静かな晩餐。
食堂へと案内された頃には、俺の心も身体もすでにズタボロだった。朝から慣れない鍛練で身体を酷使し、その後は風呂でも散々な目に遭い、着替えでは自分の身体と服を巡って思い出したくもない大失態まで晒した。異世界へ転生した初日なのだから、本来ならもっと胸が躍るような出来事があってもいいはずなのに、今の俺に残されているのは疲労と羞恥、それから「もう今日は何も起こらないでくれ」という切実な願いだけだった。
だからこそ、食堂へ入った瞬間は少しだけ安心していた。ようやく座れる。飯を食べて、腹を満たして、少しくらいゆっくりできる。今日一日頑張った自分へのささやかな休息になるはずだと、そんなことを考えながら食卓へ目を向け――俺はその場で固まった。
「…………は?」
長い食卓の上には、マンガやアニメでしか見たことのないような巨大な骨付き肉を筆頭に、分厚く切られ香ばしく焼き上げられた肉料理が所狭しと並べられていた。表面へたっぷりとタレを塗られ、照り輝いているものもあれば、香辛料を振りかけられ、今も湯気を立ち上らせているものもある。右を見ても肉。左を見ても肉。そのさらに奥にも肉。申し訳程度に野菜らしきものが添えられている皿もあったが、もはやそれを野菜料理と呼ぶ勇気は俺にはなかった。
「…………」
一度、食卓を見る。そして自分の腹を見る。もう一度、食卓を見る。
どう考えてもおかしい。
恐る恐る席へ腰を下ろしながら、俺は傍らに立っていたリアナへ視線を向けた。
「ねぇ……一応確認したいんだけどさ。まさかとは思うけど……これ、俺が全部食べるの?」
「もちろんでございます。当主様のためにご用意したものですから」
あまりにも迷いのない即答だったため、俺は思わず聞き返した。
「……全部?」
「はい」
「……俺一人で?」
「もちろんでございます!」
リアナは満面の笑みだった。そこには悪意など欠片もなく、それどころか今日一日頑張った俺を労おうという純粋な優しさしかない。それが分かってしまうからこそ、余計に何も言えなくなる。
いや、待ってくれ。
俺は今日、何のためにあれほど身体を動かした?
重たい木刀を持ち上げ、まともに振ることさえできないまま何度も転び、それでも必死に立ち上がって汗を流した。腕も脚も限界まで使い、少しでもこの身体をどうにかしようと頑張ったのだ。
それなのに、その日の夕食として出てきたものが、消費したものを一瞬で取り返して余りあるほどの肉料理というのは、あまりにも残酷ではないだろうか。
「リアナ……俺さ、もうちょっと食事について話したいことがあるんだけど」
俺がそう切り出すと、リアナは一瞬きょとんとしたものの、すぐに優しい笑みを浮かべた。
「分かっております。当主様は今朝、本当に頑張っておられましたから。あれほど汗を流され、慣れない鍛練までなさって……きっとお身体も疲れているのでしょう。ですから厨房の者たちにもお願いして、特に精のつくものをたくさん用意していただきました」
「いや、そうじゃなくてさ。俺が言いたいのは――」
「どうぞ、私たちのことはお気になさらず、ゆっくり召し上がってください。たくさん食べて、早く元気になってくださいませ!」
「だから最後まで――」
しかし、リアナはどこか感極まったように目元を潤ませながら深々と頭を下げると、そのままくるりと背を向けて歩き始めた。
「ちょ、リアナ? まだ俺、話の途中なんだけど。おい、リアナ……?」
止まらない。
そのまま食堂を出ていく。
そして扉が静かに閉じられた。
「…………頼むから最後まで話を聞いてくれよ……」
広い食堂に残された俺の呟きへ返事をする者はいなかった。
目の前には、ただ巨大な肉の山だけが残されている。
しばらくその光景を眺めながら、俺は本気でどうするべきか考えた。正直、全部食べる必要などない。腹いっぱいになったら残せばいいだけの話だ。
だが、リアナが俺のために用意してくれたことは分かっているし、厨房の人たちだって今日一日頑張った俺のために料理してくれたのだろう。
しかも朝からあれだけ身体を動かしたせいで、非常に腹立たしいことに腹だけは猛烈に減っていた。
「……食うか」
結局、俺は諦めたようにナイフとフォークを手に取った。
目の前に置かれた巨大な骨付き肉へ恐る恐るナイフを入れると、香ばしく焼き上げられた表面へ驚くほど簡単に刃が入り、その切れ目から閉じ込められていた肉汁がじゅわっと溢れ出した。
湯気とともに焼けた脂と香辛料の匂いが鼻へ届き、それだけで朝から空っぽだった腹が正直に反応する。
