ガルシア達の会話。
場面は切り替わる。
そこは、アルバード領から遠く離れた場所にある、重厚な造りの一室だった。
分厚い石壁に囲まれた室内には、華美な装飾こそ少ないものの、置かれている家具の一つ一つが明らかに上等な品であることを物語っていた。深い色合いの長机。革張りの椅子。壁へ掛けられた王国の地図。そして、その地図の一角には、アルバード領を示す印が付けられている。
窓の外では、低く雷鳴が鳴っていた。
まだ雨は降っていない。
だが、分厚い雲に覆われた空は薄暗く、今にも嵐が始まりそうな気配を漂わせている。
まるで、これからこの部屋で交わされる会話そのものを暗示しているかのようだった。
室内には三人の男がいた。
ガルシア。
グレサス。
そして、レオナルディオ。
三人の間に流れる空気は、決して穏やかなものではなかった。
最初に沈黙を破ったのは、ガルシアだった。
「いったい……何を考えているのですか、義父上は………!」
怒りを押し殺した声が、重たい室内へ響く。
机に置かれたガルシアの拳は、僅かに震えていた。
「あのレイズを当主に据えるなど、正気とは思えません! あの出来損ないにアルバードを任せるなど……義父上は、本気であの者が領地を守れるとお考えなのですか!」
口調こそ義父へ向けた敬意を残している。
だが、その声音には明確な苛立ちと焦りが滲んでいた。
ガルシアが案じているもの。
それは、アルバード領の未来だけではない。
むしろ彼の胸を最も強く締め付けていたのは、自らの娘――イザベルの行く末だった。
レイズが次期当主となれば、イザベルはその側に置かれる。
相談役という名目で。
あるいは、アルバードを支える者として。
もしアルバードが王国と対立すれば、彼女もまた無関係ではいられない。
親として、それだけは避けたかった。
そんなガルシアの焦燥を横目に、グレサスは椅子へ深く背を預けたまま、静かに口を開いた。
「なぜだ、と問われてもな……」
腕を組み、僅かに瞼を伏せる。
「あの少年を当主に据えることが、王国の理に適っているとは、俺も思ってはいない。」
「ならば――!」
「だが」
ガルシアの言葉を遮るように、グレサスが続ける。
そして、口元を僅かに歪めた。
「面白い」
その一言に、ガルシアは眉を寄せた。
「……面白い?」
「ああ」
グレサスは、アルバード領を示す地図の印へ視線を向ける。
「レイズという少年が、どこまで成長するのか。それだけは見てみたいと思っている。曲がりなりにもやつもアルバードの血を継ぐ。」
その声に、情はなかった。
助けたいわけではない。
守りたいわけでもない。
剣聖として長い年月を生き、数え切れぬほどの強者と相対してきたグレサスが抱いているのは、純粋な興味だった。
弱者と呼ばれた少年が、どこまで這い上がるのか。
どこで限界を迎え、どのように折れるのか。
あるいは、誰もが予想し得ない場所まで到達するのか。
それを見極めたい。
強者が、自らの前へ現れた未知の存在を値踏みするような視線だった。
「グレサス様……これは見世物ではありません……」
ガルシアが低く告げる。
「イザベルの未来がかかっているのです」
「ぁあ、わかっているさ。」
「いいえ。わかっているものですか!」
苛立ちを隠そうともせず、ガルシアは言い放った。
「レイズが当主となれば、アルバードは王国からさらに距離を置くことになる。あの少年は何を考えているのかわからない。これまでと同じように、好き勝手に振る舞えば――」
「同じ、か?」
不意にグレサスが呟く。
ガルシアの言葉が止まる。
「レイバード………お前は、本当に今のレイズを以前と同じだと思っているのか?」
「……何を」
「いや。いい」
グレサスはそれ以上追及せず、小さく鼻を鳴らした。
そのやり取りを眺めていたレオナルディオが、静かに煙草を持ち上げる。
先端で赤く燻っていた灰が長く伸び、やがて灰皿へ落ちた。
「まあ、落ち着いてください」
口調は穏やかだった。
しかし、その声には人を安心させる温度がない。
「ガルシア殿の懸念は、もっともです」
