早朝はレイズの咆哮からはじまる。
翌朝――。
窓から差し込む柔らかな朝日が、アルバード家の屋敷を静かに照らしていた。
本来ならば、鳥たちのさえずりが澄んだ空気へ溶け込み、使用人たちが慎ましく一日の支度を始める、穏やかな朝になるはずだった。
少なくとも、普段であれば。
だが、この日のアルバード家に、そんな優雅な風情は微塵も存在していなかった。
「んぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬっ!! ぬぁっしょい!!」
屋敷中へ響き渡る、謎の雄叫び。
勇ましいと呼ぶにはどこか情けなく、不気味と呼ぶには妙に必死で、聞いた者がどう受け止めればよいのか判断に困るその声の主は、もちろんレイズである。
朝日が昇り始めたばかりだというのに、レイズはすでに庭へ立ち、全身を汗で濡らしながら木刀を振り続けていた。
両手で握り締めた木刀を、震える腕で持ち上げる。
そのまま、全身の力を込めて振り下ろす。
木刀の切っ先が地面すれすれを通り過ぎ、巻き起こされた風が砂埃を舞い上げる。
そして、また持ち上げる。
「んぬぬぬぬぬぬっ!!」
振り下ろす。
「ぬぁっしょい!!」
持ち上げる。
「まだだ! まだ痩せ足りぬぅぅぅぅぅぅっ!!」
訓練場というより、もはや何かの儀式にも見える光景だった。
額から流れ落ちる汗は、頬を伝い、顎の先から地面へ滴っている。
衣服はすでに背中へ張り付き、呼吸をするたびに大きく上下する腹も、全力で動かし続けているせいか、いつも以上に激しく揺れていた。
昨夜、高熱にうなされながら異常な量の汗を流していたことを考えれば、今日は安静にしているべきなのかもしれない。
少なくとも、普通の人間であればそう判断するだろう。
しかし、当の本人はそんなことなどまるで気にしていなかった。
いや、正確には。
「昨日あれだけ汗をかいたんだから、今日も汗をかけばさらに痩せるはずだ」
などという、根拠のない理屈を本人なりに成立させてしまっていた。
そのため、レイズの中では昨夜の発汗さえも、今朝の鍛錬を休む理由ではなく、むしろ痩せるための手応えとして処理されている。
ただひたすらに木刀を振る。
ただひたすらに汗を流す。
ただひたすらに、痩せようとする。
そんなレイズの姿を、少し離れた場所から三人の人間が見守っていた。
一人はヴィル。
腕を組み、真剣な眼差しを向けながらも、その表情には隠しきれない満足が滲んでいた。
(……うむ。努力するという行為が、少しずつ板についてきたな)
かつてのレイズからは、到底考えられない姿だった。
以前のレイズであれば、朝早く起きることすら嫌がった。
自ら身体を動かすなど論外。
少しでも疲れれば不機嫌になり、誰かへ八つ当たりをし、できない理由を並べてすぐに投げ出していただろう。
木刀を握らせたところで、一度振るかどうか。
重いと分かった瞬間に放り捨て、なぜ自分がこんなことをしなければならないのかと喚き散らしていたに違いない。
だが今は違う。
誰に強制されるでもなく、朝から自ら庭へ出ている。
苦しそうに顔を歪めながらも、手を止めない。
上手く振れなくとも。
身体が思うように動かなくとも。
自分が無様な姿を晒していると分かっていても。
それでも、木刀を握り続けている。
その変化を目の当たりにするたび、ヴィルの胸には静かな喜びが広がっていった。
昨日、レイズを次代の当主へ据えると決めた。
その決断に迷いはなかった。
しかし、こうして翌朝も変わらず努力を続ける姿を見せられれば、あの判断は正しかったのだと、さらに強く確信することができる。
一方、ヴィルの隣に立つリアノは、胸元で両手を強く握り締めていた。
(レイズ様……どうか、無理だけはなさらないでください……)
その表情に浮かんでいるのは、喜びよりも強い心配だった。
昨夜のレイズは、明らかに普通ではなかった。
全身を高熱に侵され、意識も朦朧としていた。
いくら水分を取らせても汗が止まらず、寝具までも濡らしてしまうほどだった。
呼びかけても反応は鈍く、時折苦しそうに息を漏らす姿を、リアノはすぐ傍で見続けていた。
だからこそ、目の前でまた大量の汗を流している姿が、どうしても昨夜と重なって見えてしまう。
努力することは喜ばしい。
変わろうとしている姿も、心から立派だと思う。
それでも。
倒れてしまっては意味がない。
苦しそうに肩を揺らすたび、木刀を持つ腕が大きく震えるたび、リアノの表情にも不安が濃くなっていった。
そして、もう一人。
リアナはというと――。
「頑張ってくださいませー! レイズ様ー!」
満面の笑みで、両手を大きく振りながら応援していた。
「あと少しです! たぶん! きっと! 頑張れば何とかなりますー!」
何があと少しなのか?
