王の訪問
朝霧の残る街道を、王の一行がゆっくりと進む。
馬の蹄が静かに石畳を叩くたび、白い息が立ちのぼる。
その先に――アルバードの城壁があった。
カイネル王は馬上からその光景を見上げ、思わず息を呑む。
「……ほんとうに、見張りがいないのだな。」
誰も矢を構えていない。
兵も、監視塔も、緊張の気配すら感じられない。
ただ穏やかに風が吹き抜け、朝日が静かに石壁を照らしていた。
「無防備というより……信頼か。」
王は呟く。
だが、奇妙なものが目に映る。
「……灯りが……ついている?」
朝の光に溶けるように、家々の軒先に青白い光がぽつぽつと灯っていた。
それはまるで人々の生活を照らす導きの灯。
王の胸に、感嘆と警戒が同時に広がる。
「……水の装置、とはあれのことか。」
領内に足を踏み入れた瞬間、さらに驚くべき光景が広がった。
「……多い。」
思わず言葉が漏れる。
「こんなにも、この地に人がいたのか……。」
かつて廃れたと聞いていたアルバード領。
だがそこには、笑顔を見せる子どもたち、忙しく働く職人たち、そして清らかな水の流れる小川があった。
活気――それは滅びゆく国ではなく、まるで新たな都のようだった。
「……信じられぬ。ここが本当に、アルバードか。」
王の姿を見た人々はざわめき、すぐに頭を垂れた。
緊張と畏怖が波のように道を開けていく。
その光景を見ながら、王は小さく息を吐く。
「……やはり、ただの小国ではないな。」
彼の背後には、鎧を鳴らす騎士たち――
グレサスとデュランを除く、座位持ちの精鋭たちが控えていた。
誰もが目を見張り、剣に手をやることすら忘れていた。
そして、やがて一行はアルバード家の敷地前へと辿り着く。
大きな門が見える。
その前に――二人の人物が立っていた。
「……双子か?」
王は思わず目を細めた。
そこにいたのは、リアノとリアナ。
朝の光を受け、二人はまるで鏡のように立ち並んでいた。
白を基調とした使用人服に、静かに礼を取る。
「御待ちしておりました。カイネル王陛下。」
澄んだ声が響く。
その声の調子と仕草の端々に、揺るぎない気品があった。
王は思わず言葉を失い――そして微笑む。
「……美しい……そして、凛としている。」
まるで王を迎えるために生まれたようなその姿に、
王の胸中で何かが静かに鳴った。
この地には、確かに“力”がある――
それは剣でも魔法でもない、“誇り”という名の力だった。
荘厳な門をくぐり、王と座位騎士たちはゆっくりと屋敷の敷地に足を踏み入れた。
朝露を含んだ空気の中、リアナが一歩前へ出て恭しく頭を下げる。
「出迎え、ご苦労である。」
カイネル王の声は深く、堂々と響いた。
「我らに敵意はない。ゆえに――屋敷へ案内してくれ。」
リアナは姿勢を正し、凛とした声で応じる。
「ハッ。ではこちらへ。」
リアノは静かに一礼すると、王の背後に並ぶ座位騎士たちへと視線を向けた。
「それでは、ここでは武器は不要になります。
お預かりしても、よろしいでしょうか?」
一瞬、空気が張り詰める。
鎧の金具が微かに鳴る音――。
騎士たちは互いに視線を交わし、躊躇を見せた。
だが、王はゆっくりと頷く。
「構わん。ここでは剣よりも礼を重んじよ。」
その一言により、座位騎士たちは静かに腰の剣を外し、リアノへと差し出した。
リアノは丁寧に受け取り、一人一人に頭を下げる。
「ありがとうございます。では――こちらへ。」
案内されながら、王は歩を進める。
廊下を進むごとに、かつての記憶が胸をよぎる。
「……久しぶりに見るな。」
石造りの柱、広く磨かれた床、壁に掛けられた古き家紋。
そのすべてが、かつて王として訪れた時と、どこか同じ香りを残していた。
