取りの最中だった。
クリスが突然、町のある方向へ顔を向けた。
「…………」
「どうしたの、クリス?」
イザベルが尋ねる。
クリスは数秒黙り込み、何かを考えているような顔をした。そして次の瞬間、すぐ隣にいたディアナを見る。
「ディアナ」
「はい?」
「私と町へ買い出しへ行きます」
「…………はい?」
ディアナが目を瞬かせる。
「そういえば、レイズ様からお願いされていたことを、たった今思い出しました」
「たった今って……」
ディアナは怪しむようにクリスを見る。
「絶対にお願いなんてされていませんよね、それ?」
「されました」
「いつですか?」
クリスは一切迷わず答えた。
「レイズ様の心が、私にお願いをしたのです」
「…………」
リアナが思わず声を上げた。
「なんですか!? それは!!」
「私が聞きたいですよ!」
ディアナまで即座に突っ込む。
しかし、クリスだけは至って真剣だった。
「行きますよ、ディアナ」
「ちょっと待ってくださいって!」
イザベルはそんな二人を眺めながら、深く深くため息を吐いた。
「はぁぁぁ……。クリスとディアナ、それにリリアナさんもいて……私たちでどうやってアルバードを回せっていうのよ……」
「大丈夫ですよ」
ディアナはクリスに腕を掴まれそうになりながらも、イザベルへ優しく笑った。
「レイズ様がいらっしゃれば、もちろん皆さん活気が出ますし、アルバード全体が明るくなるのも事実です。でも今のアルバードは、レイズ様が数日いらっしゃらないくらいで止まってしまう場所ではないと思います。皆さん自分たちで考えて、自分たちで良い方向へ進めるようになっていますから」
「だからぁ……そういうことじゃなくてぇ……」
イザベルは口を尖らせる。
ディアナはその反応を見て、少しいたずらっぽく笑った。
「寂しいんですよね?」
「…………」
イザベルの顔が赤くなる。
普段ならすぐに否定したかもしれない。
だが今回は。
少し俯いてから、コクリと頷いた。
「……うん」
その素直すぎる返事に、リアノが優しく笑う。
「だって……仕方ないじゃない。学院に行くことまで決まって、これからどれくらいアルバードにいられるのかも分からないのに……その前から一人でどこか行っちゃうんだから……」
「大丈夫です!」
リアナが勢いよく手を挙げる。
「私とリアノに任せてください! なるべく早くレイズ様をアルバードへ連れ帰りますので!」
「どうやってよ……」
「学院でも私たちがずっと側にいます!」
「そっちの話!?」
すると今度は、リアノが別の意味で不安そうな顔をした。
「そ、それよりも……私とリアナ……本当に学院を卒業できるのでしょうか……」
「…………」
次から次へと増えていく問題に、イザベルはとうとう頭を抱えた。
「ううぅ……もう考えたくない……」
レイズのこと。
ジュラのこと。
学院のこと。
アルバードのこと。
リアナとリアノの入学。
考えなければならないことが多すぎる。
そして最終的に、イザベルは町のある方向へ恨めしそうな視線を向け、ぼそりと呟いた。
「こんなに寂しい思いをさせるレイズくんなんか……一回くらいバチが当たればいいのよ……」
「そうはさせません!!!」
「うわっ!?」
クリスが即座に反応した。
「レイズ様に降りかかる災いは、このクリスがすべて排除いたします!」
「ただの言葉の綾よ!!」
「ディアナ! 行きます!」
「えっ!? ちょ、ちょっと!?」
クリスはディアナの手を掴むと、そのまま町へ向かって歩き始めた。
「クリス様!? 待ってください! そもそも何を買いに行くんですか!?」
「着いてから考えます」
「やっぱり買い出しは嘘じゃないですかぁぁ!!」
「急ぎます」
「だから歩幅を合わせてくださいってぇぇ!!」
半ば強制的に連れていかれるディアナの悲鳴が、どんどん遠ざかっていく。
クリスは、本質的なところではかなりアホである。
だが、とてつもなく強い。そしてレイズに関することだけは、異様なほど敏感な男でもあった。
レイズ自身すら気づいていない危険や、何かが起こる前兆。理屈として説明できるわけでもないのに、それを誰よりも早く感じ取ることがある。それが長年レイズの側に仕えてきた経験によるものなのか、あるいは単純にレイズへ意識を向けすぎているだけなのか、それはクリス本人にも分からない。
だが今回も、クリスは何かを感じていた。
だから町へ向かう。
そして一人ではなく、ディアナを連れていくことを選んだ。
そんな二人の背中をしばらく眺めていたリアノが、やがてぽつりと口を開く。
「……ディアナさんって」
「ん?」
「クリス様のこと……好きですよね?」
イザベルがリアノを見る。
「リアノもそう思う?」
「やっぱり、そうですよね……?」
リアナが元気よく割り込んだ。
「ちょーラブラブですよ!」
「どこがよ」
イザベルは思わず笑ってしまう。
「どう見てもクリスは何にも気づいてないでしょ」
「えぇ……ディアナさん、あんなに分かりやすいのに……」
リアノも苦笑する。
「無理よ」
イザベルは即答した。
「クリスだもの」
「クリス様ですからね……」
「クリス様ですもんね!」
三人の意見が見事に一致する。
そこでイザベルは、ふと何かに気づいた。
「…………あ」
「どうしました?」
「いや……なんていうか……」
イザベルは少しだけ遠い目をしながら、町の方向を見る。
「レイズくんとクリスって、そういうところだけは妙に似てるのよね……」
「そういうところ?」
「女の子の気持ちに、びっくりするくらい鈍いところ」
「…………」
リアノは少し考えてから納得したように頷く。
リアナに至っては即答だった。
「確かに!」
レイズとクリス。
性格も違えば、立場も違う。物事の考え方も違えば、戦い方だってまるで違う。
それでも、この二人に奇妙な共通点があるとするなら。
それは――乙女心に、致命的なほど疎いことだった。
イザベルがどれほど分かりやすく想いを寄せようとも、レイズは気づかない。
ディアナがどれほどクリスへ好意を向けようとも、クリスは気づかない。
そして、その事実だけは。
もはやアルバードでは本人たち以外のほとんど全員が理解している、周知の事実となりつつあった。