何がどうなれば何とかなるのか?
本人にもおそらく分かってはいない。
ただ、レイズが一生懸命なら、自分も一生懸命応援しよう。
それだけの思いで、リアナは朝の静けさを完全に破壊するほどの声援を送っていた。
三人とも、同じ光景を見ている。
だが、その胸に抱いている感情はそれぞれ違う。
ヴィルは成長を喜び。
リアノは身体を案じ。
リアナは純粋に背中を押す。
そんな三人の視線を受けながら、レイズは一度大きく息を吸い、木刀を握り直した。
掌は汗で滑りそうになっている。
指先は痺れ、握力もかなり失われていた。
腕はすでに限界へ近い。
それでも。
「お、おおおおおおおおおおっ!!」
気合いと共に、右足を前へ踏み込む。
腰を落とし、肩から力を伝え、木刀を頭上へ持ち上げる。
本人としては、これまでで最も美しい一振りになるはずだった。
だが、次の瞬間。
「んひぁぁぁいっ!?」
踏み込んだ右足が、地面の僅かな窪みに引っかかった。
汗で力の入らなくなった左足も、それを支えることができない。
膝ががくりと折れる。
腰が抜ける。
持ち上げた木刀の重さに身体が完全に負け――。
「ぬ、ぬぉっ……!」
ぺたん。
レイズは、その場へ見事に尻餅をついた。
木刀も地面へ落ちる。
鈍い音が庭へ響き、舞い上がった砂埃がレイズの周囲を包み込んだ。
一瞬の沈黙。
リアナも声援を止めた。
リアノは思わず一歩を踏み出しかける。
ヴィルは腕を組んだまま、じっと様子を見ている。
だが。
誰も笑わなかった。
誰も馬鹿にしなかった。
かつてのレイズであれば、こうして転んだ姿を見た使用人たちは、表面上では何も言わなくとも、心の中で冷たい目を向けていたかもしれない。
当然だ。
他者を見下し。
横暴に振る舞い。
誰かが失敗すれば平然と嘲笑っていた。
そのような主人が無様に転べば、同情する者などほとんどいなかっただろう。
しかし今は違う。
地面へ座り込み、情けない呼吸を繰り返している姿を見ても、そこに嘲笑は生まれなかった。
レイズが遊んで転んだわけではないと、誰もが分かっている。
怠けていたわけでもない。
楽をしようとして失敗したわけでもない。
限界まで必死に続けた末に、身体がついてこなくなっただけなのだ。
レイズは地面へ両手をつき、荒い呼吸を繰り返した。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
汗が次々に落ち、乾いた土へ小さな染みを作っていく。
腕は震えている。
立ち上がろうとしても、膝に力が入らない。
それでも、レイズはゆっくりと顔を上げた。
汗に濡れた瞳には、確かな意思が宿っている。
一度転んだから終わりではない。
できなかったから諦めるわけでもない。
何度転んでも立ち上がる。
何度失敗しても、できるまで続ける。
それは、本人が意識している以上に、人の上へ立つ者として重要な資質だった。
ヴィルは、その姿を見つめながら小さく頷いた。
誇らしげに。
確信を深めるように。
リアノは目元を潤ませながら、口元へ手を当てていた。
苦しそうな姿に胸は痛む。
それでも、以前とはまるで違うレイズの姿が、どうしようもなく嬉しかった。
リアナはしばらく呆然としていたが、やがて力いっぱい拍手を送り始めた。
「すごいです、レイズ様! 今のはとても大きな一歩でした!」
「転んだだけだよ!?」
レイズが息を切らしながら叫ぶ。
「でも、立ち上がろうとなさっています!」
「まだ立ててないけどな!」
「お気持ちは立ち上がっています!」
「何だよ、その理屈!!」
相変わらず膝は笑い、身体も動かない。
そのため反論にもいまひとつ迫力がない。
三人がそれぞれの思いを抱きながら見つめる中、レイズは地面へ座ったまま歯を食いしばった。
そして、その頭の中にあったのは――。
(痩せるためにぃぃぃぃぃぃぃ!!)
