意味
その頃、王国へ帰還した一団が王都へ到着した頃には、すでに空は夕刻の色へ染まり始めていた。西の空には橙色の光が残り、王城の白い外壁を淡く照らしている。長い道のりを終えた馬車がゆっくりと速度を落とし、やがて王城へと続く場所で完全に停止した。
本来であれば、ここから先にも決められた行程がある。国王の帰還ともなれば、迎えの者たちが整列し、国王が歩くための道が用意され、護衛の配置が確認され、側近が先導する。城内へ戻るまでの一つ一つの動きに王族としての様式が存在し、それを崩すことなど滅多にない。
少なくとも、これまでのカイネルならば。
「陛下。しばしお待ちを。すぐに迎えの準備を――」
その言葉が終わるより早く、馬車の扉が開いた。
「…………え?」
カイネルが降りる。そして、そのままスタスタと歩き始めた。
「へ、陛下!?」
エルンストが慌てて馬車を降りる。
「陛下、お待ちください! まだ迎えの準備が――!」
「構わぬ」
「ですが!」
「必要ない」
歩みは止まらない。それどころか、普段のカイネルからは考えられないほど速い。エルンストは半ば小走りになりながら、その背中を追いかけることになった。
ありえない光景だった。国王である。王国という巨大な国、その頂点に立つ人物であり、一挙手一投足そのものが王国の権威を示す存在だ。そのカイネルが、決められた様式をほとんど無視している。まるで一刻も早く、誰かに今日の出来事を伝えなければならないとでも言わんばかりだった。
だが、それ以上にエルンストを驚かせたのは、カイネルの表情だった。明るい。あまりにも明るかった。
普段のカイネルは違う。玉座へ座れば厳しい眼差しを向け、時には怒りを露わにし、必要であれば冷徹な決断さえ躊躇なく下す。国を守るためならば、王国の未来のためならば、個人の感情など切り捨てる。それこそがカイネルであり、ある意味ではその姿こそ王国そのものだった。
厳格で、強大で、そして常に何かと戦い続けている。
だが今は違った。まるで面白いものを見つけた少年のように、どこか楽しげに歩いている。
「へ、陛下……!」
エルンストが呼び止める。
「私は……!?」
その声にカイネルが足を止め、振り返った。
「エルンスト」
「はっ!」
「先ほど馬車で話したことを、他の騎士たちへ伝えよ。まずは座位。そして騎士団へ」
「…………!」
カイネルは真っ直ぐエルンストを見る。
「王国は――いや、余はすでに動き始めているとな」
「…………」
エルンストはその言葉を胸へ刻み込むように聞き、深く頭を下げた。
「はっ!!」
顔を上げた時には、もうカイネルは再び歩き出していた。エルンストはその背中を少しだけ見送ったあと、今度は自分が踵を返す。向かうべき場所は分かっていた。王が動いたのならば、自分も動かなければならない。
王国の中で、まだ誰も知らない変化が、この瞬間から確かに始まっていた。
カツ、カツ、カツ、カツ――。
王城の長い廊下へ、軽快な足音が響く。それは本来ならば聞こえるはずのない音だった。少なくとも、この足音の主からは。
王城の一室、その音を耳にした者が思わず顔を上げる。王子、リオネルだった。
「…………この足音は?」
周囲にいた使用人たちも顔を見合わせる。聞き覚えはある。歩き方そのものは知っている。だが速さが違う。軽さが違う。何より、いつもの重々しい威圧感がない。
「まさか……陛下……?」
リオネルは立ち上がり、慌てて身なりを整えて部屋を出た。使用人たちもその後へ続く。
そして廊下へ出た瞬間、リオネルは目を見開いた。
向こうから、カイネルが歩いてくる。
「…………父上?」
思わず言葉が漏れそうになる。国王自らこちらへ来ている。呼びつけるのではない。使者を寄越すのでもない。自ら息子の部屋へ向かってきている。
リオネルは慌てて腰を低くし、使用人たちも一斉に頭を下げた。
「陛下!」
カイネルはその前で足を止める。
「リオネル」
「はっ!」
「ついてくるがよい」
「……はい、陛下!」
その瞬間、カイネルの眉が僅かに動いた。
「陛下と呼ぶな」
「…………え?」
リオネルが顔を上げる。
「父と呼べ。これから話すことは王命ではない。家族として話すものだと心得よ」
「…………」
リオネルは目を見開いた。自分の父親が、国王カイネルが、こんな言葉を口にする。記憶を探してもほとんど思い当たらない。
「……は、はい!」
一瞬言葉に詰まり、それから慌てて言い直す。
「父上!」
「うむ」
カイネルは満足そうに頷き、また歩き出した。リオネルも慌ててその後を追う。使用人たちも当然のようについていこうとするが、今度はリオネルが足を止めた。
「待て」
「……?」
使用人たちが動きを止める。
「父上の言葉が聞こえなかったのか?」
「…………!」
「これは家族の話だ」
使用人たちの顔が一気に青ざめる。
「も、申し訳ございません!」
一斉に頭を下げる使用人たちを残し、リオネルは再び父の背中を追った。その間にもカイネルはどんどん先へ進んでいる。
「ちょ、父上……!」
カツカツカツ――。
やがて別の部屋の前へ到着する。
普通ならば、当然ノックをする。少なくとも王族の部屋であっても、最低限の礼儀というものがある。
だが、今日のカイネルは違った。
バァァン!!
