本物の執事長 セバス
訓練場。
乾いた風が吹き抜ける。
朝日に照らされた地面には、幾度となく踏み締められた足跡が残り、その中心で一人の少年が必死に木刀を振り続けていた。
「んぬぬぬぬぬぬぬぅぅぅぅぅ!!!」
木刀が空を切る。
腕は震え、肩は悲鳴を上げ、全身から噴き出した汗が地面へと次々に落ちていく。
息は乱れ、顔は真っ赤だった。
普通なら、とっくに木刀を放り投げてもおかしくない。
それほどまでに重い。
レイズが握っている木刀は、ただの木刀ではない。
ヴィルが特別に用意した重木。
密度も硬度も桁違い。
しかも、その重量はレイズ自身の体重とほぼ同じだった。
子供が扱えるような代物ではない。
それでも。
「ぬおおおおおおおおおおっ!!」
レイズは歯を食いしばる。
腕が震えても。
肩が焼けるように痛んでも。
腰が沈み、膝が笑っても。
決して木刀を手放そうとはしなかった。
何度も。
何度も。
何度も。
ただ前だけを見て振り続ける。
その姿を、少し離れた柱の陰から一人の若いメイドが見つめていた。
胸元で両手を強く握り締める。
(レイズ様……。)
信じられなかった。
あのレイズが。
努力など誰よりも嫌った。
今では誰にも見られていない場所で、自ら限界へ挑み続けている。
誰かに褒められたいわけではない。
誰かへ見せつけたいわけでもない。
ただ、自分自身を変えるためだけに。
その姿があまりにも痛々しく、あまりにも真っ直ぐだった。
汗が頬を伝う。
息を吸うたび肩が大きく上下し、喉から漏れる声は雄叫びというより悲鳴に近い。
「ぐっ……!」
木刀が傾く。
今にも落としてしまいそうになる。
それでもレイズは両手へ力を込め、再び持ち上げた。
「まだだ……。」
誰に聞かせるでもない。
自分自身へ言い聞かせるように呟く。
「まだ……終われない……!」
その瞬間だった。
ふとレイズが顔を上げる。
柱の陰にいたメイドと目が合った。
「……あ。」
「あっ……!」
メイドは肩を震わせた。
見られてしまった。
そう思った瞬間、顔を真っ赤にしながら深く頭を下げる。
「も、申し訳ありません…」
慌てて踵を返し、小走りでその場を去っていく。
レイズは困ったように苦笑した。
「……見られたかぁ。それにしてもあの娘は……?」
恥ずかしかった。
あんな情けない声を上げながら必死になっている姿を。
だが、その恥ずかしさよりも。
「あと一本だけ……。」
その思いの方が強かった。
再び木刀を握る。
震える腕。
悲鳴を上げる筋肉。
限界など、とっくに越えている。
それでも振る。
ただ、ひたすらに。
その光景を少し離れた場所から、静かに見届けていた人物がいた。
ヴィルだった。
無言。
ただ静かにレイズを見つめている。
その瞳には、いつもの厳しさはない。
あるのは長い年月を生きてきた老人だけが浮かべる、穏やかな眼差しだった。
(そうか……。)
胸の奥で、小さく呟く。
(……そこまで変わるか。)
能力だけを見れば、まだまだ未熟。
剣技も未完成。
魔法も知らない。
知識も経験も足りない。
だが、それらはいくらでも身につけられる。
教えればいい。
鍛えればいい。
時間が解決してくれる。
しかし。
努力する覚悟だけは違う。
それは教えられるものではない。
本人が、自ら掴み取るしかない資質。
ヴィルは過去を思い出す。
幼い頃からレイズを見続けてきた。
何度も叱った。
何度も諭した。
何度も期待した。
だが、その想いは届かなかった。
怠惰。
傲慢。
そしてとある一件から……
他人を見下し、自らを磨こうともしない。
その姿を見続けたからこそ、一度は諦めた。
