ジュラでは、
ジュラの大地――。
朝靄がまだ薄く漂う荒野で、
一匹の獰猛な魔物が、無垢で愛らしい姿をした“なにか”と向かい合っていた。
低く唸る声。
そして次の瞬間、魔物は地を蹴り、
獲物めがけて飛びかかった。
牙が深く食い込み、骨を砕く音が響く。
「ガリ、バリ、バリ……」
血と肉が飛び散り、あたりは鉄のような匂いで満たされた。
――ただの捕食。
魔物はそう思っていた。
だが、すぐに異変が起きた。
腹の奥で、何かが蠢く。
呻き声を上げた魔物は暴れ狂い、
巨木に激突し、地を転がり、
内側から裂かれるような苦痛に悲鳴をあげる。
そして、
やがて――動かなくなった。
その口の中から、
あの“無垢な生き物”がゆっくりと姿を現した。
噛み砕かれたはずの体は、傷一つない。
ただ、腹を撫でるようにして一言だけ、ぽつり。
「……オイチカッタ。」
そう呟くと、
魔物の亡骸のそばで丸くなり、静かに眠りについた。
朝日が昇り、
その白い小さな体に光が差し込む。
どこか、天使のような――いや、それ以上に、異質な光景だった。
なにかが起きている――
そんなことなど、まだ誰も知らない。
ただ、レイズだけが屋敷の中で頭を抱えていた。
「王がここに来るって!?
しかも座位騎士まで連れてくるって……どうすりゃいいんだよ、クリス!」
声は上ずり、歩き回る足音が響く。
そんなレイズに、クリスはいつもの穏やかな口調で声をかけた。
「ご安心ください、レイズ様。
その不安、このクリスがすべて晴らしてみせます。」
「おぉ……さすがクリス、頼りになる……!」
わずかに安堵するレイズ。
だが次の瞬間、クリスはまっすぐな瞳で続けた。
「王もろとも、私が全員無力化し、捕らえてみせましょう。」
「…………」
レイズの顔が一瞬で青ざめる。
「ク、クリス……? それ……やっちゃだめなやつだよね?
ね?」
「はい、冗談でございます。」
ふうっと胸を撫でおろすレイズ。
だが、クリスはさらりと続けた。
「ですが、王だけ捕らえれば私たちの勝ちです。」
「冗談じゃねぇぇぇ!!!」
レイズは全力でツッコミを入れ、
そのまま部屋を飛び出していった。
廊下には、クリスの真剣な声だけが響く。
「レイズ様……! 私は本気でございますよ!」
「い、イザベル……助けてくれ……!」
レイズは半泣きで部屋の扉を開け放った。
「どうしたの、朝からそんな顔して。」
イザベルは湯気の立つカップを手に、
ソファに腰を下ろしたまま片眉をあげる。
「明日、王がここに来る!!
騎士を連れて!! しかも、クリスがあほなんだ!!!」
叫ぶレイズの勢いに、
カップの中の紅茶が少しだけ揺れた。
イザベルは、ため息をひとつ。
立ち上がると、そっとレイズの頬を両手で挟み込んだ。
「ね? 落ち着いて、レイズくん。」
柔らかい声で言いながら、イザベルは続ける。
「一人で対応しなければいいのよ。
それに、クリスはアホよ。……そして、レイズくんもアホなの。」
一瞬の静寂。
次の瞬間、レイズは顔を真っ赤にして叫んだ。
「誰がアホだぁぁぁ!!!」
イザベルはクスクスと笑いながら、
「ほらね、図星だとすぐ怒るんだから。かわいいわよ、うちの当主さま。」
レイズは頭を抱えていた。
静かな部屋の中、湯気がゆらめいていた。
リアノは何も言わず、そっと温かいコーヒーをレイズの前に置く。
そして自らもその隣に腰を下ろした。
レイズは震える手でカップを持ち上げた。
だが、緊張で手が揺れ、黒い液体が縁を越えてこぼれ落ちる。
ぽたぽたと落ちるしずくを、リアノは慌てて布で拭き取った。
「ぁあ、リアノ……ありがとう。おかげで少し落ち着いた。
だから、お前も落ち着くのだ。」
「私はもう落ち着いていますよ、レイズ様。」
リアノは穏やかな声で微笑む。
「聞きました。明日、王国から王様が来られるそうですね。
けれど、王様がみずから動くというのは――怖いことではありません。
冷静に考えてみてください。」
レイズはコーヒーをもう一口含み、深く息を吐いた。
リアノの声は、どこか心の奥を静める響きを持っていた。
「……王がみずから来る。
本来、敵地に身を置くなど愚行だ。
つまり――それは、アルバードを“信頼している”ということか……?」
リアノは、そっと頷いた。
「はい。それは、敵ではなく“対話の相手”として見ているということ。
恐れるよりも、迎える準備を整えることが大切です。」
レイズは目を閉じ、小さく笑う。
震えていた手の力が、ようやく抜けた。
「……なるほどな。
王が敵であれば、使者をよこすだけでいい。
自ら来るというのは、信頼と――それに、覚悟の証か。」
リアノはその言葉に微笑みを浮かべる。
「きっと、レイズ様も同じです。
恐れながらも、いつも前へ進もうとする。その姿を王も見たいのだと思います。」
レイズはカップを見つめ、少し照れくさそうに言った。
「……リアノ。お前は、ほんとに、、たまに俺より大人だな。」
リアノは首をかしげて、小さく笑った。
「それはどうでしょう。レイズ様が焦ってくださるおかげで、私も落ち着けるのです。」
ふたりの間に、柔らかな沈黙が流れる。
湯気がゆらぎ、窓の外では朝が少しずつ顔を出していた。




