ヴィルのもう一人の孫
ヴィルは執務室の机へ向かい、音もなく椅子へ腰を下ろすと、傍らに積まれていた白紙を一枚だけ取り出した。窓の外から差し込む午後の光が机の上を斜めに照らし、磨き上げられた木目の上に、窓枠の影を細長く落としている。訓練場から戻ってきたばかりだというのに、ヴィルの衣服には乱れ一つなく、呼吸も普段と変わらない。ただ、羽ペンへ伸ばした手が紙の上で僅かに止まったことだけが、彼の内側にまだ先ほどの光景が残っていることを示していた。
自分の身体とほとんど変わらぬ重さの木刀を前にして、顔を真っ赤にしながら歯を食いしばっていた少年。腕も脚も震え、優雅さなど欠片もなく、今にも潰れてしまいそうな姿でありながら、それでも最後まで柄から手を離そうとしなかった少年。
あれが本来のレイズではないことを、ヴィルはもう知っている。
知っているからこそ、胸の奥には簡単には言葉にできない痛みが残っていた。失った者を取り戻したわけではない。過去が消えたわけでもない。幼い頃には確かに笑っていた孫が、少しずつ心を閉ざし、自分の手を振り払うようになっていった記憶も、そして、その孫がもう二度と元の姿では戻らないという事実も、何一つ変わってはいない。
それでも、今のレイズは前へ進もうとしている。
ならば、自分もまた立ち止まったままではいられない。
ヴィルは静かに息を吐き、羽ペンの先へ墨を含ませた。
まず紙の上部へ、今後の鍛錬に必要となる項目を書き記す。
起床時間。
走り込み。
基礎体力の向上。
柔軟。
木刀を用いた負荷訓練。
魔力循環と魔力操作。
座学。
休養。
食事。
睡眠。
一つ一つの項目を並べながら、ヴィルはその横へ細かな注意を書き加えていった。現在のレイズには、一般的な少年と同じ鍛錬をさせることすら危険が伴う。身体には長年の運動不足による負担が蓄積しており、筋力に対して体重があまりにも重い。無理に走らせれば膝や足首を痛める可能性がある。木刀を振るわせる以前に、まずは自分の身体を支え、正しく歩き、呼吸を乱さず動き続けられる状態へ近づけなければならない。
だが、ただ体重を落とせばよいというものでもなかった。
これから成長期を迎える身体へ、必要な栄養まで削るわけにはいかない。極端に食事量を減らせば筋肉まで衰え、魔力を扱うための体力も育たなくなる。本人はヘルシーな食事を望んでいるようだが、どうやらレイズの言うヘルシーと、屋敷の料理人たちが考える健康的な食事には、かなり大きな隔たりがあるらしい。
「……象一頭は、さすがに多かったでしょうか…?」
羽ペンを動かしながら、ヴィルは小さく呟いた。
もちろん、本当に象を一頭出すつもりなどない。そもそもこの地方で象を用意する方が難しい。あれはレイズの反応を見たくて口にしただけの冗談だったのだが、想像以上に大きな声で怒鳴られてしまった。
アホか、と。
これまで屋敷の中で、ヴィルへ向かってあれほど遠慮なく怒鳴った者が何人いただろう。少なくとも、近年のレイズがヴィルへあのような言葉をぶつけたことはない。以前のレイズが向けてきたのは、怒りというよりも拒絶だった。近づくな。放っておけ。自分のことなど分かるはずがない。そんな棘のある言葉を吐きながらも、その奥には怯えと諦めが見え隠れしていた。
だが、今のレイズの怒鳴り声には、恐怖も拒絶もなかった。
ヴィルならば受け止めるという、無意識の信頼があった。
「……アホ、ですか…」
思い返すうち、ヴィルの口元がほんの僅かに緩む。
すぐにいつもの表情へ戻したものの、羽ペンの文字には先ほどより僅かに柔らかな丸みが生まれていた。
訓練予定を一通り書き終えると、ヴィルは紙の下部へ別の欄を設けた。
現在の能力。そして未来の素質について
ただし、数値として正確に測定したものではない。あくまで今日の動きや会話から推測した、おおよその評価である。
体力。 筋力。 敏捷性。 柔軟性。
持久力。 魔力。 魔力操作。 知識。
精神力。 根気。
ヴィルはそれぞれの横へ、五段階を示す印を書き込んでいった。
体力は一つ。
筋力も一つ。
