みてる未来の解離
昼時が近づいた頃、ヴィルは朝から続いていたレイズの鍛練がようやく一段落したのを見計らい、穏やかな声で告げた。
「そろそろお昼になりますね。リアナ、今日もレイズに精のつく料理を用意してあげてください」
「もちろんでございます!」
リアナは嬉しそうに目を輝かせ、深々と頭を下げると、そのまま厨房へ向かおうとした。そんな彼女の背中を眺めながら、レイズは今日の昼食について考える。
この屋敷へ来てからというもの、とにかく食事の量が多い。それだけならまだいいのだが、問題はその内容だった。
とにかく肉が多い。
身体を作るなら肉。精をつけるなら肉。疲れているなら肉。元気でも肉。もちろん野菜が一切出てこないわけではないが、どう考えても比率がおかしい。しかも、どれもこれも育ち盛りだからという言葉だけでは説明できないほど量が多い。
レイズは自分の腹へ視線を落とした。
(……この身体で毎日あれだけ食ってたら、いつまで経っても痩せねぇだろ)
今朝だって、あれだけ重木を振ろうとして身体を酷使したのだ。まともに振れていたかどうかについては考えないことにする。それでも大量に汗を流し、腕も脚も悲鳴を上げるほど身体を動かした。その直後に山のような肉を腹へ詰め込んでしまえば、せっかくの努力が全部無駄になってしまうような気さえする。
ならば、やることは決まっていた。
「待てぃ!」
「ひゃっ!?」
リアナの身体がびくりと跳ね、その場で足を止めた。
「ど、どうなさいましたか、当主様?」
「今日の昼なんだけど……。野菜もちゃんと用意してくれ。俺も食べるから……」
「…………」
リアナの動きが止まった。
そして、なぜかヴィルまで黙った。
レイズは二人を交互に見る。何も言わない。リアナに至っては、信じられないものを見るような顔でこちらを見つめている。
「……なんだよ?」
「お、お野菜を……当主様が、ご自分からお召し上がりになるのですか……?」
「ああ。そのつもりだけど……?」
「そんな……!」
「なんで悲しそうなんだよ!?」
レイズには意味が分からなかった。ただ昼食に野菜を追加してほしいと言っただけである。それなのにリアナは、まるでレイズがこれから苦行へ挑もうとしているかのような顔をしている。
しかもヴィルまで、いつになく真剣な表情でこちらを見ていた。
「レイズ。本気なのですか?」
「本気だけど……」
「無理をする必要はありませんよ。あなたが野菜をどれほど嫌っていたのか、私はよく知っていますから」
「…………」
そこでレイズは黙った。
そしてようやく理解した。
(……ああ。そういうことか)
自分は別に野菜が嫌いではない。
好きかと聞かれれば特別好きというわけでもないが、普通に食べられる。ましてや今はこの身体をどうにかしたいのだから、むしろ積極的に食事へ取り入れたいくらいだった。
しかし、ヴィルとリアナが知っているレイズは違う。
自分がこの身体へ転生する前。
本来のレイズ。
どうやら、そちらは相当な野菜嫌いだったらしい。
実際、本来のレイズは皿へ野菜が載っているだけで不機嫌になり、肉の下へ隠してもわざわざ見つけ出して取り除くほど徹底していた。細かく刻んでスープへ入れれば器用に避け、幼い頃には緑色のものが皿へ載っているという理由だけで、食事そのものを拒んだことさえある。
そんな少年が突然、自分から野菜を食べると言い出した。
リアナからすれば、驚くのも当然だ。
(なるほどな……)
レイズは一人で納得する。
だが。
すぐに別の問題へ気づいた。
(……これ、「別に野菜嫌いじゃないぞ」とか言ったら、それはそれでおかしいよな)
昨日まで嫌っていたはずのものを、突然何の抵抗もなく食べる。
ただでさえ今の自分は、本来のレイズとは性格も行動も違っている。それを周囲から「心境の変化」として受け止めてもらえているからいいものの、わざわざ余計な違和感を増やす必要はない。
何か。
それらしい理由が必要だった。
レイズは少しだけ考える。
そして――。
ゆっくりと視線を落とした。
「……ヴィル」
先ほどまでとは明らかに違う声だった。
妙に静かで。
妙に落ち着いている。
ヴィルもその変化を感じ取ったのか、表情を僅かに引き締めた。
「はい……?」
レイズはすぐには続けなかった。
しばらく自分の掌を見つめ、それから静かに息を吐く。
まるで、ずっと一人で考え続けてきたことを、ようやく誰かへ打ち明けるように。
「俺は……考えたんだ」
「…………」
