レイズの世話役。
ほんの少し――だが確かに、レイズの努力は芽吹き始めていた。
使用人たちの眼差しにも、これまでにはなかった淡い期待が宿り始めている。
アルバード家に仕える者たちは、誰もが厳しい教育を受けた洗練された使用人である。主の行動について廊下で噂を交わしたり、軽々しく感情を表へ出したりする者はいない。
そのため、外から見れば彼らは常に冷静で、どこか寡黙な者たちに映るだろう。
だが、彼らとて感情を持つ人間だ。
長くこの屋敷に仕えてきたからこそ、主人の僅かな変化にも敏感だった。
以前までならば、使用人の姿など目にも入れず、言葉を掛けることさえなかった少年が、今は廊下ですれ違うたびに足を止める。
不器用ながらも挨拶をし、失敗すれば謝り、与えられた食事にも感謝を伝える。
そして毎日のように訓練場へ立ち、汗と泥にまみれながら重木刀を振るい続けていた。
その姿を目にするたび、使用人たちの中に抱かれていたレイズへの印象は、少しずつ形を変えていく。
(……当主様は、変わられた)
誰もそれを口にはしない。
それでも、胸の内で同じ言葉を抱きながら、彼らは今日も黙々と己の務めを果たしていた。
まだ信頼と呼ぶには早い。
だが、昨日まで存在しなかった期待は、確かに芽生え始めていた。
――場面は変わり。
重厚な机と、壁一面を埋める書棚に囲まれた書斎。
その一室で、ヴィルとクリスは向かい合っていた。
窓から差し込む午後の光が、二人の間に置かれた机を静かに照らしている。
「それで、クリス」
ヴィルは椅子へ深く腰掛けたまま、落ち着いた声で切り出した。
「今後、レイズのことは貴方へ任せるつもりです」
その言葉を受けても、クリスは姿勢を崩さなかった。
「承知いたしました」
短く、淀みのない返答。
ヴィルは僅かに目を細め、その表情を観察する。
「率直に聞きましょう。貴方から見て、今のレイズはどうですか」
「レイズ様が…、ですか?」
「ええ。遠慮はいりません。能力も、素質も、精神面も含めて、貴方が感じたことを教えてください」
クリスはすぐには答えなかった。
ほんの僅かに視線を落とし、訓練場で目にした光景を思い返す。
「……現時点の能力だけで判断するならば、不足しているとしか言いようがありません」
率直な言葉だった。
身体能力。
剣技。
持久力。
実戦経験は皆無。
どれを取っても、レイズは当主として自ら戦場へ立てる段階にはない。
ヴィルも反論せず、静かに続きを待った。
「ですが」
クリスは一拍置いてから続ける。
「重木刀を持ち上げようとするレイズ様の姿は、既に常人のそれを超えております」
「……ほう」
「技術が優れているという意味ではありません。肉体が完成しているという意味でもない」
クリスの瞳に、僅かな鋭さが宿る。
「諦めないという一点において、です」
ヴィルは何も答えなかった。
ただ、静かに目を細める。
クリスの脳裏には、訓練場で見たレイズの姿が鮮明に残っていた。
額から滝のような汗を流し、顔を真っ赤にしながら、地面に横たわる重木刀を必死に持ち上げようとしていた姿。
腕は震え、膝は何度も折れかけていた。
苦しさのあまり情けない声を上げながらも、周囲の目を意識して、どうにか当主としての威厳を保とうとしていた。
常人が見れば、無様と笑うかもしれない。
体格ばかりが大きく、一本の木刀すら満足に扱えない少年。
だが、クリスの目には違って映っていた。
(あれほど必死に、己の限界を越えようとする人間を、私は…あの男と自分しか知らない。)
クリス自身、幼少の頃より剣を握ってきた。
才能があると言われても、鍛錬を怠ったことはない。
何度も指の皮を裂き、血を流し、身体が動かなくなるまで剣を振るってきた。
だからこそ、理解している。
努力とは、必ず報われるものではない。
どれほど時間を費やそうとも、才能ある者に追いつけないこともある。
誰にも褒められず、成果すら見えないまま、自分だけを信じて続けなければならない日もある。
それは、どこまでも孤独な行為だった。
レイズはまだ、その厳しさの全てを知っているわけではない。
それでも、苦しさから逃げず、何度失敗しても重木刀へ手を伸ばした。
倒れても。
笑われても。
自分にはできないと決めつけず、再び立ち上がろうとしていた。
(未熟だ。知識も技術も、まだ何も足りてはいない)
だが、未熟だからこそ伸びる余地がある。
あの瞳は、目の前の苦しさだけを見てはいなかった。
その先にある、自分が望む姿を確かに見つめていた。
「見込みがあると…?」
ヴィルの問いに、クリスは迷わず答える。
「はい」
簡潔な返事だった。
だが、その一言には確かな重みがあった。
「時間は掛かるでしょう。本人が想像している以上に、厳しい道になると思われます」
「それでもですか?」
「歩みを止めなければ、レイズ様は必ず変わられます」
クリスの表情は、いつもと変わらない。
声も落ち着き払っている。
しかし、その胸の内には既に一つの決意が芽生えていた。
(私が支えよう)
レイズが道半ばで倒れぬように。
誤った方向へ進もうとした時には正し、怠けようとした時には容赦なく引き戻す。
才能が足りないのなら、身につくまで繰り返させればいい。
体力が足りないのなら、一日ずつ積み上げさせればいい。
(あの方が本当に変わろうとしているのなら、私は最後まで付き合う)
それこそが、自分へ与えられた役目なのだと、クリスは静かに受け入れていた。
ヴィルはそんなクリスを見つめ、僅かに口元を緩める。
「安心しました」
「何がでしょうか」
「貴方ならば、甘やかすことはないでしょう」
「当然です。本気で鍛えあげます。」
クリスは即答する。
「レイズ様のためにならない温情を与えるつもりはありません」
「ええ…それでいい」
ヴィルは静かに頷いた。
二人の間には、レイズという少年を一人前の当主へ育てるという、確かな共通認識が生まれつつあった。
クリスは、レイズの背負う責任を思う。
アルバード家の未来。
この屋敷で働く者たちの生活。
領地に暮らす民の命。
それらを背負おうとする覚悟が、あの必死な鍛錬を支えているのだと考えていた。
無論、それも間違いではない。
レイズの中には少しずつ、誰かを守りたいという思いが芽生え始めている。
未来を知っているからこそ、強くならなければならないという焦りもある。
だが――。
その尋常ならざる執念の、最も単純で、最も根深い部分にあるもの。
それは当主としての責任でも。
崇高な使命でもない。
(絶対に痩せてやる……!)
ただ、それだけだった。
太った身体から抜け出したい。
かっこよくなりたい。
鏡を見た時に落ち込みたくない。
できることなら周囲の者たちから、少しくらい格好いいと思われたい。
そして何より、この世界で待ち受ける未来を知っているからこそ、強くなければ生き残れないことも誰より理解している。
痩せたい。
かっこよくなりたい。
強くなりたい。
大切な者を守りたい。
あまりに俗っぽい願望と、切実な覚悟。
その全てが絡み合い、今のレイズを動かしていた。
クリスはまだ知らない。
自分が感銘を受けたあの必死な形相の半分ほどは、立派な当主になるためではなく――。
(この腹を、絶対にどうにかしてやる……!)
という、少年の極めて個人的な戦いから生まれていたことを。