敏捷性は一つをつけるべきか迷い、結局、半分ほどの印にとどめる。柔軟性も低い。持久力に至っては、木刀を持ち上げただけで座り込んでいたことを考えれば、評価のしようがなかった。
魔力そのものは未知数。
魔力操作は皆無に等しい。
知識については、奇妙な部分でこの世界の常識を知らない一方、ヴィルですら知らぬ言葉や考え方を持っている。判断が難しいため、ひとまず保留とした。
精神力。
そこでヴィルの羽ペンが止まる。
恐怖を抱きながらも、自分が何者であるかを話した。信じてもらえない可能性を理解しながら、真実を口にした。そして、自分の身体と同じ重さの木刀へ何度も手を伸ばした。
ヴィルは五つすべての印を塗り潰した。
根気も同じく五つ。
食欲については、五段階では収まりきらないと判断し、欄の外へさらに三つほど印を書き足した。
「……これでよし」
完成した紙を持ち上げ、内容を確認する。
我ながら十分に公平な評価である。
ヴィルはそう判断し、紙を丁寧に折り畳むこともなく、そのまま手に持って執務室を出た。
廊下へ出ると、屋敷の使用人たちがヴィルの姿へ気づき、揃って道を空ける。ヴィルは短く頷きを返しながら、屋敷の正面ではなく、奥へ続く細い渡り廊下へ足を向けた。
その先には、屋敷の本館とは僅かに離れた場所に、一棟の建物がひっそりと建っている。
外から見れば、大きさこそそれなりにあるものの、華美な装飾は施されていない。白い石壁と濃い色の屋根。窓も少なく、入口にはアルバード家の紋章が控えめに刻まれているだけだった。事情を知らぬ者が見れば、古い倉庫か、使われなくなった離れだと思うかもしれない。
だが、その内部へ収められているものは、金銀や宝石などよりも遥かに価値が高い。
歴代のアルバード家が集めてきた書物。
大陸各地の地理。
王国や帝国の歴史。
魔法に関する研究記録。
魔物の生態。
剣術や兵法。
貴族たちの系譜。
各領地の産業や人口。
そして、一般には公開することのできない数多くの文献。
所蔵されている書物の数は膨大であり、建物の内部は一つの図書館と呼んでも差し支えない規模を有している。
当然ながら、この場所へ自由に立ち入ることのできる者は少ない。アルバード家の血を引く者であっても、許可なく入ることは認められておらず、使用人の中で鍵を預けられている者もヴィルを含めて数人だけだった。
ヴィルは腰元から鍵を取り出し、重い扉へ差し込んだ。
小さな金属音とともに錠が外れる。
扉を押し開けると、外の明るさとは異なる、薄暗く静かな空間が現れた。
古い紙と革の匂い。
僅かな埃。
高い天井まで伸びる巨大な本棚。
窓から差し込む細い光の筋の中を、細かな塵がゆっくりと舞っている。外の風や人の声は厚い壁に遮られ、この場所だけが時間の流れから切り離されているような静けさに包まれていた。
ヴィルは扉を閉じ、迷うことなく奥へ進んでいく。
棚と棚の間を抜け、中央に設けられた閲覧用の空間へ足を踏み入れたところで、彼は一人の少女の姿を見つけた。
窓際の机へ腰を下ろし、分厚い本を開いている。
年の頃は十五、六。
背中まで伸びた髪は丁寧に整えられ、窓から差し込む光を受けて柔らかく輝いている。机の上には数冊の書物が重ねられ、その横には紙とペン、そして既に書き終えたらしい細かな覚え書きが並んでいた。
少女はヴィルが入ってきたことにも気づかず、本の内容へ没頭している。
ページをめくる指先には迷いがなく、時折、小さく唇を動かしながら文章を追っていた。年若い少女に似つかわしくないほど落ち着き、集中した姿である。
ヴィルはその様子を眺め、自然と眼差しを和らげた。
それは先ほど、訓練場でレイズを見ていたものと、どこかよく似た視線だった。
厳しさを含みながらも、決して冷たくはない。
成長を願い、見守る者の目。
「イザベル…」
ヴィルが名前を呼ぶと、少女の肩が大きく跳ねた。
「ひゃっ……!」
手にしていた本を落としかけ、慌てて両手で抱え込む。椅子の上で勢いよく振り返った少女は、そこに立っているヴィルの姿を見つけると、驚きと安堵の混じった表情を浮かべた。
「お、おじいさま……! いきなり後ろから声をかけないでください。心臓が止まるかと思いました」