「食事っていうのは、ただ腹を満たすためだけにあるものじゃない。身体を作るものだ。強くなるためにも、身体を変えるためにも……避けて通れない」
ヴィルは何も言わなかった。
ただ、レイズの言葉へ耳を傾けている。
リアナもいつしか表情を引き締め、厨房へ向かおうとしていたことさえ忘れたように立ち尽くしていた。
レイズはさらに声を落とした。
「でも……それだけじゃないと思うんだ」
「それだけではない……?」
「ああ」
レイズは静かに頷いた。
「自分が嫌いなもの。苦手なもの。できれば避けていたいもの。そういうものからずっと逃げ続けていたら……結局、何も変わらない」
その言葉だけを聞けば。
まるでレイズ自身が、これまでの人生を振り返っているようにも聞こえた。
わがままに振る舞い。
嫌なことから逃げ。
周囲へ当たり散らしていた過去。
そんな自分自身を見つめ直し、ようやく変わる覚悟を決めた少年の言葉のように。
ヴィルの表情が少しずつ変わっていく。
一方。
そんな祖父の目の前で、レイズが考えていたことは。
(……まあ、俺は別に野菜嫌いじゃないんだけどな)
それだけだった。
しかし表情には一切出さない。
むしろレイズは、さらに神妙な顔になった。
「だから……俺は思ったんだ」
一度、言葉を切る。
「嫌いだから食べないんじゃない。嫌いだからこそ食べる。苦手だからこそ逃げない。そうやって一つずつ、自分ができなかったことをできるようにしていく。それも……鍛練なんじゃないかって」
「レイズ……」
「身体を鍛えるだけじゃ駄目なんだ。身体が強くなっても、心が弱いままなら……きっと本当の意味では強くなれない」
ヴィルの目が僅かに見開かれる。
レイズは胸を張ることもなく、ただ静かに言った。
「だから俺は、野菜を食べる」
そして。
最後だけ、少し強く。
「これは……俺にとって、精神を鍛えるための鍛練なんだ」
静寂が落ちた。
風が庭を通り抜ける。
ヴィルは何も言わない。
リアナも何も言わない。
二人とも、ただレイズを見ていた。
(…………どうだ?)
レイズは神妙な表情を保ったまま、内心で様子を窺う。
かなりそれっぽく言った。
途中から自分でも何の話をしているのか若干分からなくなったが、少なくとも「突然野菜が好きになりました」と言うよりは遥かに自然なはずだ。
やがて。
ヴィルが静かに息を吐いた。
「……そこまで、考えていたのですね」
「……まあな」
「自分が嫌っていたものから逃げず、あえて自ら向き合う……。それを、己を鍛えるための一つの方法として考えたのですか」
レイズはゆっくり頷いた。
「そういうことだ」
(よし。通った)
心の中で、小さく拳を握った。
だがヴィルは、レイズが思っている以上にその言葉を重く受け止めていた。
ほんの少し前までのレイズであれば、絶対に口にしなかった言葉だった。
嫌なことがあれば逃げる。
気に入らないことがあれば怒る。
自分自身を変えるのではなく、周囲を自分へ合わせようとする。
それが、ヴィルの知る孫だった。
だが今は違う。
今朝は誰に強制されるでもなく重木を握り、何度転んでも立ち上がろうとした。
そして今度は、自分が長年嫌ってきたものへ自ら向き合い、それさえも己を鍛えるための糧にしようとしている。
たかが野菜。
他人から見れば、そうなのかもしれない。
だが。
ヴィルにとっては違った。
この孫が自分から野菜を食べると言ったこと。
その理由として「嫌いなものから逃げない」と語ったこと。
それは、これまでのレイズを知っているからこそ、何よりも大きな変化に思えた。
やがてヴィルは、穏やかに微笑んだ。
「……素晴らしいですよ、レイズ。本当に」
「お、おう」
「そこまで自分自身と向き合えるようになったのですね」
「まあ……うん」
少し褒められすぎている気がする。
だが。
誤魔化せているのなら問題ない。
ヴィルはそのままリアナへ視線を向けた。
「リアナ。レイズがそこまでの覚悟を持っているのです。今日からは肉だけではなく、野菜もしっかり用意してあげてください。ただし、無理をさせてはいけませんよ。食べられる量から少しずつ――」
「はい! もちろんでございます!」
リアナは力強く頷いた。
その目は、なぜか先ほどまで以上に輝いている。
「当主様がこれほどの覚悟を示されたのです! 私も精いっぱいお応えいたします! お野菜も、お肉も、お魚も! 栄養のあるものをたくさんご用意いたしますね!」
「…………ん?」
レイズの眉が動いた。
