背を見守る。
「――デュラン様!!」
鋭い叫びが訓練場に響く。
駆け寄ってきた数人の騎士たちは、血に濡れた砂の上に倒れるデュランを見て息を呑んだ。
「デュラン様! 今すぐ治療を――」
だが、その声を押し殺すように響いた一喝があった。
「やめろ!!」
低く、鋭く、全員の足が止まる。
振り返れば、木刀を握ったままのグレサスがそこにいた。
その姿には威圧があったが、同時にどこか“怒り以外の何か”が混じっていた。
「……ぐ、グレサス様……?」
騎士のひとりが恐る恐る問いかける。
血の匂いが漂う中、グレサスはゆっくりと歩み寄った。
デュランはまだ意識があった。
彼の唇に、かすかな笑みが浮かぶ。
「……見事、グレサス……」
グレサスは何も言わず、ただ無言でその前に膝をつく。
そして、力強く、しかし慎重にデュランの身体を担ぎ上げた。
「俺が運ぶ。」
その言葉に、騎士たちは顔を見合わせ――やがて安堵の息を漏らした。
誰も異を唱えなかった。
彼らの間に、二人の絆の深さを疑う者はいない。
デュランの背を支えながら、グレサスはゆっくりと歩き出す。
足元に血の跡が残るたび、騎士たちは無言でその背を見送った。
沈黙の中、デュランがかすれた声で言葉を落とす。
「……思い出したのか……友よ……」
その声は、かつて共に剣を交え、笑い合った青年時代の呼びかけのようだった。
グレサスの足がわずかに止まる。
昔の記憶――並び立つ二人、訓練場で交わした誓い。
「この国を、俺とデュランで守る。」
まだ若かった自分たちが笑って言った、あの約束。
グレサスは短く鼻で笑った。
「……くだらん。いいから休め。」
その声には、怒りも侮蔑もなかった。
ただ、かすかな優しさと――過去を思い出すような哀しみが滲んでいた。
月の光が差し込む。
二人の影が長く伸び、やがて訓練場の扉の向こうへと消えていく。
その背中を見送る騎士たちは、誰ひとり言葉を発さなかった。
ただ、心の奥で確かに感じていた。
――この国の“誇り”は、いま確かにこの二人の中にある、と。
屋敷の中を、レイズは落ち着かぬ様子で歩き回っていた。
手にはまだ、先ほどまで握りしめていた報告書の紙がくしゃりと握られている。
「……はぁ。上手くいってるかな……」
誰にともなく、ため息が零れた。
心臓の鼓動が速い。
戦場にいるわけでもないのに、胸の奥が妙にざわついていた。
作戦は順調なはずだった。
デュラン――その名をヴェルから聞いた瞬間から、レイズの中に一抹の不安が芽生えていた。
“デュランという男”
王国二番目の最強の騎士。
レイズの記憶――かつて自分が知っていた“ゲームの世界”の中には存在しない人物。
本来いないはずの英雄。
「……強かったんだろうな。」
ヴェルが負傷して帰ってきたとき、その一言で全てを察した。
あのヴェルですら押され、あの魔法を使い辛勝。
いまの自分ではまだ勝てない相手。
――そんな人間が、王国の側にいる。
「デュラン……頼む。
どうか、王国を……止めてくれ……」
レイズは窓辺に立ち、夜明け前の薄青い空を見上げた。
まるで祈るように、呟く。
その姿を、屋敷の面々は黙って見守っていた。
レイズの不安は伝わっている。
誰よりも仲間たちは理解していた。
彼が今、背負っているものの重さを。
静かな沈黙の中で、クリスが一歩前に出た。
「――レイズ様。」
レイズが振り向くと、クリスは微笑みを浮かべていた。
その眼差しは、まるで全てを包み込むように穏やかだ。
「安心してください。
もし王国が、どんな選択をしたとしても……次は、私が力を示します。」
その言葉に、レイズの胸の中の不安が少しだけ和らいだ。
誰よりも頼もしく、そして優しい言葉だった。
「……ありがとう、クリス。」
その声は震えていたが、確かな希望が宿っていた。
窓の外――雲間から光が差し込み始める。
夜が明ける。
クリスの言葉に、レイズは小さく微笑んだ。
