大きすぎる変化
コトコト、コトコト――。
わずかな揺れと共に、馬車はアルバードの町中をゆっくりと進んでいた。窓の外では建物や人々の姿が流れるように後方へ消えていく。
その馬車へ向けられる視線は多い。
不安そうに見つめる者もいれば、どこかほっとしたような表情を浮かべている者もいた。
普段であれば大勢の人々が行き交い、時には道の端まで人で埋まるほど賑わっている場所だ。だが今だけは違う。王国の紋章を掲げた馬車が近づくたび、人々は自然と左右へ避けていき、まるで最初からそこに道が用意されていたかのように、真っ直ぐな空間が生まれていく。
無理もない。
ここはアルバード。
そして通り過ぎているのは、見るからに王国の高位者が乗っている一団である。
わざわざその進路を遮るほど、人々も愚かではない。
だが――その行動の根底にあるものが敬意ばかりではないことも、カイネルには分かっていた。
むしろ。
恐れ。
そちらの方が、遥かに大きい。
窓越しに人々を眺めながら、カイネルは小さく鼻で笑った。
「まるで余が、この地を破壊しに来た者のようではないか」
向かい側に座っていたエルンストが背筋を正す。
カイネルはわずかに口元を緩めた。
「そうは思わぬか? エルンストよ」
「はっ、陛下……」
エルンストは一度窓の外へ目を向け、それから慎重に答えた。
「ですが、その誤解もすぐに解けるものと思われます」
カイネルは思わず笑った。
「そこは否定するところであろう」
「も、申し訳ございません!」
慌てて頭を下げたエルンストだったが、それでも少し迷った末に続ける。
「ですが……本来であれば、ここは敵地でございましたので……」
その言葉に、カイネルは静かに首を横へ振った。
「もはや敵地などではない」
「…………」
短い言葉だった。
だが、その声音にはこれまでとは明らかに違う確信があった。
カイネルは流れていくアルバードの景色を見つめながら続ける。
「ここは――終わりと再発の地となる」
「終わりと……再発……」
エルンストがその言葉を反芻する。
カイネルはそれ以上説明することなく、しばらく窓の外を眺めていた。
一つの時代が終わる。
そして。
そこから何かが再び始まる。
アルバードは、そのための場所となる。
やがてエルンストも、その言葉が意味するものを少しずつ理解したのか、深く頭を下げた。
「……はっ。まさしく、その通りかと存じます」
カイネルは小さく頷く。
そして、何気ない調子で尋ねた。
「エルンストよ」
「はっ」
「お前は――今でも魔族を滅ぼすべきだと思うか?」
「…………」
あまりにも唐突な問いだった。
エルンストの表情が僅かに強張る。
だが。
答えそのものに迷いはなかった。
「……滅ぼすべき相手だと思っております」
カイネルは笑った。
否定もしない。
怒りもしない。
むしろ、その答えを待っていたかのようだった。
「そうだ」
「…………」
「それこそが王国の歴史であり、我らの中に未だ深く根を張っているものなのだ」
エルンストは黙って耳を傾ける。
「それは単に、王国の教育という言葉だけで片付けられるものではない。親から子へ。兵から兵へ。奪われた者から、その姿を見て育った者へ」
カイネルの声が僅かに低くなる。
「長い年月をかけ、積み重なってきたものだ」
「…………」
「そして、それは本来――我らが生き残るために必要だったはずの考えでもあった」
カイネルは一度そこで言葉を切った。
そして。
「……だった、のだ」
過去形で告げた。
エルンストの眉がわずかに動く。
「だった……ですか?」
「ああ」
カイネルは目を細める。
「だが、この場所は……それらの中にある過ちを余へ理解させた」
「過ち……ですか?」
エルンストは戸惑いを隠せない。
カイネルは静かに頷いた。
「魔族との争いは、常に我らの豊かさを削っていたのだ」
「…………」
「武器を作るための資源。兵を育てるための時間。戦うための道具。戦術。知識。人材」
一つ一つ。
カイネルは確かめるように言葉を並べる。
「我らは、その多くを戦うことへ費やしてきた」
「…………」
「もし、その時間を」
窓の外へ視線を向ける。
「国の発展へ。民の暮らしへ。食料へ。住居へ。技術へ。教育へ注いでいれば――」
カイネルの声が静かに馬車の中へ響いた。
「王国に巣くう貧困は、今より遥かに少なかったのではないか」
エルンストの顔色が変わった。
「それは違います、陛下」
思わず。
普段ならあり得ないほど強い声が出た。
カイネルがエルンストを見る。
しかしエルンストは止まらなかった。
「戦う準備をしなければ……我らは間違いなく魔族に搾取されていたはずです」
「…………」
「古の時代と同じ道を辿っていた可能性すらあります。それだけではございません。帝国や隣国との関係も同様です」
拳を握る。
「強さを示すことが、国を守る抑止となっています。もし王国が弱いと知られれば、魔族以前に他国から何をされるか分かりません」