「待て、リアナ」
「はい?」
「今、なんて言った?」
「栄養のあるものを、たくさんご用意いたします!」
「なんで増えるんだよ」
「え?」
「俺は野菜を追加しろとは言ったけど、食事そのものを増やせとは言ってないぞ」
しかしリアナは満面の笑みを浮かべるだけだった。
「楽しみにお待ちくださいませ!」
「いや待て。話を――」
「それでは失礼いたします!」
「聞けよ!」
深々と頭を下げたリアナは、そのまま厨房へ向かって足早に去っていった。
レイズはその背中を呆然と見送る。
「…………」
嫌な予感しかしない。
やがて。
「ヴィル」
「はい?」
「この屋敷の『たくさん』って……どれくらいなんだ?」
ヴィルは少し考えた。
そして。
静かに視線を逸らした。
「……リアナも張り切っているのでしょう」
「なんで目を逸らした?」
「きっと美味しいものを作ってくれますよ」
「量を聞いてるんだけど」
「楽しみに待っていてあげてください」
「だから量を聞いてんだよ」
ヴィルは答えなかった。
レイズは、その沈黙だけですべてを察した。
(……やらかした)
野菜を食べたい。
ただそれだけだった。
それなのに。
なぜか昼食の総量が増えようとしている。
(痩せたいだけなのに……)
レイズは深いため息を吐き、どこか遠くを見つめた。
そんな孫の横顔を見ながら、ヴィルはまったく別のことを考えていた。
今朝の重木を使った鍛練。
何度転んでも立ち上がり、誰かに褒められるためでもなく、ただひたすら続けようとしていた姿。
そして今度は、自分が嫌っていたものへ自ら向き合い、身体だけではなく精神まで鍛えようとしている。
以前のレイズからは考えられないことばかりだった。
まだ幼い。
身体も未熟。
当主として学ばなければならないことも、数え切れないほどある。
それでも。
確かに変わり始めている。
ヴィルには、レイズが一体どのような未来を見ているのかまでは分からない。
どのような当主になろうとしているのか。
アルバードをどこへ導こうとしているのか。
その答えを聞いたわけでもない。
だが。
(この子は……きっと、自分なりに先を見ているのでしょうね)
そう思うと。
祖父として。
そして長くアルバード家を支えてきた者として。
その未来を見てみたいと思った。
一方。
ヴィルのすぐ隣で、レイズが見ている未来は。
(痩せたい……)
ただ、それだけだった。
ヴィルが見ている未来。
レイズが見ている未来。
二人は同じ場所に立ち、同じ方向を向いているように見えて。
その実。
見えているものは、恐ろしいほどに乖離していた。
食事についての話が一段落すると、ヴィルは表情を和らげ、そのまま今日の予定について話し始めた。
「さて、午後からの予定についても伝えておきましょう。レイズには、あちらに見える大書斎へ向かってもらいます。リアナに案内させますので、彼女について行ってください。そこには、あなたへ魔法を教えてくださる非常に優秀な方がおります」
「…………魔法?」
レイズの目が僅かに見開かれた。
しかしヴィルはその変化に気づかず、そのまま話を続ける。
「ええ。それから今朝の鍛練についてですが、続けること自体は構いません。ただ、今後は重木を振るだけではなく、模擬戦も取り入れた方がいいでしょう。実戦の中でしか学べないこともありますからね。相手についてはクリスへお願いしようと思っています。彼ならば――」
「ちょ、ちょっと待てヴィル」
「はい?」
「今……魔法って言った?」
「ええ。言いましたよ」
レイズの表情が一気に変わった。
「俺が?」
「もちろんです」
「今日から?」
「午後から、そのつもりですが……」
「ほんと!!!?」
突然の雄叫びに、ヴィルの肩が僅かに跳ねた。
先ほどまで、己の過去と向き合うかのような神妙な顔で精神論を語っていた少年が、今度は両拳を握り締め、子供のように目を輝かせている。
「魔法……魔法か……! ありがとう、ヴィル! めちゃくちゃ楽しみにしてる!」
「そ、そうですか……。そこまで喜んでもらえるのでしたら、教師を手配した甲斐もありましたね」
ヴィルも思わず笑ってしまう。
だが、すぐに少しだけ表情を引き締めた。
「ただし、あまり張り切りすぎてはいけませんよ。今朝も随分と無理をしていたでしょう。昨夜は熱まで出していたのですから」
「分かってるって! 大丈夫だよ!」
「あなたの『大丈夫』は、今朝の様子を見たあとでは、あまり信用できませんね」
「大丈夫だから!」
