クリスの言葉届くのか
薄曇りの空の下、アルバードの屋敷の廊下にレイズの足音が響いていた。
その足音は落ち着きなく、行ったり来たりを繰り返す。
「……レイズ様、落ち着いてください。」
背後から声をかけたのはクリスだった。
だが、その声もまるで届かないかのように、レイズは突然笑い出す。
「はは……っははは……」
笑い声はすぐに止まり、今度は低くぶつぶつと何かを呟きながら歩き出す。
「いや……でも……まさか……リール……まさか……」
その姿は、いつもの冷静な彼ではなかった。
木刀を手に取ると、その場で素振りを始める。
バシン、バシン、と空気を切る音が廊下に響く。
そして次の瞬間、まるで何かに突き動かされるように走り出した。
「レイズ様!? どこへ行かれるのですか!」
クリスが慌てて追いかける。
「落ち着けるかぁっ!! もう俺は行く!!」
レイズの声は、焦りと決意に満ちていた。
「どこへ、ですか!? 答えてください!」
「ついてくんな!!」
「それは無理です!」
「……トイレだぞ!!」
クリスが一瞬、足を止める。
「……え?」
レイズは本気の顔で叫んだ。
「トイレだって言ってんだ!!!」
しばらく沈黙。
クリスは額に手を当て、小さくため息をついた。
「……そういうことでしたら、どうぞご自由に。」
レイズはその場で立ち止まり、我に返ったように頭をかく。
「……いや、違う。俺、本当に落ち着いてねぇんだな……」
クリスは小さく笑った。
「ええ、見れば分かります。だから、まずは息を整えてください。」
その言葉には、からかいではなく、確かな優しさがこもっていた。
廊下に漂う空気は、重く、それでいて奇妙に温かかった。
レイズが歩みを止めずに進んでいく背中を、三人の視線が追いかける。
「何やってんのよ……」
イザベルが両手を腰に当て、呆れたように呟く。
「いつもの余裕でいなさいよ、“当主様”なんだから。」
レイズは振り返らずに言い放った。
「俺は当主じゃない!!」
「じゃあ、なんなのよ?」
イザベルが笑いながら挑発するように返す。
レイズは何かを言いかけて、言葉を飲み込んだ。
その時、リアノがそっとレイズの手を取る。
「……レイズ様は、頑張りすぎです。
大丈夫、きっと上手くいきますよ。」
その声は、まっすぐで、少しだけ震えていた。
レイズは立ち止まり、リアノの顔をじっと見つめる。
リアノはその視線に思わず緊張してしまい、視線を逸らそうとした。
「ちょ、ちょっと!」
イザベルが慌てて二人の間に入ろうとする。
だがレイズはもう動いていた。
何も言わず、歩みを進める。
「置いてかれる……」
クリスが小さく呟く。
「ちょっ、どこ行くのよ、ねぇってば!!」
イザベルが叫ぶ。
「え、えっと……?」
リアノは戸惑って立ち尽くす。
その時、レイズが振り返り、短く言った。
「……寝る。ついてくるな。」
その言葉だけを残し、静かに去っていく背中。
イザベルは腕を組み、ふっと笑う。
「絶対寝れないよ、あれ。」
リアノは胸に手を当て、小さな声で呟く。
「……あとで、こっそり暖かい飲み物でも持っていきます。」
クリスはその二人を見つめ、ゆっくりと立ち上がった。
「一人にさせてはいけない。
今日は私が側で一緒に寝て差し上げなければ……」
イザベルが思わず吹き出す。
「ちょっと、それ本気で言ってるの? クリス!」
リアノも顔を赤くしながら口を開く。
「そ、それでしたら私が……いきます!」
しかしクリスは首を振った。
「いいえ。私の言葉はレイズ様に必ず届きます。
任せてください。」
その表情は、冗談の欠片もない、真剣な顔だった。
イザベルは肩を落として呟く。
「そういう意味じゃ……」
リアノも唇を噛む。
「サポートしてくれるって言ってたのに……」
けれどクリスは迷わなかった。
すべてはレイズのため。
その苦しみを理解し、支え続けることこそが、
かつて当主ヴィル様を支え続けたセバスの後を継いだ、
自分の役目だからだ。
そして、クリスは一歩前に踏み出す。
静かな決意の音が、廊下に響いた。
廊下に残された空気は、少しだけやわらいでいた。
遠ざかっていくレイズの背を見つめながら、リアノは胸の前で両手を重ね、そっと呟く。
「……クリス様、よろしくお願いします。」
その声音には、不安と信頼が入り混じっていた。
クリスは振り返らずに頷く。
その姿勢は騎士としての誇りと、主を守る者の覚悟そのものだった。
イザベルはそんな二人を眺めて、ふっと笑う。
「まったく……アホ二人に任せときゃいいのよ。」
そう言って、肩をすくめながらくるりと背を向ける。
スカートの裾を軽く払って、明るい足取りで廊下を離れていく。
「まったく一人で背負いすぎなんだから、まったく。」
その言葉にはからかいよりも、どこか母のような優しさが滲んでいた。
リアノは静かに微笑み、消えていくイザベルの背中を見送る。
そして小さく、胸の奥で願う。
――どうか、レイズ様の心が少しでも救われますように。
廊下の窓から差し込む光が、リアノの髪をやわらかく照らしていた。