「ひっ!?」
中から小さな悲鳴が聞こえた。部屋にいた少女が、驚いて身体を跳ねさせる。
「えっ!? へ、陛下!?」
王女、システィーヌだった。
突然、父親が扉を勢いよく開けて入ってきたのである。驚かない方がおかしい。
「な、何事ですか!?」
しかし、カイネルは怒っていない。それどころか、どこか悪戯じみた笑みすら浮かべていた。
「システィーヌ」
「は、はい!」
「お前もついてきなさい」
「え?」
それだけ言うと、また歩き出した。
「ちょ……お父様!?」
返事を待たない。リオネルも遅れて部屋の前へ到着する。
「…………」
「…………」
兄妹が顔を見合わせた。
「お兄様……」
「……なんだ」
「何があったのですか?」
「私が聞きたい」
「お父様……ですよね?」
「ああ」
「……すごく楽しそうではありません?」
「…………」
リオネルは答えられなかった。だが否定もできなかった。
上機嫌。
本来、その言葉をカイネルに使うこと自体、二人には違和感がある。だが今の父親は、どう見ても上機嫌だった。
そして二人には一つだけ心当たりがある。
今日、カイネルはどこへ行っていた?
――アルバード。
それならば、この変化の原因も。
「…………」
リオネルの表情が険しくなる。対してシスティーヌは少しだけ興味深そうに父の背中を見た。
二人は全く違う感情を抱きながら、カイネルの後を追った。
やがて案内された場所を見て、二人はさらに困惑する。豪華な謁見室ではない。国王の執務室でもない。王族専用の応接室ですらない。王城の中では決して特別とは言えない、簡素な一室だった。
机。数脚の椅子。そして少し古びたソファー。
「…………」
リオネルが目を瞬かせる。その目の前でカイネルは、ドサッと何の躊躇もなくソファーへ腰を下ろした。
「…………」
「…………」
兄妹が固まる。
国王が、この程度のソファーへ何の躊躇もなく座った。しかも深く背を預けている。
「ふぅぅ……」
大きく息まで吐いた。
何もかもが今日の父はおかしい。
二人が立ったまま見つめていると、カイネルが顔を上げた。
「何をしておる?」
「……え?」
「ほら。お前たちも座りなさい」
国王としてではない。父親としての柔らかな声だった。
システィーヌが先に動く。
「はい、お父様」
リオネルも少し遅れて座る。
「……はい。父上」
三人が一つの机を囲む。国王、王子、王女。だが今だけは違う。父と息子と娘。
カイネルは一度息を整え、ようやく本題を口にした。
「アルバードで――レイズに会ってきた」
「…………!」
二人の反応は全く違った。
リオネルは表情を険しくし、システィーヌは目を輝かせる。
「そうなのですか……父上」
リオネルが先に尋ねる。
「レイズという男は……父上に何か無礼を?」
その直後、システィーヌも尋ねた。
「お父様。何か面白いことがあったのですね?」
「システィーヌ?」
リオネルが妹を見る。
だが正しかったのは、システィーヌだった。
カイネルが笑う。
「ああ。実に愉快な一日であった」
リオネルの目が見開かれる。
「ど、どうしてですか!? 父上! アルバードは――!」
「リオネル」
「……!」
カイネルが息子を見る。
「レイズは、とてつもなく大きな人物であったぞ」
「…………」
リオネルの表情が止まる。
「グレサスの言っていた意味を、余もようやく理解した」
「そんな……」
拳が握られる。
「そんなはずは……父上のお眼鏡に適うなど……そんな……」
対してシスティーヌは、もう理解していた。父はアルバードを罰する話をしようとしているのではない。
「そうなんですね!」
笑顔になる。
「お父様、その方を……すごく気に入ったのですね?」
「システィー!?」
「だって、こんなに楽しそうなお父様、久しぶりですもの」
「…………」
その言葉にカイネルは少し目を丸くし、そして笑った。
「ああ! 気に入ったとも! 実に気に入った!」
「父上!?」
「あれは面白い。十四という年齢で、あれほどの者はそうおらぬ。グレサスとも違う。ウラトスとも違う。あの二人とは、また別の意味で規格外だ」
「…………!」
王国で、その二人の名がどれほどの意味を持つか。リオネルもシスティーヌも当然知っている。
リオネルの拳がさらに強く握られる。
そしてカイネルは二人を見る。
「故にだ。お前たちにお願いがある」
「…………」
その瞬間、空気が変わった。
リオネルもシスティーヌも理解している。命令ではない。王命でもない。
お願い。
カイネルが、自分たちへお願いをする。
それがどれほど珍しいことなのか。いや、ほとんど記憶にない。
だからこそ分かる。
これは国王としてではない。
カイネル個人の、本心なのだ。
「お願い……」
システィーヌが小さく呟く。