ただ、それだけだった。
当主として成長しよう。
アルバード家を背負おう。
使用人たちの期待に応えよう。
そんな高尚な考えは、一切ない。
ヴィルに木刀を振れと言われたから。
振れば強くなれると言われたから。
それも、確かに理由の一つではある。
だが、根本にある思いはもっと単純だった。
これだけ重たい物を持ち上げ。
これだけ全身を使い。
これだけ大量の汗を流すのであれば。
きっと、すぐに痩せる。
それは完全なる思い込みでしかない。
だが、その思い込みが、今のレイズを動かしていた。
再びレイズは地面へ手をつく。
「ぐぬぬぬぬ……!」
腕へ力を入れ、震える膝をどうにか立てようとする。
一度では上手くいかない。
二度目も、尻が僅かに浮いただけで再び地面へ落ちた。
それでも。
三度目。
四度目。
何度も何度も挑み、ようやく片膝を立てる。
「ま、まだ……終わってないぞ……」
息も絶え絶えに呟く。
その姿を見ていたのは、ヴィルたち三人だけではなかった。
屋敷の窓。
廊下の柱。
扉の隙間。
庭へ面したさまざまな場所から、多くの使用人たちがレイズの姿を見つめていた。
昨日、ヴィルが当主を降りること。
そして次代の当主へレイズを据えることは、すでに使用人たちへ伝えられている。
当然、誰もがすぐに納得したわけではない。
あのレイズを。
かつて、使用人たちを見下し、理不尽な命令を繰り返していた少年を。
アルバード家の当主へ据える。
ヴィルの決断でなければ、到底受け入れられるものではなかった。
いや。
ヴィルの決断だからこそ、反論できなかっただけであり、心の底から賛同している者はほとんどいなかった。
不安。
疑念。
諦め。
そして、僅かな期待。
さまざまな感情が、使用人たちの胸の中で交差していた。
なぜヴィルは、突然そのような決断をしたのか。
何を見て。
何を感じ。
何を信じて、レイズへ家を託すことにしたのか。
その答えを、彼らはまだ知らない。
だが。
今、目の前で繰り広げられている光景は、その答えの一端を確かに示していた。
レイズは人目など気にしていなかった。
見られていることには気づいている。
自分がどれほど無様な姿を晒しているのかも、本人なりには分かっている。
重い木刀をまともに振ることもできず。
転び。
座り込み。
立ち上がることにすら苦戦している。
それでも、止めない。
格好悪くとも。
弱くとも。
笑われるかもしれなくとも。
そんなことよりも、木刀をもう一度振ることを選んでいる。
その姿は、一人、また一人と、使用人たちの目に焼き付いていった。
そして時間が経過するほどに、彼らは嫌でも理解することになる。
レイズが行っている鍛錬が、決して簡単なものではないことを。
重木を使った鍛錬。
それは、ただ重たい木刀を振ればよいという単純なものではなかった。
重木は、普通の木材とは比較にならないほどの密度と硬度を持つ。
僅かに持ち上げるだけでも全身の筋肉を使い、正しい姿勢を保つだけで大きく体力を奪われる。
振り上げれば腕が軋む。
振り下ろせば腰と膝へ負担がかかる。
一度、二度であれば、力任せにどうにかなる者もいるだろう。
だが、それを何度も繰り返すとなれば話は別だ。
重木を使った鍛錬が本当に厳しい理由は、単に重いからではない。
その成果を実感しにくいことにある。
今日振ったからといって、明日すぐに強くなるわけではない。
十度振ったから、剣技が目に見えて上達するわけでもない。
魔法のように、魔力量が増えたと数値で分かるわけではなく。
新たな術を習得し、明確に力を得たと実感できるわけでもない。
ただ重い。
ただ苦しい。
ただ疲れる。
その繰り返し。
目に見える成果のない鍛錬を、いつ終わるとも分からないまま続けなければならない。
だからこそ、重木の鍛錬は何よりも空しく。
何よりも孤独だった。
この世界では、魔法こそが力の主軸となっている。
魔力を磨き。
術式を学び。
属性への理解を深める。
そうすれば、攻撃力も防御力も大きく向上する。
魔力による身体強化を習得すれば、肉体を長い時間鍛えるよりも、短期間で大きな力を得ることさえできる。
それが、この世界の常識だった。
そのため、わざわざ物理的な鍛錬へ長い時間を割こうとする者は少ない。
肉体を鍛える必要がないわけではない。
しかし、魔法の修練と比べれば効率が悪い。
成果は微々たるもので。
成長を実感するまでにも長い時間が必要となる。
