王国の迷い
朝の王都の門前。
まだ陽が完全に昇りきらぬうちに、リールの馬車が土煙を上げながら駆け込んできた。
見張りの騎士たちは、その異様な気配にすぐさま槍を構える。
そして荷台に積まれた王国の紋章入りの装備を見つけ、血相を変えた。
「貴様!! その荷は――!」
「……デュラン様はどうしたぁぁ!!」
怒号が響く。
その声には、仲間を想う焦りと、敵への憎しみが入り混じっていた。
リールが言葉を発するよりも早く――
馬車の荷台から、ひとりの影がゆっくりと身を起こした。
「……落ち着け……」
その低い声に、騎士たちは一斉に息をのむ。
「こいつ――リールは、何もしていない……」
デュランだった。
その姿を見た瞬間、門前にいた者たちは目を疑った。
傷ひとつない。
血も流れていない。
まるで何事もなかったかのように見える。
だが――近づいた者はすぐに悟る。
その立ち姿には、まるで“生気”がなかった。
目の奥は深い闇に沈み、息は荒く、肌は冷たく青ざめていた。
「デュラン様……?」
「……どうなされたのですか……?」
誰もが声をひそめる中、デュランはただ静かに言葉を絞り出した。
「……王に……そして、グレサスに会う。
伝えねばならぬことがある。
――リールも共に来い。話を聞く必要がある」
リールは驚きながらも、深く頷いた。
「……はい。むしろ、その方が私にとってもありがたいことです」
その声には、どこか諦めにも似た響きがあった。
もう逃げることはできない――否、逃げる理由さえなかった。
騎士たちは気絶した仲間たちを慎重に馬車から抱え出す。
その一人ひとりの顔には、恐怖と混乱の色が焼き付いたままだった。
そして、王国の空気は一変していた。
沈黙。
朝靄の中、リールとデュランを乗せた馬車はゆっくりと王城へと進んでいく。
彼らが運ぶ“報せ”が、王国全体を揺るがすことになるなど――
まだ誰も、知る由もなかった。
王城の大広間。
高くそびえる天井と、朝の光を反射する白い石の床が、異様な静けさを孕んでいた。
扉が重く開かれ、そこへ二つの影が入る。
ひとりは、王国第二位の騎士――デュラン。
もうひとりは、異国の商人リール。
「……戻りました、陛下。」
深く頭を下げるデュランの声はかすれていた。
王は玉座に腰をかけたまま、じっと彼を見つめる。
その鋭い眼差しには、威厳と同時に不安の色もある。
「デュラン――一体、何があったのだ?」
静かな言葉。
しかし、その一言に、広間の空気が一瞬で凍りついた。
デュランはわずかに顔を上げ、後ろに控えるリールの姿を示す。
王の視線がその男に向いた瞬間、空気が張り詰めた。
「……貴様か。
王国を裏切り、アルバードに通じた者は――」
その声には、明確な怒りがこもっていた。
兵たちが剣に手をかける。
リールは一歩も動かず、ただ目を伏せていた。
その時、デュランが静かに手を上げた。
「陛下――お待ちください。」
その声音に、広間が沈黙する。
「彼は敵ではありません。
……アルバードが撒いた“餌”です。」
王の眉がわずかに動く。
「餌、だと……?」
「はい。
アルバードは“彼を利用し”、我らに力の一端を見せつけた。
それが――今回の真実です。」
王は重く息を吐き、再び玉座の背にもたれた。
そして、低く命じる。
「……よかろう。
だが、詳しく聞かせてもらう。
――グレサスを呼べ。
あやつにも、同席してもらわねばなるまい。」
デュランは深く頭を下げる。
「はい、陛下。
この話は、必ず彼にも聞いてもらわねばなりません。」
そう言って、わずかに視線を落とした。
その瞳の奥には、あの戦場を思い出したかのような暗い影が宿っていた。
リールは静かに立ち尽くす。
彼の胸の中で、あの魔法――“ラルヴァ”の影が、まだ息をしているように感じられた。
そして、玉座の間に漂う沈黙は、まるで嵐の前の静寂のように重く響いていた。
重厚な扉が再び開かれた。
甲冑の金属音が、静まり返った玉座の間に響く。
「――グレサス卿、ご到着です!」
その名が告げられると同時に、空気が一変した。
堂々とした体躯、揺るぎない足取り。
一歩進むごとに、床石が鈍く鳴る。
その圧倒的な存在感に、リールは息を呑んだ。
(……これが……王国最強の騎士……)
グレサスはちらりとリールを一瞥するが、まるで虫でも見るかのように興味を失い、
ただ鼻で笑って通り過ぎた。
「陛下。お待たせしました。」
「よい。――して、話を聞こう。デュラン、すべてを話せ。」
玉座の上から王が静かに告げる。
グレサスはその隣に立ち、腕を組んで壁のように佇んでいた。
「……それで? 一体何があった。」
その声音には威圧と冷たさが滲んでいた。
デュランは短く息を吐き、わずかに苛立ちを見せる。
(……お前は、何もわかっていない……)
だが感情を押し殺し、静かに口を開いた。
「陛下。
我らはこの男――リールを拘束するため、アルバードとの境界へ向かいました。
しかし、彼には“上位魔族”が同行していました。」
王の眉がわずかに動く。
グレサスは鼻で笑い、冷ややかに言う。
「たかが上位魔族か。……お前でも苦戦するとは、らしくもないな。」
デュランの瞳に一瞬、怒りの光が宿る。
だが、すぐにそれを抑え込んだ。
「……確かに、最初は優勢でした。
私は勝てると確信していました。