「扉を開けた音にも、私の足音にも気づかなかったようですね?」
「ここは静かですし、本を読んでいたんです。気づかなくても仕方ないでしょう?」
「敵が侵入しても、同じことを言うつもりですか?」
「ここへ侵入できる敵なんて、おじいさまくらいですよ…」
「私は敵ではありませんが………」
「今の驚かせ方は敵と同じです」
頬を膨らませて抗議するイザベルに、ヴィルは僅かに口元を緩めた。
その表情を見て、イザベルは目を瞬かせる。
「……おじいさま、何か良いことでもあったんですか?」
「なぜ、そう思うのですか?」
「少しだけ笑っていたから」
「気のせいでしょう」
「いいえ。笑っていました」
「イザベル」
「はい」
「あなたに頼みたいことがある。」
話を変えられた。
そう理解したイザベルは少し不満そうな顔をしたが、ヴィルの手にある紙へ気づくと、表情を改めた。
「私に?」
「ええ」
ヴィルは彼女の正面まで歩み寄り、紙を差し出す。
「今後、レイズの鍛錬へ魔法の訓練を取り入れる予定です。ただし、現在のレイズは魔力をほとんど正しく扱うことができません。基礎から教える必要があります」
「レイズ君に……魔法を?」
イザベルはすぐには紙を受け取らなかった。
レイズの名を聞いた瞬間、その瞳に僅かな揺れが生まれた。
驚き。
戸惑い。
そして、それらの奥から抑えきれず浮かび上がってくる期待。
「そうです」
「でも……」
イザベルは何かを言いかけ、口を閉ざした。
レイズへ魔法を教える。
その言葉が、単なる依頼ではないことを彼女は理解していた。
これまでヴィルは、イザベルがレイズへ積極的に関わることを許さなかった。顔を合わせることそのものを禁じられていたわけではない。屋敷の行事や親族が集まる場であれば、最低限の挨拶を交わすこともあった。
だが、それ以上は認められなかった。
今のレイズへ近づくな。
余計な刺激を与えるな
何かを教えようとするな。
助けようとするな。
レイズが望まぬ限り、距離を保て。
ヴィルはその理由を詳しく語らなかった。ただ、レイズの精神状態が不安定であることと、イザベルが近づけば互いに傷つく可能性があるとだけ告げていた。
イザベルは何度も反発した。
自分ならレイズの力になれる。
幼い頃は一緒に過ごしていた。
約束だってした。
レイズが困っているのに、どうして何もしてはいけないのか。
だが、ヴィルは決して許さなかった。
やがてイザベルも、遠くから見守ることしかできなくなった。
「……私で、いいの?」
ようやく紙へ手を伸ばしながら、イザベルは静かに尋ねた。
「あなたが適任だと判断しました」
「魔法を教えるだけなら、他にもできる方はいますよね?」
「ええ…います」
「なら、どうして私なんですか」
イザベルの声は穏やかだった。
けれど、紙を受け取る指先には力が入っている。
ヴィルはすぐには答えず、彼女を静かに見つめた。
「まずは、内容を確認しなさい」
「……はい」
イザベルは胸の内に浮かんだ疑問を抑え、渡された紙へ視線を落とした。
初めは真剣な表情だった。
起床時間。
歩行訓練。
軽い走り込み。
休憩。
柔軟。
木刀を用いた負荷訓練。
食事。
魔力の感知。
魔力循環。
座学等。
内容を一つずつ追いながら、小さく頷いていく。
「随分と細かく組んでありますね。身体への負担も考えられてる……」
「当然です。急激に負荷をかければ、身体を壊しますから」
「おじいさまが、そこまで慎重になるなんて珍しいですね」
「私は常に慎重ですが?」
「昔、皆を…崖から落として登ってくるように言った人が、何か言ってますよね?」
「あれは高さも角度も計算していました」
「落とされた側には分からないからね!?」
「でも、あなたは問題なく登ってきました」
「泣きながらだよ!?」
イザベルは呆れたように笑いながら、さらに下へ目を走らせた。
そして、能力評価の欄へ到達したところで、その動きが止まる。
「……」
数秒間、無言で紙を見つめる。
もう一度、最初から評価を確認する。
体力、一。
筋力、一。
敏捷性、半分。
持久力、評価不能。
柔軟性、一。
魔力、不明。
魔力操作、零。
精神力、五。
根気、五。