ゆっくりと煙を吐き出しながら、レオナルディオは続ける。
「私の予想を申し上げるのであれば――アルバードは滅びるでしょう」
あまりにも静かな口調だった。
まるで、明日の天候でも語るかのように。
だが、その内容は冷酷そのものだった。
「アルバードは内側から自滅する。王国との関係は悪化し、魔族からも目を付けられ、周囲の領地から孤立していく」
レオナルディオの指が、机上に広げられた地図をなぞる。
王都からアルバードへ。
そして、アルバードから周辺の領地へ。
一本ずつ、見えない線を切り離していくように。
「支援は更に届かなくなる。交易は細る。魔石の流通も出来なくなる。戦力を維持できなくなった領地に、長く耐え続ける力はありません」
そして、ちらりとガルシアを見る。
「当然、イザベル嬢も危うい立場になるでしょう。」
その名を出された瞬間、ガルシアの表情が変わった。
「レイズの側にいるというだけで、王国へ背く者と見なされる可能性がある。アルバードが滅びれば、その責任を問われることもあるでしょう」
ガルシアの拳が、さらに強く握り締められる。
「貴様……」
椅子が床を擦る音が鳴った。
ガルシアは勢いよく立ち上がる。
「貴様は、娘を見殺しにするつもりか!」
怒声が室内を揺らした。
窓の外で鳴った雷鳴と重なり、空気が一瞬震える。
だが、レオナルディオは動じなかった。
煙草を灰皿へ押し付け、火を消す。
「見殺し?」
小さく笑った。
「違いますよ?」
椅子へ背を預け、ガルシアを見上げる。
「私は計算しているだけです」
その瞳には、一切の感情が見えなかった。
「大きな流れを作り、必要な駒を必要な場所へ動かす。それが政治です」
「人を駒だと――!?」
「駒でしょう?」
レオナルディオは、あまりにも当然のように言い切った。
「私も。あなたも。王国に生きる者は、誰もが何かしらの役割を持つ駒です。違うのは、動かす側に立つか、動かされる側に立つか。それだけのこと。」
再び窓の外で雷鳴が響く。
「アルバードが弱れば、王国は利益を得る」
レオナルディオは淡々と語る。
「現在のアルバードは、あまりにも独立性が強い。魔石を始めとした資源を抱え、独自の軍事力を持ち、王国の意向を受け入れようとしない」
指先で、地図に記されたアルバード領を軽く叩く。
「このまま力を付ければ、いずれ王国にとって脅威となる」
「だから、潰すというのか」
ガルシアの問いに、レオナルディオは首を横へ振った。
「潰す必要は……そもそもです。」
薄い笑みを浮かべる。
「もともとアルバードは王国の一部でしかありません。ならば……従わせればよいのです」
その言葉に、ガルシアは息を呑む。
「アルバードが弱れば、魔石の流通は王国の管理下へ置ける。交易路も再編できる。周辺領地との均衡も変わる。戦とは、いつだって感情から始まるように見えて、その実、合理の積み重ねです」
「イザベルまで、その合理の中へ組み込むつもりか」
「全ては……彼女を救うためです」
あまりにも自然に返された言葉に、ガルシアは一瞬、返事を失った。
そのときだった。
「だが、忘れるな」
グレサスの静かな声が、二人の会話へ割って入る。
大声ではない。
それでも、その一言だけで室内の空気が張り詰めた。
グレサスは腕を組んだまま、ゆっくりと目を開く。
「レイズという少年も、ただの駒ではなくなるだろう。」
その眼差しは鋭かった。
「それに――ウラトス」
その名が口にされた瞬間、ガルシアが顔を上げた。
レオナルディオの瞳も、僅かに細められる。
「あの男は、忠誠を誓う相手を間違えている。」
グレサスの声には、僅かな苛立ちが混じっていた。
「本来であれば、王国のために振るわれるべき力だ。我がグレイオンの血を持つ男……一領地の、それも先の見えぬ少年へ仕える。」
「ウラトスがいる限り、正面からアルバードを崩すのは容易とはいえない。」
ガルシアも同意するように呟いた。
しかしレオナルディオは、少し考え込むように指先で机を叩いた後、穏やかな表情を崩さなかった。
「確かに、面倒な存在ではありますね」
「面倒で済む相手ではない」
