俺はレイズだった。
レイズは深く息を吐き、意を決して書簡へ足を踏み入れた。
窓辺に座るイザベルは、本を手にしているものの、その視線はページではなく、淡く光る外の空へと向けられていた。
桃色の髪が窓辺の光に透け、やわらかな輝きを帯びている。けれど、その瞳は虚ろで、力を失っていた。
とても話しかけられる状態ではない。
けれど――それでも行かなければならなかった。
「イザベル」
その名を呼ぶ声に、彼女はわずかに反応した。
長いまつ毛が影を落とし、重く顔を上げる。
視線だけが、静かにレイズへと注がれる。
「覚えてるか?」
唐突に投げかけられた言葉。
イザベルの眉がわずかに動く。
「俺がこの世界に来てさ。初めてクリスと闘ったときのこと」
レイズは苦笑を浮かべ、手のひらを見つめるようにして続けた。
「情けないくらいに、ボコボコにされたよな」
イザベルは返事をしない。
ただ、その瞳で彼を見つめ続けている。
「……あ、いや、クリスが悪いとかじゃないんだ」
苦笑まじりに言い添えながら、レイズはゆっくりと言葉を紡ぐ。
「あのときの俺は、なんでこんな場所に来たんだって思ってた。
なんでいきなり過酷な鍛錬を強いられて、惨めな思いをしなきゃならないんだって。
……正直、恨んでたんだよ」
桃色の髪がわずかに揺れる。
イザベルの指が膝の上で小さく震えた。
「なんで俺なんかを当主に据えたんだ。
ヴィルの考えは、唐突で、容赦がなくて……嫌々でしかなかった」
レイズの声はかすかに震えていた。
「だけど、俺が――どうして当主になるって決めたか」
そこで一度言葉を切り、静かにイザベルを見つめる。
「……そういえば、お前にはまだ話してなかったよな。」
「……守るためでしょ?」
イザベルは、窓の外を見たまま、どうでもよさそうに静かに答えた。
桃色の髪がわずかに揺れ、横顔は淡々としているのに、その声の奥にはどこか諦めにも似た響きがあった。
レイズはうなずいた。
「……ぁあ。守るためだ」
短く答え、けれど視線は逸らさなかった。
「でも俺が“守りたい”って初めて思ったのは……イザベルが俺の本当の話を聞いてくれて、それでも俺を“レイズ”として支えてくれたときだった」
その言葉にイザベルの肩がわずかに動く。
「……そう。でも、あなたはレイズではないでしょう?」
その言葉は、刃のようにレイズの胸に突き刺さった。
拳を強く握りしめ、レイズはかすかに震える声で答える。
「……ぁあ、イザベル。だけどおまえ、言ってたよな。
“レイズの中に、レイズを感じる”って……」
イザベルは返事をしなかった。
静かな沈黙が、二人の間に落ちる。
レイズは息を吸い、言葉を続けた。
「……でもな、ヴィルの最期のお願いは“俺に呼んでほしい”だった。
俺は、いつものように“ヴィル”って呼んだ。
だけど、その瞬間、思い出したんだ……かつてヴィルのことを、なんて呼んでいたのか」
イザベルは小さく瞬きし、ぽつりと言う。
「“おじいさま”。かつてのレイズくんなら、ね」
レイズの胸に熱いものがこみ上げる。
「そうだ……俺はあのとき、心の底から初めて“おじいさま”って呼んだ。
ヴィルは、嬉しそうに言ってくれたんだ……“そこにいたのか、レイズ”って……」
レイズの頬に、こぼれる涙が静かに伝う。
「俺は……確かに“レイズ”じゃないのかもしれない。
だけど、俺は“レイズ”なんだ。
別のなにかじゃない。
俺の中にいる“レイズ”が、俺と混ざり合って……
そして色々、思い出した。」
「……俺とおまえが、幼かったときに約束をしたことがあったろ」
レイズの声は、少し震えていた。
「“おじいさまを二人で安心させてあげようね”って……違うか……?」
その瞬間、イザベルの目から大粒の涙がこぼれた。
それは、かつて幼いレイズとイザベルが確かに交わした約束だった。
レイズは懐かしむように、けれど苦しげに続ける。
「……俺は、そのときおまえに何て言ったか覚えてる。
“僕一人で十分だ!だからイザベルは僕を守れ!!”って……」
イザベルは首を振り、声にならない声で泣きながら叫ぶ。
「やめて……もう、やめて……っ」
レイズもまた、涙をこぼしながら、拳を胸に押し当てて言った。
「……俺はレイズなんだよ。
イザベルが知っている“レイズ”なんだ……」
その言葉は、まるで時を越えて、幼い二人が交わしたあの約束を、いま再びこの場に呼び戻すようだった。
「なぁ、イザベル……」
レイズの声は震えていた。
「それだけじゃ……俺はレイズじゃないのか。
俺はレイズとして生きてちゃ、だめなのか……?
俺がヴィルを“おじいさま”って呼んだら、だめか……?
俺がおじいさまを失った悲しみも辛さも、おまえと同じくらいに理解してるって言ったら……それも、だめか……?」
イザベルはこらえきれず、号泣しながらレイズに飛びつくように抱きしめた。
「ごめん……ごめんなさい……わかってる……レイズくんは、レイズくんだよ……ごめん……だから許して……っ」
レイズも涙をこぼしながら、その小さな背中に腕を回す。
「だから……俺を支えてくれ……」
それは、心の奥からこぼれ出たレイズの本心だった。
彼は気づいていた。
自分がまるで過去のレイズと溶け合うように一つになっていることを。
それが本当の“自分”であることを。
そして、自分がどれだけヴィルを愛していたのかを——
すべて、思い出していた。
だが同時に、知らない記憶も混ざり込み、
“自分は誰なのか”という答えは、まだレイズ自身にもわからなくなっていたのだった。