だが、その笑みの奥に、誰にも見せぬ陰があった。
――わかっている。
クリスがどれほど強く、どれほど忠実で、誰よりも信頼できる存在であるか。
それはこの屋敷の全員だけでなく王国も知っている。
ゆえに、クリスが“力を示す”ことには意味がない。
それは、すでに理解されている“強さ”にすぎないからだ。
「……クリス。」
レイズは静かにその名を呼ぶ。
「お前が前に出れば、確かに王国は一瞬たじろぐ。だが同時に、対策を練る。お前をどう封じるか。」
その言葉に、クリスは息を飲む。
レイズの声音には、感情ではなく確信があった。
「俺たちが示すべきは“圧倒的な恐れ”だ。
予測も、対策もできない“異質な力”。
それを見せてこそ、王国は手を止めると思っている。そのための利も示した。」
レイズはゆっくりと椅子に腰を下ろし、
窓の外に目をやった。
まだ薄い朝の光が、庭の木々を照らしている。
「――だから、今回はヴェルだった。」
呟く声は小さく、しかし確かな重みを帯びていた。
「ヴェルの存在は、理を越えた“畏怖”そのものとなり。
デュランは、あの戦いを通して、きっと理解している。アルバードとは戦ってはならない――と。」
屋敷の空気が静まり返る。
クリスは何も言わなかった。
その代わりに、深く一礼し、静かに部屋を後にした。
夜の帳がゆっくりと降りる。
アルバードの一室、厚いカーテンに遮られた静寂の中で――ヴェルは深い眠りについていた。
しかし、その眠りは安らかなものではなかった。
夢の奥で、あの“得体の知れない力”が蠢く。
耳の奥でざらつくような囁きが響き、身体の奥を何かが這いまわるような感覚。
目を閉じても、あの光景が蘇る。
――空間が裂け、魔力が狂い、生命の輪郭が歪んだ瞬間。
ヴェルは寝汗に濡れながら、息を荒くして目を開けた。
「……はぁっ…………」
胸が痛いほど鼓動が早い。
だが、それ以上に恐ろしかったのは、
自分が――“震えている”という事実だった。
「……この震え………」
ヴェルは右手を見つめる。
獣である自身の太い指先が微かに痙攣し、魔力が流れるたびに皮膚がざわつく。
まるで、“何か別の存在”を目覚めさせてしまったのではないかと。
あの力は……自分のものではない。
確かに発動したのは自分だ。
だが、あれは明らかに“他の何か”が応えた。
まるで呼びかけに応じて現れた、異界の生物。
ヴェルは静かに呟いた。
「ラルヴァ....か」
レイズがそう名付けた、未来の魔法。
――しかし、あれは未来ではなく、禁忌だったのだ。
その名を口にした瞬間、空気がわずかに震えた気がした。
呼べば、また応えるような――そんな底知れぬ存在。
ヴェルは目を閉じ、苦い息を吐く。
「……あれは……この世界にあってはならない。」
自らの力への誇りではなく、恐怖。
その恐怖を理解しているのは、今この世界で――ヴェルと、そしてデュランだけだった。
互いに敵として戦いながら、
同じ“何か”を見てしまった魔族と王国騎士。
そして、その瞬間から――
世界は、静かに形を変える。
デュランは――決してヴェルに臆したのではなく。
あの瞬間、彼が感じたのは敗北だけではない。
肌を刺すような、理の外から迫る“存在”の気配だった。
それは魔族の魔力でも、アルバードの秘術とは関係もなく。
ましてや、王国が理解できる範疇のものではなかった。
――“何かが、目を覚ました”。
戦いの最中、デュランは確かに感じ取っていた。
空間そのものが歪み、世界の底が軋むような音。
その中心にあったのは、力でも憎悪でもなく、
ただ純粋な“恐怖そのもの”の化身だった。
あれは、この世界のいずれにも属さぬ何か。
人でも、魔族でも、神でもない。
すべてを観察し、静かに蝕む“異質の命”。
――それが誰の敵となり、
誰の味方となるのか、誰にも分からない。
だが、デュランは感じていた。
もう、始まっている。
あの瞬間から、世界は確かに何かを孕み始めているのだと。