屋敷の扉が開かれた瞬間、整然と並ぶ使用人たちの列が目に入る。
一糸乱れぬ姿勢で、全員が頭を垂れていた。
その光景に、王は自然と息を呑む。
「……ふむ。やはり見事だな。」
その一言に、リアナたちは深く頭を下げた。
そして――
奥の廊下から、柔らかい声が響く。
「お待ちしておりました。国王陛下。」
現れたのは、まだ若い少年――レイズ。
だがその姿を見た瞬間、王の目がわずかに見開かれる。
「……似ている。」
その言葉は、誰にも聞こえないほどの小さな声だった。
“ヴィズに、あの若き日の姿によく似ている”――
カイネル王はそう感じていた。
そして、目の前の少年がわずか十五歳に過ぎないと知ると、思わず未来を想像してしまう。
この少年が成長したとき、どれほどの存在になるのかと。
王は口元に笑みを浮かべる。
「今日は――ここに条約を結びに来た。
決して、そちらが不利になるようなものではない。
ゆえに、警戒はせずともよい。」
その声には、威厳だけではない。
一国の王としての確かな“誠意”が滲んでいた。
レイズはわずかに肩を震わせた。
その一言一言が、重く、そして温かかった。
(王のおっさん……やっぱり、ただものじゃねぇな……)
レイズの胸の奥で、緊張と尊敬が入り混じる。
それでも――その瞳には確かな光が宿っていた。
次の瞬間、王とアルバードの少年当主が、互いに視線を交わす。
そこには、敵でも味方でもない。
“国を背負う者同士”としての、静かな敬意があった。
荘厳な静けさが、屋敷の空気を包んでいた。
大理石の床に王の靴音が響くたび、場の緊張が一層高まる。
王はゆっくりと椅子から立ち上がると、まっすぐにレイズを見据えた。
「――レイズ・アルバードよ。」
その一言に、場にいた者たちの呼吸が止まる。
王の声には命令でも威圧でもない、“真意”の重みがあった。
「二人で話をしたい。
ゆえに――我もこやつらを同席させぬ。
そちらも、その男を下げよ。」
王の視線の先には、今にも剣を抜きそうな鋭い気配を放つクリス――いや、“ウラトス”の姿があった。
その背筋は微動だにせず、手は柄にかかっている。
(……クリス余計なことはするなよ、、)
レイズは心の中で冷や汗を流す。
クリスの忠義は誇りだが、この場では刃にもなり得る。
「クリス、大丈夫だ。」
レイズは静かに言葉を投げた。
その一言に、ウラトスはわずかに目を伏せ、一歩後ろへ下がる。
王はそんな様子を確認すると、今度は視線をディアナへ向けた。
ディアナははっとして膝を折り、深く頭を下げる。
「ディアナ……」
王は穏やかに言葉を続けた。
「お前もまた、国にとっての宝だ。
我は今も――お前を、大切な宝として見ている。
ゆえに、そんな顔をするでない。」
その言葉には、かつての主と臣下の関係を越えた温もりがあった。
ディアナの頬を一筋の涙が伝い、
彼女は静かに「はっ」とだけ応じる。
レイズはそのやり取りを見ていた。
胸の奥に、何かが静かに崩れていく。
――王国。
――容赦のない、冷酷な力の象徴。
そう信じていたはずだった。
けれど、いま目の前にいる男は、まるで違う。
“人としての王”がそこにいた。
「では、陛下。」
レイズは一礼し、少し柔らかい口調で続ける。
「こちらの部屋でお話をいたしましょう。」
王はうなずき、ゆっくりと歩き出す。
「ディアナ。そなたは騎士たちと話をしておけ。
積もる話もあるだろう。」
「は……かしこまりました。」
重厚な扉が開く。
レイズと王――二人きりの空間へと足を踏み入れる瞬間、
屋敷の空気は、まるで時が止まったかのように静まり返った。
外では、クリスが無言のまま扉の前に立ち、
“何かあればすぐ動く”という意志を、ただ気配で示していた。