「無理をしないのであれば考えます」
「本当に」
ヴィルは小さく笑った。
「では、私はこれで。午後の勉強、頑張ってください」
「ああ!」
満足そうに頷き、ヴィルはその場を後にした。
レイズはその背中が遠ざかっていくのをしばらく見送っていた。
そして。
「…………ふふ」
自然と口元が緩んだ。
「ふふふふふ……」
楽しみだった。
とにかく、楽しみで仕方がない。
これまでの重木を使った鍛練については認めよう。
惨めだった。
持ち上がらない。
まともに振れない。
振れば身体ごと持っていかれる。
転ぶ。
立てない。
全身が痛い。
そして何より――。
格好悪い。
ゲームの主人公どころか、序盤で倒されるモブキャラクターですら、もう少しまともに剣を振れるのではないかと思うほどだった。
だが。
魔法なら。
話は違う。
(今度こそ……俺の得意分野だ)
レイズはゆっくりと自分の掌へ視線を落とした。
この世界へ来る前から、魔法についての知識なら嫌というほど蓄えてきた。
どの属性が何を得意とするのか。
どの魔法がどのような状況で有効なのか。
何と何を組み合わせれば、どのような結果を生み出すのか。
そして。
どの力が、この世界の常識から外れているのか。
ゲームとしてこの世界を知っているからこそ、分かることがある。
何より。
自分自身が持っている属性についても。
レイズは、その本当の価値を知っていた。
「死属性……」
強い。
間違いなく強い。
いや。
単純に強いという言葉だけでは足りない。
魔法を消す。
力を無へ帰す。
存在しているはずのものへ干渉し、消失させる。
使い方次第では、この世界の戦いそのものを根底からひっくり返しかねない力。
ゲーム知識を持っているレイズだからこそ、その異常性は誰よりも理解している。
ただ。
「……地味なんだよなぁ」
強い。
恐ろしく便利でもある。
だが。
見栄えがいいかと言われれば、話は別だった。
炎が空を焼くわけでもない。
雷鳴が轟くわけでもない。
巨大な光が辺りを包み込むわけでもない。
消す。
無くす。
終わり。
恐ろしく強い。
そして。
恐ろしく地味。
だが――。
レイズには、もう一つある。
「氷属性……」
その言葉を口にした瞬間。
口元の笑みが、さらに深くなった。
氷。
それならば話は違う。
レイズは知っている。
この属性が何をできるのか。
どこまで成長するのか。
そして。
使い方次第では、どれほど尋常ではない力へ変貌するのか。
ゲームで何度も見てきた。
その先に何があるのかも知っている。
だからこそ。
(これは……いける)
自信があった。
少なくとも。
重木を振るよりは、遥かに。
今朝は散々だった。
持ち上げるだけで精一杯。
振れば転ぶ。
身体はまったくついてこない。
使用人たちの前で、格好いいところなど一つも見せられなかった。
だが。
魔法なら。
自分には知識がある。
この世界の人間が知らない。
この世界をゲームとして知っている自分だけが持っている知識が。
レイズは自分の掌を見つめる。
そして。
想像した。
掌を向ける。
瞬間、空気が凍りつく。
地面を白い氷が走り抜け、無数の氷柱が生まれる。
陽光を反射した氷が辺りを青白く染め。
その中心に。
自分が立っている。
(…………格好いいだろ?)
想像しただけで。
また口元が緩んだ。
「ふふふ……」
今朝まで重木を持ち上げることすらできず、庭で尻餅をついていた少年とは思えないほどの自信だった。
だが。
レイズには、そう思うだけの理由がある。
ゲームで得た魔法知識。
死属性。
そして氷属性。
その二つが持つ本当の可能性を、レイズだけは知っている。
午後。
大書斎。
初めての本格的な魔法の授業。
それを考えるだけで、胸が高鳴った。
痩せたい。
もちろん。
その目的は何も変わっていない。
何よりもまず、この身体をどうにかしたい。
だが。
魔法だけは。
それとはまったく別だった。
純粋に楽しみなのだ。
異世界へ来た。
本当に魔法が存在している。
そして。
それを自分自身の手で使うことができる。
しかも、自分にはゲームで培ってきた知識がある。
ならば。
その知識を実際に使えば、一体どこまでできるのか。
「よし……!」
レイズは拳を強く握った。
この世界へ来てから、最高と言っていいほどにモチベーションが高まっていた。
今度こそ。
今度こそは。
格好いいところを見せられる。
少なくとも。
この時のレイズは――。
本気でそう信じていた。