食欲、八。
イザベルの肩が小さく震え始めた。
「……ふっ」
口元を押さえる。
だが、堪えきれなかった。
「ふふっ……あははっ……!」
静かな書庫の中へ、イザベルの笑い声が響いた。
「おじいさま、何ですか、これ……!」
「何とは?」
ヴィルは本気で分からない様子で首を傾げる。
「能力評価ですよ! こんなに偏った評価、初めて見ました。ほとんど一つなのに、精神力と根気だけ最大で、どうして食欲は欄からはみ出してるんですか!」
「五段階では正確に表せなかったため、必要な分を追加しました」
「真面目に答えないでください。余計に面白いですよ…」
「私は至って真面目ですが…?」
「分かってます。分かってるから笑ってるんです」
イザベルは紙で口元を隠しながら、しばらく笑い続けた。
だが、その笑みは次第に穏やかなものへ変わっていく。
「……そっか」
小さく呟く。
もう一度、紙へ目を落とす。
体力もない。
筋力もない。
魔力操作もできない。
それでも精神力と根気には、ヴィルが迷うことなく最高の評価をつけている。
ヴィルは身内だからといって、甘い評価を与える人ではない。むしろ近しい者ほど厳しく見る。イザベル自身、幼い頃から何度もそれを思い知らされてきた。
そんなヴィルが、レイズの心と根気を認めている。
「レイズ君……変わろうとしてるんだね」
その声から、先ほどまでの笑いが消えた。
残っているのは、柔らかな喜びと、どこか寂しさを含んだ懐かしさだった。
「自分から鍛錬を望みました」
「レイズ君が?」
「ええ」
「……本当に?」
「私が嘘をつくと思いますか」
「思いません。でも……信じられなくて」
イザベルは紙の端を指でなぞる。
幼い頃のレイズは、決して何もできない子どもではなかった。
失敗すれば泣き、悔しがり、それでも翌日にはまた挑戦した。イザベルの後ろをついて歩き、自分も同じことをすると言っては、大人たちを困らせていた。
いつも少しだけ臆病で。
けれど、誰かが困っていれば放っておけない。
そんな少年だった。
それが少しずつ変わっていった。
失敗を恐れ、人の目を避け、誰かと比べられることを嫌い、やがて自分から何かをしようとしなくなった。イザベルが声をかけても目を合わせず、最後には近づくなと言われた。
あのときのレイズの顔を、イザベルは今でも覚えている。
怒っていた。
だが、その瞳の奥では泣いていた。
「おじいさま」
イザベルは顔を上げた。
「今のレイズ君は……どんな感じなんですか?」
「どんな、とは」
「話しかけても怒りませんか。私の顔を見て、嫌そうにしませんか。また……近づくなって言われたりしない…?」
最後の言葉だけ、声が僅かに震えた。
ヴィルはその変化を聞き逃さなかった。
イザベルはいつも明るく振る舞っている。頭も良く、魔法の才能にも恵まれ、親族や使用人たちからの信頼も厚い。だが、レイズのこととなれば、その胸の中には今も幼い頃の傷が残っていた。
「それを恐れているのですか?」
「うん……少しだけ」
「ならば、断りますか?」
「断りません」
イザベルは即座に答えた。
迷いなどなかった。
「怖くても、断りません。レイズ君と関われるなら、私は何でもするから…」
「何でも、という言葉を軽々しく口にするものではありません」
「では、できる限りのことをします!」
「無理をすることも許しません」
「おじいさまは注文が多いですね」
「あなたが軽率なのですよ。イザベル」
イザベルは少しだけ頬を膨らませた。
しかし、すぐに真剣な表情へ戻る。
「それでも、やらせてください。レイズ君が本当に変わろうとしているなら、私も力になりたいです。何もさせてもらえなかった分まで、今度こそ……」
そこまで口にし、イザベルは言葉を止めた。
自分でも分かっている。
力になりたいという気持ちが、必ず相手のためになるとは限らない。過去の自分は、それを理解できていなかった。心配だから近づく。助けたいから手を伸ばす。それが拒まれれば傷つき、自分の気持ちばかりを押しつけようとした。
今なら分かる。
レイズが望まないなら、待つことも必要だった。
だが、待ち続けることは苦しかった。