「…………めちゃくちゃ美味そうじゃんかよ」
そこまで呟いてから、一切れを切り分けて口へ運んだ。
「……う、うまっ」
思わず声が漏れた。
悔しい。
めちゃくちゃ美味い。
表面にはしっかりと焼き目がついているのに、中は驚くほど柔らかく、噛んだ瞬間に肉汁が口いっぱいへ広がる。塩気と香辛料の加減もちょうどよく、脂の甘みまで感じられるほどで、空腹だった身体が「もっと食え」と訴えてくる。
「……なんでこんな美味いんだよ」
不味ければ残せた。
脂っこくて食えないとか、味付けが口に合わないとか、そういう理由が一つでもあれば「仕方ない」と諦めることができた。
なのに。
美味い。
悔しいくらい美味い。
しかも朝から身体を動かして腹が減っている。
俺はもう一切れ切り分け、口へ運んだ。やはり美味い。さらに一切れ。これも美味い。最初こそ恐る恐る食べていたはずなのに、気づけばナイフとフォークは止まらなくなり、目の前の皿から肉が少しずつ消えていった。
だが、食べ進めるほどに、俺の胸には別の感情が込み上げてきた。
今日一日のことが頭の中へ蘇る。
朝から必死に身体を動かした。重たい木刀を握り、まともに振れなくても何度も挑戦した。汗だって大量に流したし、転んでも立ち上がった。風呂でも酷い目に遭った。服でも恥ずかしい思いをした。それでも全部、この身体をどうにかするためだと思って耐えてきた。
なのに。
今。
その努力をすべて帳消しにする勢いで、俺は肉を食っている。
「…………なんでだよ」
ぽつりと呟いた瞬間、視界が僅かに滲んだ。
それでも手は止まらない。
肉を切り分け、口へ運ぶ。
美味い。
「俺……今日、めちゃくちゃ頑張ったじゃん……」
また一口食べる。
美味い。
「木刀だって……あんなクソ重たいの、必死に振ったし……」
もう一口。
やっぱり美味い。
「めちゃくちゃ汗だってかいたのに……?」
ぐすっ、と鼻をすする音が食堂へ響いた。
「……なんで最後に、こんなに食わせるんだよ……」
頬を涙が伝った。
だが、これは決して料理が不味いから流している涙ではない。むしろ逆だ。あまりにも美味い。だからこそ止められない。
泣きながら肉を切る。
口へ運ぶ。
噛む。
美味い。
また泣く。
「ぐすっ……うまい……」
あまりにも理不尽だった。
俺は痩せたい。
目の前の肉は美味い。
腹も減っている。
しかも、俺のために作ってくれた料理である。
この四つが同時に成立してしまった結果、俺は泣きながら肉を食べ続けるという、自分でも意味の分からない状況へ追い込まれていた。
「なんで……こんなに……うまいんだ……くそ……」
涙で視界を滲ませながら、それでも食べ続けた。一皿が空になり、その隣の皿へ手を伸ばす。さすがに途中から腹も膨れてきたが、料理を残すことへの罪悪感と、せっかく自分のために作ってくれたという思いが邪魔をして、なかなか手を止めることができない。
そもそも、誰かに強制されているわけではない。
リアナはもういない。
残したところで、怒られるとも言われていない。
それでも。
「……せっかく作ってくれたしなぁ……」
そんなことを呟きながら、また肉を口へ運ぶ。
そして美味い。
また少し泣く。
そんな意味の分からない戦いを続けること、しばらく。
ついに最後の一切れだけが皿へ残った。
「…………」
俺はその肉をじっと見つめた。
もう腹はいっぱいだった。
これ以上食べる必要なんてない。
残したっていい。
誰も怒らない。
分かっている、分かっているのだが。
ここまで食べた、あと一切れ。
そして何より。
美味い。
「…………くそぉ」
震えるフォークを最後の一切れへ突き刺し、ゆっくりと口へ運ぶ。
噛む。
そして。
「…………うまい」
最後まで美味かった。
それが何よりも悔しかった。
ゆっくりと飲み込み、ナイフとフォークを置く。
目の前には、綺麗に空になった皿がずらりと並んでいた。
朝からあれほど身体を動かした。
大量の汗を流した。
痩せるために頑張った。
俺は。
大量の肉を、綺麗さっぱり平らげた。
しばらく空になった皿を眺めたあと、俺は力尽きたようにテーブルへ突っ伏した。腹は苦しいほどいっぱいで、泣きすぎたせいで目まで痛い。肉体的にも精神的にも、食堂へ来る前よりさらに疲れている気がする。
「…………これで」
掠れた声が漏れた。
「これで……どうやって痩せろっていうんだよ……」
今日一日の努力がすべて無駄になったような気がして、レイズは心の底からそう呟いた。
だが――。
そもそもの話。
誰もレイズに、痩せろとは一言も言っていなかった。