「この子にはもう……当主の器はない。」
そう判断した。
だから自ら当主であり続けた。
この家を支えてきた。だが今。
目の前にいる少年は違う。
汗だくになり。
情けない声を上げ。
腕を震わせ。
それでも木刀だけは離さない。
その姿は決して美しくはない。
むしろ格好悪い。
だが、その格好悪さこそが美しかった。
誰よりも泥臭く。
誰よりも必死で。
誰よりも未来を掴もうとしている。
ヴィルは静かに目を閉じる。
(……十分です。)
その一言だけで、すべてが決まった。
当主に必要なのは、今この瞬間の強さではない。
未来へ進み続ける覚悟。
人を守ろうとする意思。
そして、自らを変えられる強さ。
その三つを持つ者ならば。
必ず人の上に立てる。
ヴィルは静かに踵を返した。
もう迷いはない。
屋敷へ戻る足取りは、驚くほど軽かった。
◇
屋敷。
長い廊下を歩くヴィルの表情は、隠しきれないほど柔らかかった。
使用人たちは思わず目を見開く。
「……あれは。」
「ヴィル様が……笑っておられる……?」
「何年ぶりでしょう……。」
誰もが小声で囁き合う。
普段のヴィルは厳格そのもの。
感情を表へ出すことなど滅多になかった。
だからこそ、その変化は屋敷中を驚かせた。
そこへリアナが慌てて駆け寄ってくる。
「ヴィル様! レイズ様は……!?」
ヴィルは穏やかに片手を上げた。
「放っておきなさい。」
その声には絶対の信頼が宿っていた。
「今は誰も邪魔をしてはいけません。」
リアナは一瞬だけ驚いたが、すぐに深く頭を下げる。
「……はい!」
ヴィルは続ける。
「それと、今日の夕餉は豪勢にしてください。」
「えっ?」
「彼は今日、大きな一歩を踏み出しました。」
その言葉だけを残し、再び歩き始める。
「……セバス。」
廊下の奥に控えていた一人の男が静かに前へ出た。
「ハッ。」
白髪をきっちり整えた老執事。
長年アルバード家を支え続けてきた、本物の執事長。
その男は一礼すると、ヴィルの後ろへ控えた。
二人だけの足音が静かな廊下へ響く。
やがてヴィルは立ち止まり、背を向けたまま静かに口を開いた。
「……セバス。」
「ハッ。」
「私は当主を降りる。」
その一言だけで空気が変わる。
しかしセバスは取り乱さない。
ただ静かに耳を傾けていた。
「次代の当主はレイズだ。」
「……。」
「そして私は執事長となる。お前は私を補佐しろ。」
あまりにも突然の決断。
普通なら理由を尋ねる。
止めようとする。
だが、セバスは違った。
「……承知いたしました。」
その一言だけだった。
理由など聞く必要はない。
ヴィルという男を、誰よりも長く見続けてきた。
だからこそ分かる。
この男は感情だけで決断する人物ではない。
何度も考え。
何度も見極め。
最後に下した決断だけを口にする。
だから、その言葉には迷いがない。
ヴィルはふっと笑う。
「久しぶりだな……。」
「……はい。」
「こんなにも胸が躍るのは……」
レイズ本人が変わったのか。
それとも別人なのか。
その答えは、もうどうでもよかった。
あの少年は、自ら未来を切り開こうとしていた。
その姿が、長い年月止まっていたヴィルの時間を再び動かしたのだ。
隣を歩くセバスは、その横顔を見てすべてを悟る。
具体的な出来事は知らない。
だが、それで十分だった。
この笑顔こそが、ヴィルの決断のすべてを物語っている。
セバスは深く一礼した。
「ヴィル様……私は、その決断を誇りに思います。」
その頃。
訓練場では何も知らない少年が、汗だくになりながら木刀を振り続けていた。
自分が――アルバード家の新たな当主になることなど、知る由もなく。