そこまで言ってから。
エルンストは、はっとした。
自分が国王へ真正面から意見していたことに気づいたのだ。
「も、申し訳ございません!」
すぐさま頭を下げる。
だが。
カイネルは怒るどころか、楽しそうに笑っていた。
「エルンスト」
「はっ……」
「お前はいつから、それほどまで自分の意見を述べられるようになったのだ?」
「も、申し訳ございません……」
「褒めておる」
「……は?」
エルンストが顔を上げる。
カイネルは微笑んでいた。
だがエルンストの表情は晴れない。
「ですが……」
「うむ?」
「陛下が、ご自身のしてきたことを過ちと考えられることだけは……私は否定したいのです」
「…………」
「陛下は間違ってなどおりません」
その声には、確かな感情が込められていた。
「常に人のために。王国のために。そして王国に暮らす者を守るために、陛下が尽力されてきたことを……このエルンストだけではありません。グレサス様も、デュラン様も理解しております」
カイネルは黙って聞いていた。
「我々が陛下に従うのは、ただ王だからではございません」
「…………」
「陛下が、守ろうとしてくださったからです」
しばらく沈黙があった。
馬車の車輪が地面を踏む音だけが響く。
そして。
カイネルは静かに口を開いた。
「ああ」
「…………」
「だが、はっきりと言おう」
エルンストを見る。
「それこそが、誤りだったのだ」
「へ……」
エルンストの目が大きく開く。
「陛下!?」
「勘違いするな。守ろうとしたことを誤りだと言っているのではない」
カイネルは静かに首を横へ振った。
「余が守ろうとした範囲が、あまりにも狭かったということだ」
「範囲……」
「ああ」
再び窓の外を見る。
「アルバードは強い」
短く。
はっきりと言った。
「とてつもなく強い」
「…………」
「だが、それは戦争へ向かう思想が、あの土地を強くしたのではない」
エルンストも窓の外を見る。
そこでは男たちが荷物を運び、商人が声を張り、子供たちが笑いながら走っていた。
「常に、人々を豊かにしようとした」
カイネルが言う。
「より暮らしやすく。より安全に。より便利に」
「…………」
「誰かから奪うことを理由にしたわけではない。誰かを滅ぼすために力を蓄えたわけでもない」
そして。
静かに告げる。
「アルバードは――全てを守ろうとした」
エルンストが息を呑む。
「故にだ」
カイネルの声に力が宿る。
「故に、あの地は強い」
「…………」
「余は王国だけを守ろうとしていた」
自嘲するように笑う。
「王国を守り、王国の敵を排除し、王国の民を生かす。そのためなら、敵国の者や魔族がどうなろうと仕方がないと考えていた」
「陛下……」
「だが、それなのだ」
カイネルは自らの膝へ手を置く。
「その時点ですでに、守るという思想の大きさで負けていた」
「…………」
「あやつは……レイズは」
わずかに目を細める。
「余よりも遥かに大きなものを守ろうとしている」
王国だけではない。
アルバードだけでもない。
人間だけですらない。
「故に――王国は、アルバードには勝てぬ」
「…………」
その言葉を聞いたエルンストの身体が、わずかに震えた。
王国の国王が。
自らの国が勝てないと。
そう口にした。
だが、不思議なことに。
そこに敗北感は感じなかった。
むしろ。
これまでのカイネル以上に。
その姿は大きく見えた。
「陛下……」
エルンストは躊躇いながら尋ねる。
「なぜ……私を、この場へ同席させていただけたのでしょうか」
カイネルはすぐに答えた。
「余は、認識を改めねばならぬ」
「…………」
「故にだ」
そして、真っ直ぐエルンストを見る。
「座位に就くお前たちの認識もまた、最優先で改めねばならぬ」
エルンストの表情が強張る。
「アルバードを敵として見ている内は――王国は大きな遅れを取る」
「…………」
「武器を向ける相手を変えるだけでは駄目なのだ」
カイネルは続けた。
「アルバードを敵としなくなったから、次は魔族だけを敵とする。それでは何も変わらぬ」
「では……」
エルンストは恐る恐る尋ねる。
「我らの敵とは……?」
カイネルは少しだけ笑った。
「争うという思想、そのものだ」
「…………!」
「無論、剣を捨てろと言っているのではない」
すぐに続ける。
「守るための力は必要だ。魔族が攻めれば退ける。帝国が侵略すれば戦う。それは変わらぬ」
「…………」
「だが」
カイネルの表情が険しくなる。
「戦うことを目的としてはならぬ」
「…………」
「敵を作ることでしか団結できぬ国であってはならぬ」
エルンストは何も言えなかった。
「我らがさらに強固な国となるためにも、まずはその思想に打ち勝たねばならぬ」
そしてカイネルは、窓の外へ指を向けた。
「見てみよ、エルンスト」
「……?」
指し示された先。
そこでは何人もの人々が働いていた。