だが――」
言葉が重く途切れる。
脳裏に焼き付いた光景。
歪む空気。
崩れる感覚。
「……あの魔族は傷つきながらも、まるで余裕を崩さなかった。
そして、“何か”を放ったのです。
あれは……魔法ではない。
……いや、“魔法と呼ぶには異質すぎた”。」
王の声が鋭く響く。
「異質……だと? 一体どういうことだ。」
デュランは静かに、震える右手を見下ろした。
「……それを受けた瞬間、私の魔力が――暴走しました。
制御できず、まるで別の意思を持ったように体を這い回り、
……喰われるような感覚がありました。
肉体ではない……魂が、生きたまま捕食されるような……そんな感覚です。
仲間は全員、その瞬間に倒れ……私は立っているのが精一杯でした。」
その告白に、広間が沈黙した。
誰も息を呑む音すら立てられなかった。
だが、静寂を破ったのはグレサスだった。
「……ふん。つまり、貴様がまだ弱いということだ。」
その言葉に、デュランは顔を上げる。
怒りを抑え込んだ瞳が鋭く光った。
王は静かに手を上げ、グレサスを制する。
「やめよ、グレサス。
――デュランほどの男が“恐怖”を語るなど、前例がない。
それだけで、この話の重みは十分だ。」
グレサスは無言のまま腕を組み直した。
だが、その眼にはなお“信じない”という傲慢な光があった。
デュランは深く頭を垂れ、静かに告げた。
「陛下。
アルバードは、すでに王国を滅ぼすだけの力を有しています。
――私は、戦うべきではないと考えます。」
王の表情が凍る。
その言葉は、国の誇りを折るほどの重みを持っていた。
そしてデュランは、リールへと視線を向けた。
「この男は、アルバードから“献上品”を託され、王国に送り出されたにすぎません。
敵ではありません。
彼もまた、我らと同じくアルバードの力を畏れている。」
リールは深く頭を下げた。
その胸中では、あの魔法――“ラルヴァ”の名が脈打つように響いていた。
静寂の中、王はただ一言、低く呟いた。
「……滅ぼす力を、か。」
その声には、王としての威厳ではなく――
ひとりの人間としての“恐怖”が、確かに混じっていた。
「……陛下、どうか――この商人の話をお聞きください。」
デュランの声が静かに響く。
だがその声音には、戦場で得た確信の重みがあった。
王はしばし沈黙したのち、リールを見据える。
「……よかろう。商人よ、言葉を許す。」
リールは深く頭を下げ、緊張の面持ちで口を開いた。
「発言をお許しいただき、恐れ入ります。陛下。
私はリールという商人でございます。
アルバードから“メモリアルストーン”を輸入する者です。」
王の視線が鋭く光る。
その名を聞いた瞬間、玉座の間にざわめきが走った。
リールは続ける。
「今回、私がアルバードより託されたのは――数多のメモリアルストーン。
そして、アルバードの当主、レイズ様より直々に言伝を預かっております。」
重く積まれた木箱が運び込まれ、布が外される。
中には、淡く光を放つ宝石の山。
その光は、朝日を反射して王の顔を照らした。
「……なんということだ……」
王の瞳が見開かれる。
それは、王が渇望してやまなかった“宝”――魔力の源。
リールは震える手を押さえながら、言葉を続けた。
「これらのメモリアルストーンを、どうか――
貴族ではなく、王国の民のために使っていただきたい。
その約束をいただけるなら、安価での供給を続ける。
さらに――アルバードに手を出さないと誓ってくだされば、
この石の応用技術も、惜しみなく提供する……と、私は託されました。」
「応用技術……?」
王が呟く。
リールは頷き、息を整えた。
「はい。
アルバードでは、メモリアルストーンを用いた“水が湧く装置”があります。
そして、蝋燭の代わりに“光を絶やさぬ灯り”を生み出す装置も。
すべて、この石の力の応用です。
……ですが――」
リールの声が震えた。
「これ以上を求めるのなら、
アルバードは“全面戦争”を辞さぬと……そう伝えられました。」
沈黙。
重い空気が広間を覆う。
次の瞬間、デュランが立ち上がり、声を張り上げた。
「陛下――! これは虚勢ではありません!!」
しかし、グレサスがそれを遮るように笑った。
「ははははっ! 虚勢以外の何だというのだ?
デュラン、お前……臆したか?」
「臆しただと……?」
「そうだ!
たかが上位魔族一匹に怯え、
その口で“戦うな”などと……お前はいつからそんな弱者になった!」
デュランの拳が震える。
だが、怒りではない――恐怖の記憶が蘇っていた。
「……グレサス。
お前は強い。私も認めている。
だが――あの力を受ければ、お前とて無事では済まぬ!!
あれは戦いではない。滅びだ!!」
その言葉に、グレサスの表情が一変する。
血管が浮き上がり、拳が軋む。
「……黙れ、デュラン。
お前はもう、騎士ではない。
王国の盾が、恐怖を語るとは――恥を知れ!!」
デュランの顔が険しく歪む。
玉座の間には、今にも刃を抜く気配が漂った。
だが、王が低く一喝した。
「――やめよ。」
その声は、誰よりも強く、重かった。
「グレサス、デュラン。
貴様らが争ってどうする。
……この話、軽々しくは決められぬ。」
王の瞳が、リールと宝石の山を見つめる。
その光の中に――欲望と恐怖、両方の影が揺れていた。




