主人公の消失
朝を迎え、レイズはいつものように木刀を振る。
鋭い風切り音が、清らかな朝の空気を切り裂いて響いた。
木刀を振りながら、彼はふと一つの思いを胸に重ねる。
――俺もいつか、皆のように恋ができるのだろうか。
それは、この世界に来てから初めて意識した感情だった。
今までは異性を意識する暇もなく、ただただ状況に追いつくのに精一杯。
必死に、ひたすらに走り続けてきた。
「……でも、落ち着く暇なんてやっぱりないんだよな。」
やれることを、やらねばならぬことを片っ端から背負い込む。
だが――それを終わらせた先に、本当に“終わり”なんてあるのか。
この世界における終わりとは何なのか。
いや、それは前の世界でも同じだった。
終わりとは、決して一つの生の中で辿り着ける境地ではないのかもしれない。
レイズはその思索を振り払うように、さらに木刀を振り続ける。
やがてその姿に気付いた者たちがぽつぽつと集まり、静かなギャラリーが生まれた。
鋭く打ち込まれる一振りに、誰もが息を呑む。
そして、ぽつりと誰かが声を上げる。
「純粋だ……」
その声をきっかけに、次々と飛び交う“純粋”の声。
かつてなら戸惑いしかなかったその呼び声が、今は胸の奥に優しく染み渡る。
――ああ、悪くないな。
レイズは小さく息をつき、再び木刀を振り上げた。
そうして一人の気配。リアノもその場に訪れる。
勇気を振り絞り、リアノはタオルを差し出した。
それは普段なら当たり前のようにしてきた行動。
けれど今日のその所作には、確かな意識とわずかな決意が宿っていた。
「……ありがとう。」
レイズは何事もないように一言告げ、タオルを受け取る。
ほんの小さなやり取り。だが、リアノにとっては胸が高鳴る瞬間だった。
もう少し近づきたい。そう思った彼女は、勇気を重ねて口を開く。
「レイズくんは、私たちを守ることでいっぱいなのはわかります。
でも……私は、未来のことよりも、いまこうして一緒にいられる時間が幸せです。」
唐突な言葉に、レイズは目を瞬かせる。
「急にどうしたんだ……」
そう心で呟きつつも、彼は小さく笑って答えた。
「ああ、そうだな。――是非もなし。」
それは、過去にも幾度か彼の口からこぼれた言葉。
なぜかこの場にしっくりと馴染み、心に染み渡っていく。
リアノは微笑みながら問いかける。
「レイズくん、その“是非もなし”って……どういう意味なんですか?」
「……どういう意味、か。」
レイズは現実世界で聞いたはずのその言葉を思い返そうとした。
だが、記憶は靄に覆われている。誰が言ったのかさえ思い出せない。
――また一つ、欠けていく。
胸の奥に微かなざわめきを覚えながらも、彼は肩をすくめて笑った。
「……わかんない。ははっ。」
その笑顔に、リアノもつられて笑みをこぼす。
だが、レイズの心の奥には確かに、失われつつある記憶の影が広がっていた。
それは――レイズの現実世界との解離。
すなわち、本来の主人公としての“自分”が欠けていくことを意味していた。
本来ならば恐怖すべきこと。
だが、その欠損はあまりにも自然で、違和感すら覚えさせないまま、静かに確実に進行していた。
レイズは知らない。
それが、現実世界にいる「自分自身」を失うことに繋がっていることを――。
◆
朝の鍛練を終え、一通りの準備を整えたレイズは、仲間に声をかける。
「――よし。出発だ。」
「はい。帰りましょう。」
リアノが明るく微笑み返す。
その言葉には、“帰る”という響きに宿る温もりがあった。
アルバード――自分たちの居場所。そう呼べる場所へ戻るのだと。
数名のダークエルフたちもまた選ばれ、レイズの計画に組み込まれることになった。
彼らの表情には、迷いよりもむしろ確かな決意が浮かんでいる。
「改めて……よろしくお願いします。」
その声には、未来を背負う覚悟が滲んでいた。
フェリルは少し寂しそうに視線を落とし、言葉を紡ぐ。
「本当なら……私も一緒に行きたいのですが……」
レイズは頷いた。
その理由を、彼は知っている。
――フェリルには、いずれ“カイルたち”との冒険が待っている。
だから今、この場を離れることはできないのだろう。
だが。
そのときレイズはまだ知らなかった。
自分が信じる“歴史”はすでに大きくずれ始めていることを。
フェリルがここを離れられない理由は――もはや別のものへと変わりつつあったのだ。