「今のレイズとなら」
ヴィルの声が、静かな書庫へ落ちた。
イザベルは顔を上げる。
ヴィルは真っ直ぐに彼女を見ていた。
「イザベル。おまえが関わることを、私は赦します」
その瞬間。
イザベルの呼吸が止まった。
「……え」
手にしていた紙が、僅かに震える。
何を言われたのか理解できなかったのではない。
理解したからこそ、すぐには言葉が出てこなかった。
何年、その一言を待っただろう。
何度、レイズへ会いに行こうとして止められただろう。
何度、遠くからその姿を見つめただろう。
声をかけたくても、近づきたくても、何もできなかった。ヴィルの判断が間違っているとは、今では思っていない。あの頃のレイズへ無理に関われば、きっと余計に追い詰めていた。
それでも。
苦しかった。
「……本当に?」
ようやく絞り出した声は、かすかに震えていた。
「私が許可を撤回するような者に見えますか」
「だって……ずっと駄目だって言ってたから」
「状況が変わりましたから…」
「レイズ君が、変わったから?」
「それだけではありません」
ヴィルは僅かに目を伏せる。
「私もまた、変わるべきだと判断しました」
イザベルは驚いたようにヴィルを見つめた。
自らの判断を疑うことのないヴィルが、自分にも変わる必要があると口にした。それだけでも、今のレイズがヴィルへどれほど大きな影響を与えたのかが分かる。
「今まで、すまなかった。」
「……おじいさま?」
「あなたへ何もさせなかったことを、謝るつもりはありません。あのときは、あれが最善だと判断していました。今でも間違っていたとは思っていません」
「それ、謝ってませんよね」
「いいから…最後まで聞きなさい」
「はい」
「ですが、あなたがどれほど苦しんでいたかを知りながら、十分に言葉を尽くさなかった。それについては、私にも責任があります」
イザベルは何も答えなかった。
答えようとすれば、声が崩れてしまいそうだった。
「ですから、今度は任せます。」
ヴィルは続ける。
「ただし、焦ってはなりません。昔のレイズへ戻そうとするのではなく、今ここにいるレイズを見ることです。あなたの知るレイズと同じ反応をするとは限らない。過去の約束を覚えているとも限りません」
「……覚えていないんですか?」
「その可能性もありますね」
イザベルの瞳に、一瞬だけ寂しさが浮かぶ。
だが、すぐに小さく頷いた。
「分かりました」
「本当に分かっていますか?」
「はい。覚えていなくても、責めません。昔と違っても、比べません。今のレイズ君を、ちゃんと見ます」
イザベルは紙を胸元へ抱き寄せる。
「それでも、またお話しできるだけで嬉しいですから」
その笑顔は、どこか泣き出しそうだった。
ヴィルはしばらく彼女を見つめ、やがて小さく頷いた。
「魔法の基礎を教えてください。最初は魔力を感じることからで構いません。決して急がせず、できたことを一つずつ確認しなさい」
「おじいさまよりは優しく教えます」
「私も優しく教えていますが…」
「重木を投げて渡す人の言葉とは思えませんね」
ヴィルの眉が僅かに動いた。
「なぜ、それを」
「だって…紙に書いてあります。『重木を投げた際、危険を察知して回避。反応速度は想定より良好』って」
「事実を記録しただけです」
「普通は投げませんよ?」
「避けられましたが。」
「避けられなかったらどうするつもりだったんですか」
「受け止めていました」
「おじいさまが投げた物を、おじいさまが受け止めるんですか?」
「問題がありますか??」
「問題しかありませんよ」
イザベルは呆れたように息を吐き、それから堪えきれず笑った。
「でも……なんだか安心しました」
「何がです」
「おじいさまが、レイズ君のことを話すとき、少し楽しそうだから」
「そのようなことはありません…」
「また笑ってますよ」
「笑っていません…」
「ほんの少しだけですけど」
ヴィルは答えず、イザベルへ背を向けた。
「本日の午後レイズをここへ向かわせます。」
「今日…?」
「早い方がよい。」
「はい!」
イザベルの声が、思わず大きくなる。
静かな書庫の中で反響し、自分でも驚いたように口元を押さえた。
