圧勝と辛勝
リールは神経を尖らせ、周囲を厳重に警戒しながらアルバードから離れていった。
しかし、すぐに――己が狙われていることに気付く。
「……はぁ。まさか自分がまさか、王国から命を狙われるなんて……。
レイズ様、メモリアルストーンどころの話ではありませんね……」
前方に現れたのは、王国騎士デュラン。
その顔を目にした瞬間、リールの背筋に冷たいものが走った。
「こんな場所に……デュラン様....か」
理解していた。――それが何を意味するのかを。
「引き返すべきか……? ……いや、逃げられるはずもない。
申し訳ございません、レイズ様。どうやら、ここまでのようです」
ゆっくりと、確実に距離を詰めてくるデュラン一行。
「ほう……。お前、我らの目的を理解しているな。ならば話は早い。
――アルバードに組しているな?」
リールは静かに頭を下げた。
「いいえ。わたしはただ、アルバードと王国を繋ぐ商人にすぎません。名はリール」
「御託は不要だ。メモリアルストーンを仕入れ、魔力石を買い漁る。――それはアルバードの差し金だろう。ついてこい。命だけは助けてやる」
デュランがそう言い放ったその時リールの背後に視線をやる。
「……やはりいたか」
低い吐息とともに、影の中から現れたのは、ヴェルだった。
「リールとやら。レイズが心配していたゆえ、私が同行させてもらっていた」
リールは思わず喜びの表情を浮かべる。だがすぐに、戦力差を悟り声を震わせた。
「お待ちください……。あのお方は王国第二位――事実上、グレサス様同様最強とも称される騎士デュラン様。
さすがに、相手が悪すぎます。わたし一人で行きますので、どうか……お戻りください」
だがデュランは冷笑を浮かべた。
「商人風情にしては口が回る。……だがアルバードの甘さは貴様にも伝染したようだ。
ついでだ――貴様も捕えて連れ帰ろう」
魔力が盛大に迸り、デュランの体を覆う。
だが彼は理解していた。魔法だけでは魔族には通じぬ。
だからこそ、肉体を強化し、幾重もの加護を身に纏っていく。
瞬く間に、その気配は圧倒的なものへと変貌した。
誰もが、デュランの勝利を疑わなかった。
だがヴェルは笑う。
「……確かに。お前は強いな...人間の中ではな」
金色の瞳がデュランを射抜く。
「だが――弱い。我よりは、な」
「ほう……。その身で確かめるがいい!」
瞬時に間合いを詰め、無駄のない一撃がヴェルの急所を狙う。
鋭い刃が振り下ろされた。
ヴェルは魔力壁を展開し、それを受け止める。衝撃は重く、確かにダメージは残った。
「……ッチ」
しかし態度に余裕を崩さない。
爪で反撃を繰り出すも、軽やかに躱され、逆に追撃を浴びる。
デュランの剣が、止まらない。
誰もが、圧倒的な力の差を見た――そう、感じていた。
……だが。
違和感があった。
傷を負いながらも、ヴェルは怯まず、焦らず、笑みを浮かべ続けていた。
「……やはり、手加減では無理か。ならば――一端だけでも、見せてやろう」
ヴェルの手に握られるメモリアルストーンが、轟々たる魔力を吸い上げる。
凝縮された力に、デュランも思わず距離を取った。
「……来るか。どこまで耐えられる……?」
振り返りざま、配下に命じる。
「お前たち! そいつを連れて先に行け!」
だがその刹那。
空気が、歪んだ。
レイズが刻んだ魔法陣が発動する。
歪みは奔流となり、騎士たちの肉体へ――全身へと注ぎ込まれた。
「な……何が……?」
理解するより早く、騎士たちの体が震え出す。
暴走。
魔力が、己の血肉を食らうように暴れ狂う。
絡み付く魔力は肉体から力を奪い、骨を軋ませ、呼吸を奪った。
「魔力……暴走……だと……?」
デュランの額に冷や汗が流れる。
自分の魔力が――もはや自分のものではない。
暴走し、絡みつき、それはまるで抗えぬ何かに喰われるように消失していく。
「馬鹿な……! 私が……!」
振り返ったとき、すでに仲間たちは地に伏し、立ち上がることすらできなかった。
足に力が入らない。膝が折れる。
最強の騎士デュランでさえ――立てなくなっていた。
「……いったい、それはなんだ……」
膝をついたデュランが、血走った眼でヴェルを睨む。
ヴェルは口の端を吊り上げ、ゆるやかに答えた。
「ふ……言ったはずだ。我が力の一端にすぎぬと」
だがその瞳の奥では、ヴェル自身もわからぬ恐怖に身を焼かれていた。
――何だ、この魔力は。
己が放ったはずの力。だが制御も意味もつかめない。ただ暴走する“何か”が、確かにこの場を呑み込み貪るように...