リオネルは僅かに俯き、悔しそうに拳を握る。
そんな兄を横目で見たシスティーヌは、少しだけ困った顔になった。
「お父様……あまり褒めすぎるのは……それに、お願いまで……私たちに、ですか?」
「ああ」
カイネルは即答した。
「お前たちには、必ずレイズと仲良くなってもらいたい」
「…………」
リオネルの中で何かが切れた。
「なぜですか!! 父上!!」
「リオネル?」
「なぜそこまで!! グレサスやウラトスの名まで出して! なぜそれほどアルバードを!」
声が大きくなる。
「裏切りの家名を!! そのように褒めるのです!!」
システィーヌが息を呑む。
「お兄様……」
しかしカイネルは怒らなかった。むしろじっと息子を見て、短く答えた。
「眼だ」
「…………え?」
「眼……?」
リオネルが意味を理解できず、父を見る。カイネルも真っ直ぐ息子の目を見た。
「レイズという少年は、本来ならば今のお前と同じ眼をしているものだと、余も考えていた」
「…………!」
リオネルの表情が変わる。
「どういう意味ですか!」
「怒りだ。憎しみ。そして悔しさ」
カイネルはリオネルの拳を見る。
「若い者がそれらを原動力として成長すること自体は珍しくない。むしろ、それだけ強い感情を抱えている者ほど、時として大きく成長する。お前もそうだ」
「…………」
「怒りがある。アルバードへの不信がある。そして――父である余が、自分ではなく別の少年を褒めることへの悔しさもある」
「……っ!」
リオネルが目を逸らす。図星だった。
だが、カイネルは責めない。
「それでもよい。その感情自体を、余は否定せぬ」
リオネルがゆっくり父を見る。
「だが、レイズは違った」
「…………」
「あやつの眼は、憎しみに囚われておらぬ」
「そんなはずは!!」
リオネルが即座に否定する。
「アルバードは王国を憎んでいるはずです! それに、レイズ・アルバードは出来損ないだと! 学院でも有名な話です!」
システィーヌが兄を見る。
「アルバードという血筋にありながら、唯一の出来損ない! 人の上に立つ器ではなく、何一つ満足にできない愚物だと! レオナルディオだって、そう言っていたではありませんか!!」
カイネルは静かに息子の言葉を聞き終えた。
そして。
「そうか」
それだけ答えた。
「ならば、かつてはそうだったのかもしれぬ」
「…………え?」
「余は昔のレイズを知らぬ。故に、過去まで否定するつもりはない」
そして、はっきりと言った。
「だが今は違う」
「…………」
「お前が聞いてきた人物像とは、あまりにもかけ離れている」
リオネルは何も言えない。
「言葉一つ一つに明確な意思がある。そして、年齢からは想像できぬほど大きな知恵を持っている」
カイネルは今日、レイズと交わした会話を思い出す。
「だが、何より異常なのは――悔恨、憎しみ、怒り。それだけの感情を抱いて当然の道を歩いてきながら、それらを己で制御している」
「…………」
「押し殺しているのではない。制御しているのだ」
リオネルの表情が少しずつ変わっていく。
「そして、その上で全てを守ろうとする意思を曲げぬ」
部屋の空気が、ゆっくりと静かになっていく。
「王国に奪われたから、王国を滅ぼす。そうではない。魔族に傷つけられたから、魔族を滅ぼす。それでもない。誰かに奪われたから、次は自分が奪う側へ回る。その道を、あやつは選ばぬ」
「…………」
リオネルは何も言えなかった。
カイネルは続ける。
「あれほどの修羅を潜り、なお怒りに己を支配させぬ。それはグレイオンの者たちとも違う。グレサスの強さとも、ウラトスの強さとも違う」
「…………」
「別の種類の強さだ」
そして、今日初めて会った少年を思い出しながら、静かに笑った。
「レイズ・アルバードは、正真正銘――化物と呼ばれる存在になる」
「…………!」
リオネルが息を呑む。
システィーヌも黙って父を見ている。
「否」
カイネルは自分の言葉を自分で否定した。
「それだけではない」
「…………?」
「あやつは、いずれ――王と呼ばれる存在にすらなり得る」
「…………」
リオネルの顔から怒りが消えた。代わりに浮かんだのは困惑と驚愕、そして僅かな恐れだった。
「王……?」
「ああ」
「ですが……まだ十四歳です」
カイネルは笑う。
「ああ。十四だ」
そして、だからこそ続けた。
「年齢だけを見れば、未熟と呼んでよい。だが十四にしては、あまりにも成熟している」
「…………」
「それが、レイズ・アルバードという少年だ」
長い沈黙が落ちる。
リオネルは何も言えない。
システィーヌも先ほどまでの笑顔を消し、真剣な顔で父を見ている。
そんな二人へ、カイネルは最後に静かに問いかけた。
「この意味が――お前たちには分かるか?」