荷車を押す者。
新しい建物へ材木を運ぶ者。
屋台で食べ物を売る者。
笑いながら声を掛け合う者。
子供を背負いながら店先を掃く女性。
それぞれが忙しそうに動いている。
それなのに。
誰の顔にも。
妙な悲壮感がない。
明るい声が飛び交っている。
時折、笑い声さえ響く。
エルンストは、不思議そうにその光景を眺めた。
「……あれが」
カイネルが言う。
「我ら王国には足りなかったものだ」
「…………」
エルンストの脳裏に、王国の風景が浮かぶ。
人々は働いている。
王国にも活気はある。
市場には人が溢れ、兵士は堂々と街を歩き、祭りの日には大勢が笑う。
だが。
その根底には、常に何かがあった。
魔族に負けてはならない。
王国を守らなければならない。
アルバードに遅れを取ってはならない。
帝国より弱くなってはならない。
王国の繁栄を。
王国の勝利を。
王国の未来を。
常に人々は何かと比べながら、自分たちの幸福を願っていた。
だが。
目の前のアルバードの民は違う。
誰かに勝ったから笑っているのではない。
誰かが負けたから喜んでいるのでもない。
ただ。
今日の暮らしの中で笑っている。
「…………」
その違いを言葉にしようとした時。
答えを探すより先に、カイネルが告げた。
「あれが、本来――安寧と幸せを知る者の姿なのだ」
エルンストは息を呑む。
「安寧……と……」
「ああ」
カイネルの声は優しかった。
「分かるであろう?」
「…………」
「敵がいない」
窓の外では子供たちが走っている。
「倒すべき相手を決めない」
商人が客と笑い合っている。
「誰かに勝つことを、生きる目的にしない」
老人が店先の椅子に腰掛け、それを穏やかに眺めている。
「その生き方は、人に自由を与える」
エルンストは何も言えない。
「そして、その自由は――」
カイネルは目を細めた。
「生きるための目的として、とてつもなく大きな力を生む」
「…………」
「故に」
一拍。
「強いのだ」
静かだった。
だが。
その言葉はエルンストの胸の奥へ深く沈んでいった。
「生きるという強い意思こそが、人を正しく強くする」
エルンストは俯いた。
これまで。
王国のためならば、自分の命一つなどいくらでも差し出せると思っていた。
それこそが忠誠だった。
それこそが騎士だった。
魔族への怒り。
魔族への憎悪。
失われた者たちへの復讐。
敵を滅ぼすこと。
そして王国を勝利へ導くこと。
それらが人々を強くするのだと信じていた。
だが。
その思想には、常に一つのものが付きまとっている。
――自分の命を、軽く扱うこと。
国のためなら死ねる。
家族のためなら死ねる。
王のためなら死ねる。
仲間のためなら死ねる。
それを美徳としてきた。
死を恐れないことが、強さなのだと。
だが。
違う。
そうではないのかもしれない。
死ぬことを恐れないのではない。
最後まで。
どれほど苦しくても。
どれほど追い詰められても。
生きることを選び続ける。
守るために自分まで消えるのではなく。
守る者と共に。
自分自身も生きて未来を見る。
それこそが。
本当の意味で、生死と向き合うということなのではないか。
「陛下……」
エルンストの声は、僅かに震えていた。
「私は……」
だが。
カイネルは静かに首を振った。
「それ以上は言わずともよい」
「…………」
「今すぐ全てを変えられる者などおらぬ」
穏やかな声音。
「余とて同じだ」
カイネル自身。
数刻前まで。
魔族への怒りを完全に捨てたわけではない。
長い歴史の中で染み付いた考えが、一度の会話で全て消えるはずもない。
だからこそ。
「少しずつでよい」
「…………」
「だからこそ――我ら王国は、まだ間に合う」
カイネルは窓の外を見つめる。
馬車は少しずつ、アルバードの町から離れ始めていた。
それでも。
遠くから聞こえる人々の声は、まだ僅かに耳へ届いている。
「まだこれからだ」
「…………」
「我らはこれから、大きく成長できる」
エルンストはその言葉を聞き。
深く。
深く頭を下げた。
「はっ……」
声が震える。
だが。
そこには迷いがなかった。
「その通りでございます」
カイネルは何も答えず、小さく微笑んだ。
帰路。
ただ王国へ戻るだけだったはずの時間。
しかし。
その馬車の中には確かな収穫があった。
アルバードという土地を見たこと。
そこに暮らす人々を見たこと。
そして何より。
レイズ・アルバードという少年と初めて言葉を交わしたこと。
それらはカイネルという王の中に長年根を張っていた価値観へ、確かな変化を与えていた。
王国を守る王から。
王国だけを守るのではない王へ。
その変化が、これから何を生み出すのか。
まだ誰にも分からない。
ただ一つだけ確かなことがある。
アルバードを訪れた時と。
今、そこを去ろうとしている時とでは。
カイネルという王は――。
もう、同じ王ではなかった。