恐怖を押し隠すように、ヴェルは一歩前へ進み、あえて静かな声で言葉を紡ぐ。
「殺しはせぬ....この力は……アルバードに属す者なら、誰もが扱える。
すなわち――我のみではない」
虚勢を張るかのようなその宣言に、デュランの背筋を冷たい汗が伝った。
もしそれが事実なら――この力はアルバードにいる魔族全体の“常識”ということになる。
理解を越えた恐怖が、心を握り潰すように広がっていった。
またたく間に力を喰われ、地を這うデュラン。
「はぁはぁ......こ……これは……まずい……。
……グレサスに……伝えねば……。アルバードは……すでに……王国を滅ぼすだけの力を……」
声は掠れ、意識は闇に沈もうとしていた。
だがその刹那、周囲を蝕んでいた歪みがふっと消える。
「……魔法が……切れた……? 耐え……たのか……?」
かすかな希望が胸をよぎる。
しかし――その体は、もはや“耐えきった者”のものではなかった。
全身は鉛のように重く、呼吸ひとつでさえ肺を裂かれるように苦しい。
力を込めようとしても、腕も脚も自らのものとは思えぬほど言うことを聞かない。
「はぁ…はぁ…重い……。体が……重すぎる……」
大量の汗が鎧の下を濡らし、指先からは絶え間なく震えが走る。
剣を杖のように突き立て、それに縋ることでようやく立ち上がった。
だが、その姿は無残だった。
横から小突かれただけで地に崩れ、吐きながら這いずる――そんな姿しか想像できぬ。
「……無理か……。たとえ耐えたとしても……残された力では……歩くことすら…ましてや……戦うなど……」
かつて“王国最強”と恐れられた騎士の面影は、そこにはもうなかった。
ただ敗北の余韻と、身体に刻まれた恐怖だけが残っていた。
汗に濡れ、なお必死に立とうとするデュランを見下ろしながら――
ヴェルはふっと口元を歪め、低く笑った。
「……レイズの命だ。命は...奪わぬ」
その声音には冷ややかな慈悲が滲む。
敗者を蔑むでもなく、淡々と告げるその態度こそ、圧倒的な力の差を物語っていた。
「そして――その商人を王国まで丁重に送り届けよ。
……あれが抱える荷は、レイズから王国への贈り物にすぎぬ」
誰も反論できなかった。
もはや立ち上がることもできぬデュランの前で、その言葉は絶対の裁きのように響いた。
ヴェルは一度も振り返らず、ゆっくりと背を向ける。
その巨躯が闇の中へと消えていく足音だけが、長く、重く刻まれていった。
その場に残されたのは、汗に濡れ震える王国最強の騎士と、息を呑み立ち尽くす者たち。
そして――“レイズ”という名の重さを、嫌でも刻み込まれた人間たちであった。
ある程度の距離をとり、森の静寂に包まれたアルバードの拠点へ戻ったヴェルは、
誰もいないことを確かめると、ふっと息を吐き――そのまま膝を折った。
押し殺していた震えが、全身を支配していく。
腕が、指先が、勝手に震える。
重く冷たい汗が、頬を伝った。
「……レイズ……貴様……いったい、何という魔法を……使わせたのだ……」
声は掠れ、吐息に似た呟きが夜の空気へ消えていく。
誰が見ても、魔族の勝利は明白だった。
しかし、その実情は――辛うじての“辛勝”であった。
ヴェルの中では、あの瞬間の感覚がいまだ消えない。
確かに感じた。
“何か”がいた。
あの魔法は、ただの術ではなかった。
形なき“生き物”のように蠢き、魔力の流れを食い荒らし、支配し、暴れ回っていた。
そしてそれを発動させたのは自分――だが、同時に自分ではない“何者か”でもあった。
「……あれは……何度も使うものではない……」
ヴェルは頭を抱え、深く息を吐く。
全身を貫く倦怠と痛み。
膨大な魔力を消費した身体は、今や歩くことすらやっとだった。
「無理だ……レイズよ……。あの魔法は……ただの切り札ではない。
――代償だ。確かな危険がある……」
その声には、誇り高き魔族の長に似つかわしくない、微かな恐れが滲んでいた。
夜風が吹き抜け、ヴェルの白髪を揺らす。
闇の中で、彼はただ一人、己の震えと――あの“魔法の正体”に怯えていた。