グレサスが即座に返す。
「あの男一人でも、戦局は変わる」
「承知しています。」
レオナルディオは頷いた。
「だからこそ、正面から戦う必要はない」
机の上の駒を一つ摘まみ上げる。
それは、アルバードを示す小さな黒い駒だった。
「まず、内部の均衡を崩す」
その駒の周囲に置かれた別の駒を、一つずつ遠ざけていく。
「当主と従者。領主と領民。後継者と相談役。互いの信頼を失わせれば、どれほど優れた戦力を抱えていようと、組織は内側から腐る」
黒い駒を、指先で軽く倒す。
「その後に、外側から圧力をかける」
王国を示す大きな駒を、倒れた黒い駒へ近付ける。
「交易を止める。周囲の領主へ働きかける。王国に逆らう危険な領地だという印象を広める。孤立させ、疲弊させ、選択肢を奪う」
口元へ薄い笑みが浮かぶ。
「順序の問題ですよ」
そして、グレサスへ視線を向ける。
「最終的には、貴殿の剣だけでも十分な脅威となるでしょう」
「俺を使うか?」
「使う、などと………」
レオナルディオは肩をすくめた。
「王国のために、ご協力いただく。それだけですよ。」
「言葉を変えたところで同じことだろう?」
グレサスは不愉快そうに鼻を鳴らす。
だが、明確に拒絶することもしなかった。
レオナルディオはそれを見逃さない。
「必要であれば、我々も直接動きます」
声を僅かに低くする。
「アルバードは、王国なくして生き残れない。その事実を理解させるために」
再び、室内へ沈黙が落ちる。
やがてガルシアは、力なく椅子へ腰を下ろした。
先ほどまでの怒りは消えていない。
だが、それ以上に、父親としての不安が彼の肩へ重くのしかかっていた。
「私は……」
掠れた声が漏れる。
「私は、娘さえ助かれば……それでいい」
グレサスが、僅かに眉を動かす。
「イザベルだけは、アルバードと王国の争いへ巻き込まないでくれ」
ガルシアの視線は、机へ落ちていた。
「娘は、何も知らない。アルバードを守ろうとし、レイズを支えようとしているだけだ。それだけなのに、あの子まで責任を問われるなど……」
「だからこそですよ。」
レオナルディオが、優しく諭すような口調で答えた。
その声だけを聞けば、本当にイザベルを案じているようにも思えた。
「アルバードは、イザベル嬢へ継がせるべきなのです」
ガルシアがゆっくりと顔を上げる。
「イザベルに……」
「ええ」
レオナルディオは頷いた。
「レイズには、当主としての力も、人望も、王国との繋がりもない。ですが、イザベル嬢にはあなたがいる。そして、王国との関係を修復する意思も持たせられる」
「持たせる……?」
「説得するのです」
何でもないことのように言う。
「アルバードを守るためには、必ず王国と手を結ばなければならないと」
レオナルディオは、ガルシアへ真っ直ぐ視線を向ける。
「あなたが、父親として説得するのです」
「……私が」
「ええ。イザベル嬢は聡明な方だ。アルバードを守るために必要だと理解すれば、必ず受け入れるでしょう」
僅かに身を乗り出す。
「そのときは、私も必ず協力します」
「何を、協力するというのだ」
「王国との仲介を」
迷うことなく答える。
「イザベル嬢がアルバードの当主となり、王国へ忠誠を示すのであれば、領地を存続させることは可能です。魔石の権益についても、一定の譲歩は必要となるでしょうが、全てを奪われるよりはよいではありませんか、」
ガルシアは俯いた。
胸の中で、疑念が渦巻く。
本当に、この男を信じてよいのか。
レオナルディオが娘を救おうとしているのか。
それとも、イザベルを利用してアルバードを手に入れようとしているだけなのか。
考えれば考えるほど、疑わしい。
信じるに値する人物ではない。
それでも。
(……だが、信じるしかない)
ガルシアの中では、すでにアルバードの未来は行き止まりへ達していた。
王国との関係は悪化している。
周囲からも孤立しつつある。
魔族との関わりまで増えている。
次期当主となるレイズは、かつて出来損ないと呼ばれ、領民からも従者からも見放された少年だ。