ヴィルは振り返らなかった。
だが、その歩みを始める前に、ほんの僅かに肩を緩めた。
「それでは頼みます。私はレイズの様子を見てくる。」
「まだ訓練場にいるんですか?」
「そのはずだ。」
「一人にして大丈夫なんですか」
「木刀を持ち上げるだけで精一杯です。危険なことはできない。」
「それはそれで心配ですけど……」
「念のため、遠くからも使用人に見張らせています」
「やっぱり心配してるんじゃないですか」
「当然の措置でしょう」
それだけ言い残し、ヴィルは静かに歩き出した。
棚の間へ姿が消え、やがて扉の開閉する音が響く。
再び、書庫に静けさが戻った。
イザベルはしばらく、その場から動かなかった。
手にした紙を見つめる。
レイズの鍛錬予定。
現在の能力。
ヴィルの几帳面な文字。
そして素質の評価。
そのすべてが、これまで止まっていた時間が動き始めたことを伝えているようだった。
「…そっか…」
小さく呟く。
やっと、、レイズと話せる。
遠くから見るだけではない。
短い挨拶だけでもない。
魔法を教えるという理由がある。
同じ場所に立ち、顔を見て、言葉を交わせる。
ただそれだけのことが、胸を締めつけるほど嬉しかった。
イザベルは紙を胸へ抱き寄せる。
「本当に……嬉しいな」
声にすると、目の奥が熱くなった。
幼い頃、レイズと交わした約束を思い出す。
大きくなったら、一緒に…。
レイズは不器用だから、私が隣にいてあげなくちゃ。
そんな他愛のない約束。
当時のレイズは、少し不満そうに頬を膨らませながら、それでも最後には笑って頷いた。
『じゃあ、約束だからな…!おじいさまには言うなよ?』
その声を、イザベルは今でも覚えている。
「約束……思い出してくれたのかな」
微笑みながら呟く。
だが、ヴィルの言葉も同時に思い出す。
過去の約束を覚えているとは限らない。
昔のレイズへ戻そうとするのではなく、今ここにいるレイズを見ろ。
「……うん」
イザベルは、自分へ言い聞かせるように頷いた。
覚えていなくても構わない。
忘れているのなら、また初めから話せばいい。
昔と違うのなら、今のレイズを知ればいい。
嫌われているのなら、少しずつ距離を縮めればいい。
もう一度。
今度こそ、焦らずに。
イザベルはまだ知らない。
これから、自分が会うレイズが、幼い頃に約束を交わしたレイズではないことを。
心を閉ざし、周囲を拒み続けていたレイズですらないことを。
同じ顔を持ち。
同じ身体を持ち。
同じ名で呼ばれながらも。
その内側には、まったく別の人生を歩んできた者がいることを。
ヴィルが口にした、「今のレイズとなら」という言葉。
その本当の意味を、イザベルはまだ知らない。
ただ、ようやくレイズと再び関われる。
それだけを胸へ抱き、明日という日を待っていた。
手にした紙をもう一度開く。
当主素質10という評価。
「……ふふ」
再び笑みがこぼれた。
「当主素質…たかすぎでしょ……」
そう呟きながら、イザベルは机へ戻る。
だが、もう本の続きを読むことはできなかった。
文字を追おうとしても、頭に浮かぶのは明日のことばかりだった。
どんな顔で会えばいいのか。
最初に何と声をかければいいのか。
久しぶり、と言ってよいのだろうか。
それとも、何もなかったように普通に話すべきなのか。
考えれば考えるほど、胸が落ち着かなくなる。
それでも、不安より喜びの方が遥かに大きかった。
長いあいだ閉ざされていた扉が、ようやく僅かに開いたのだ。
その向こうにいるレイズが、かつて知っていた少年と同じなのか。
それとも、まるで違う者なのか。
今のイザベルには分からない。
だが、違っていたとしても。
その違いごと受け止めてみようと、彼女は思った。
こうして、ヴィルの胸の中だけで動き始めていた小さな変化は、少しずつ周囲へ広がり始めていた。
訓練場で重木を持ち上げようともがいた、ほんの小さな決意。
それは、レイズ自身が思うよりも遥かに大きく、止まっていた者たちの時間を動かし始めている。
ヴィルの諦めを。
イザベルの待ち続けた想いを。
そして、長いあいだ離れていた二人の未来を。
再び繋ごうとしていた。




