禁忌の魔法
荒い息を吐きながら、デュランはリールの手を借り、なんとか馬車へと身を投じた。
身体は鉛のように重く、剣を握る力さえ残っていない。
空はすでに白み始め、夜の気配を押しのけるように朝の風が吹き抜けていた。
その冷たさが、戦場の熱を無理やり奪い去っていく。
馬車は軋みを上げながら、静かな朝の道を王都へと進む。
朝の光を受けて、荷台に積まれたメモリアルストーンが淡く光りを返した。
それを見つめながら、デュランはかすかに笑った。
それはもはや、乾いた諦めの笑みだった。
「……これではまるで、我らが捕らえられ、連行されているようだな……」
手綱を握るリールの指が、一瞬だけ震えた。
「そ、そんな……。
どのみち、私は王国へ向かうつもりでした。お気になさらず……」
言葉こそ平静を装っていたが、その声には確かな恐怖が滲んでいた。
リール自身も理解していた――あの魔法は、ただの戦術ではなかった。
理屈を越えた“恐怖”そのものだったのだ。
しばしの沈黙ののち、リールはためらいがちに口を開いた。
「……デュラン様。あれはいったい……何だったのでしょうか」
デュランはしばらく無言でいたが、やがて低く息を吐いた。
「……知らぬ。
お前が知らぬなら、私が知るはずもない……」
その目に浮かんでいたのは、怒りでも悔しさでもなく――ただ、乾いた理解だけだった。
デュランは悟っていた。
この商人は敵ではなかった。
ただ利用された。
そして自分たちは、その手のひらで踊らされていたのだと。
「……まんまと……やられたな、我らは……」
かすれた声でそう呟く。
王国最強と謳われた騎士の拳が、震えていた。
圧倒的な敗北。
だが、それは単なる敗北ではない。
王国に恐怖を刻みつける――まるで、アルバードがそれを“見せつけた”かのようだった。
それでも、デュランは知らない。
その勝利が、決してアルバードの完全な勝利ではなかったことを。
ヴェルの体を走る震えも、あの魔法に潜む“何か”の気配も――
この朝の光の下では、まだ誰の目にも映っていなかった。
戦場から戻ったヴェルは、荒れ果てた大地を踏みしめながら、ようやくアルバードの拠点へと辿り着いた。
その姿は傷に覆われ、衣も焦げ、誇り高き魔族の長とは思えぬほど疲弊していた。
レイズは彼の姿を見るなり、思わず駆け寄った。
「ヴェル……! 本当にごめん……危険な目にあったのか……」
その声には、命令者としての威厳よりも、友を想う純粋な心配がにじんでいた。
ヴェルは低く笑い、震える喉で言葉を紡いだ。
「……安心しろ。王国の――“デュラン”という騎士には、圧倒的な敗北を刻みつけてきた……」
レイズはその言葉に短く息をのみ、静かに感謝を告げた。
「……ありがとう、ヴェル。」
だがヴェルは、笑みを崩さぬままその目を細めた。
「レイズ……あの魔法はいったい何なのだ。
我は、あの騎士に受けた傷よりも――あの魔法の正体に、恐怖した。
見よ……」
そう言ってヴェルは、自らの手を差し出した。
その手はまだ、微かに震えていた。
筋肉が記憶しているのだ――あの時、何か“異質なもの”が体を這い回った感覚を。
レイズは静かに視線を落とし、ゆっくりと口を開いた。
「……具体的な仕組みは、俺にもわからない。
ただ、あれは“恐怖を植えつける”魔法だ。
相手の魔力を乱し、能力を著しく低下させる。いわば、極限のデバフのようなものだ」
ヴェルは目を細め、じっと聞いていた。
レイズは続ける。
「だが、あれは最強であると同時に――欠点もある。
相手の数が多ければ多いほど、効果は薄れる。
あれは“魔力に飢えた存在”のようなもので、獲物が増えれば満たされ、すぐに消えてしまう。
そして術者は、その代償として膨大な魔力を消耗し、しばらくはまともに戦えなくなる……」
そう語りながらも、レイズの声にはどこか迷いがあった。
自らも理解しきれていない――そんな“何か”の気配を感じ取っていたからだ。
ヴェルは黙ってその言葉を聞き、そして低く頷いた。
「……なるほど。故に切り札というわけか。
命までは奪わぬ――しかし、確実に恐怖を刻み込む。
まさに、異質な力よ……」
レイズは静かにうなずく。
「そうだ。あの勝利――いや、辛勝はアルバードだけが知っていればいい。
王国には“圧倒的に負けた”と思わせるんだ。
それが、この戦の本当の意味だ」
ヴェルはしばらく沈黙し、そして目を閉じた。
「……あの魔法は、もう使ってはならぬ。
理由はわからぬが――あれは、触れてはならぬ禁忌に近い。
レイズ、約束してくれ……あれを二度と使わせるな」
その声には、恐れとも、確信ともつかぬ重みがあった。
レイズは静かに頷き、やわらかく笑った。
「……ああ、わかってる。
誰でも使っていい魔法じゃない。
ヴェル、お前だからこそ――“あの力”は意味を持ったんだ。
だから今がある。お前が、アルバードを守ったんだよ。」
ヴェルはその言葉にわずかに安堵の笑みを浮かべ、
「……ふん……まったく……我を人間のように言うな……」
と、低く呟きながら背を預けた。
外では、朝の光が静かに差し込んでいた。
その光の下で、二人だけが知る“禁忌の魔法”の真実は、
まだ誰にも語られることはなかった。
静寂の中で、ヴェルの寝息がかすかに聞こえる。
レイズは椅子に腰を下ろし、炎のゆらめく灯を見つめていた。
戦場の記憶を反芻している。
歪んだ空間。
耳をつんざくような魔力の悲鳴。
そして、何か“形を持たぬ生き物”が、そこにいる――。
レイズは無意識に、口の中でその名を呟いた。
「……ラルヴァ(Larva)……」
その音は、まるで禁忌を呼び覚ます呪のように、部屋の空気を凍らせた。
それは魔法の名であり、同時に何かの名でもあった。
魔力の理から外れた、異質の存在。
人が生み出したはずの“術”が、あたかも生きているかのように蠢く――。
レイズだけが、その名を知っている。
「……お前は、魔法なのか……それとも、生き物なのか……」
彼の言葉に、返事などあるはずもない。
だが、ほんの一瞬。
灯の炎が揺れ、部屋の奥で何かが“息をした”ように空気が動いた。
レイズは、目を閉じて小さく息を吐く。
「ラルヴァ――。
これが、俺たちが踏み入れてしまった“禁忌”の名だ……だが俺たちを守る魔法だ」
その名を口にした瞬間、
背筋を走る冷たい感覚が、まるで“それ”に見られているように感じさせた。
そして、レイズは悟る。
この魔法は、もう完全には自分の支配下にはない。
ラルヴァは、存在している。
この世界のどこかで、確かに“生きて”いる――。