ましてや、重木を用いる鍛錬など。
自ら率先して選びたがる者など、ほとんどいない。
だが。
長い歴史の中で、その鍛錬を続けてきた者たちも確かに存在していた。
アルバードの血を引く者たちである。
アルバード家の先人たちは、魔法の才だけへ依存しなかった。
強大な魔力を持っていようとも。
優れた属性を授かっていようとも。
自らの身体を鍛え。
己の弱さと向き合い。
目に見えぬ成長を信じ、重木を振り続けた。
魔力を失ったとき。
魔法が通じぬ敵と相対したとき。
己の肉体だけで立ち続けなければならない状況へ追い込まれたとき。
最後に自らを支えるのは、積み上げ続けた肉体と精神である。
その考えこそが、アルバード家の根底にあるものだった。
当主となる者は皆、一度は重木を握る。
才能があろうとなかろうと。
強かろうと弱かろうと。
誰にも褒められず。
誰にも認められず。
成果さえ見えぬ孤独な鍛錬へ挑み続ける。
それができる者だけが、アルバードの名を背負う資格を得る。
だからこそ。
使用人たちは、少しずつ理解していった。
ヴィルが、なぜレイズを当主へ据えたのか。
レイズ本人に、アルバード家の誇りを継ごうなどという意識はない。
先人たちの歴史を知っているわけでもない。
血の使命に目覚めたわけでもなかった。
それでも。
木刀を握り。
何度転んでも。
何度失敗しても。
長く、長く、振り続けようとしている。
その姿は、かつて重木を握ったアルバード家の者たちと、確かに重なっていた。
血の継承。
それは、知識として受け継がれるものではないのかもしれない。
誰かに教えられたから生まれるものでもない。
苦しさの中でも立ち上がり。
意味があるかも分からない努力を。
それでも信じて続ける。
その心の奥底に宿る性質こそが、アルバードの血なのだと。
使用人たちは、目の前の少年を見つめながら理解し始めていた。
ヴィルがレイズへ見いだしたもの。
当主としての資格。
アルバード家を背負う可能性。
それは、完成された強さなどではない。
今はまだ弱く。
不格好で。
何一つ満足にできないとしても。
何度でも立ち上がろうとする、その姿だった。
レイズはようやく立ち上がる。
膝は震えている。
息も整っていない。
木刀を持つ手には、すでにほとんど力が残っていなかった。
それでも、地面へ落ちていた木刀を両手で掴む。
持ち上げようとする。
「んぬぬぬぬぬぬぬぬ……!」
少し浮く。
すぐに落ちる。
それでも、もう一度握る。
「まだだ……!」
再び持ち上げる。
ヴィルは何も言わなかった。
リアノも止めなかった。
リアナも、今度は声を出さず、祈るように両手を握っていた。
使用人たちは誰も動かない。
ただ静かに、その姿を見守っている。
レイズは知らない。
多くの者が、自分を見つめていることを。
いや。
視線が集まっていることには、薄々気づいていた。
それでも、もう気にならなかった。
無様であろうと。
弱かろうと。
格好悪かろうと。
そんなことは、今のレイズにとって些細な問題でしかない。
一番の問題は。
自分が痩せていないことである。
「絶対に……痩せてやる……!」
低く呟き、再び木刀を持ち上げる。
アルバードの誇り。
当主としての資格。
血の継承。
そんなものを、本人は何一つ意識していない。
ヴィルに言われたから。
それもある。
強くなりたいから。
その気持ちも、嘘ではない。
だが。
根本にあるのは。
これだけ重い物を振り続ければ。
これだけ汗を流せば。
きっと早く痩せられるに違いないという、完全なる思い込みだった。
「んぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬっ!!」
雄叫びと共に、木刀がゆっくりと持ち上がる。
震える腕。
沈む腰。
歪む顔。
それでも、レイズは止めない。
その姿を見つめる使用人たちの目から、疑念がすべて消えたわけではなかった。
過去の行いが、それほど簡単に許されるわけでもない。
信頼は、たった一日の努力だけで取り戻せるものではない。
だが。
少なくとも。
ヴィルが何を見たのか。
なぜ未来を託そうとしたのか。
その答えを、彼らは少しだけ理解し始めていた。
何も知らないまま。
ただ痩せることだけを願い。
情けない雄叫びを上げながら重木を振り続ける少年。
その姿は確かに。
アルバードの名を継ぐ、新たな当主の始まりそのものだった。