ウラトスがいたとしても、それだけで全てを覆せるとは思えない。
個人の武力だけで、領地は守れない。
政治も。
経済も。
民の心も。
失われた信頼も。
一人の強者だけでは補えない。
(アルバードは、どう考えても詰んでいる)
ガルシアには、そうとしか見えなかった。
あまりにも明確に、破滅への形が整っている。
ならば、娘だけでも救う。
たとえアルバードを王国へ差し出すことになったとしても。
たとえレイズを当主の座から引きずり下ろすことになったとしても。
イザベルが生き残れるのであれば。
それが父として選ぶべき道なのだと、そう言い聞かせるしかなかった。
しかし。
この場にいる三人は、誰一人として知らなかった。
今のアルバードが、レイズによってどれほど強固な土台を築き上げているのかを。
レオナルディオは確信していた。
本来、次期当主になるはずだったレイズは、すでに壊れた存在なのだと。
周囲から否定され。
出来損ないと蔑まれ。
家族からも、従者からも、領民からも見放されている。
心を折られ。
立場を失い。
二度と表舞台へ立つことのできない存在になったのだと。
そう信じて疑わなかった。
レイズという少年には、誰もついていかない。
命令を下しても、従う者はいない。
当主を名乗ったところで、誰も心から認めることはない。
だからこそ、アルバードは内側から崩れる。
当主と従者は争い。
領民は失望し。
イザベルはレイズを見限り。
最後には誰もが、王国へ助けを求める。
そう計算していた。
だが。
その計算は、根本から間違っていた。
完全に壊したはずの少年は、立ち上がっていた。
ただ立ち上がっただけではない。
以前よりも、遥かに強く。
過去の過ちから逃げることなく。
自らの弱さを認め。
傷付きながらも、一歩ずつ前へ進んでいた。
レイズは、従者たちへ命令するだけの当主ではなくなっていた。
彼らの声を聞き。
自ら頭を下げ。
過ちを認め。
守ると約束し。
そして、その約束を行動で示していた。
その姿を見て、少しずつ人々の心は変わった。
最初は疑っていた者も。
嫌っていた者も。
見限っていた者も。
レイズの不器用な努力を目にするうちに、もう一度だけ信じてみようと思い始めていた。
従者たちは、レイズへ忠誠を誓わされているのではない。
自らの意思で、彼の側へ立つことを選び始めている。
領民たちもまた、ただ支配される存在ではなくなっていた。
レイズが守ろうとしているものを理解し。
レイズと共に、アルバードを支えようとし始めていた。
もはやレイズは、簡単に壊せる存在ではない。
レイズ一人の心を折れば、全てが終わる段階など、とうの昔に過ぎ去っている。
仮にレイズが倒れたとしても。
その意思を継ぐ者たちがいる。
支える者たちがいる。
守ろうとする者たちがいる。
ヴィルがいる。
セバスがいる。
クリスがいる。
リアナがいる。
リアノがいる。
そして、イザベルもいる。
それぞれが違う理由を持ちながらも、レイズを中心として繋がり始めていた。
気付けばアルバードは、一人の少年へ全てを依存する脆い領地ではなくなっていた。
レイズという少年が示した意思を中心として。
人と人が支え合う、強固な共同体へと変貌しつつあった。
それは、力だけでは壊せない。
脅しだけでも崩せない。
内部へ亀裂を作ろうとしても、互いを信じる者たちが、その亀裂を塞いでしまう。
レオナルディオが最も得意とするはずの、人の疑念を利用した策略。
その策略が通じないほどに、アルバードの人々は互いの心を知り始めていた。
しかし、レオナルディオは知らない。
グレサスも知らない。
そして、ガルシアも知らない。
彼らの知るアルバードは、過去の姿だ。
出来損ないの後継者が座り。
互いに不信を抱き。
誰もが自らの利益だけを守ろうとしていた。
脆く。
弱く。
僅かな衝撃だけでも崩れ落ちる、かつてのアルバード。
だが、今は違う。
彼らが盤上の駒として眺めている間にも。
その領地は。
その人々は。
そして、レイズという少年は。
彼らの予想を遥かに超える場所へと、静かに歩み始めていたのである。




