甘すぎる森
夜明け、ミレアは自分から短弓を差し出した。
「持ってて」
素直すぎて、受け取る手が止まった。
「熱でも出たか」
「失礼だね」
「昨日までのお前なら、左足で弦を引く方法を考えてた」
「考えたよ」
「考えたのか」
「やめたから渡してる」
褒めるべきなのだろう。
基準が低すぎて、褒め方が分からない。
左肩の腫れは、昨夜から増えていなかった。
指先の痺れも、傷の変色もない。
ミレアは左腕を外套の内側で身体へ寄せ、留め具を右手だけで締めている。
包帯からは、新しく塗った薬草の苦い匂いが立っていた。
その下に、寝不足の身体を火のそばで温め直したあとの、布と温かな皮膚の匂いが薄く残っている。
「肩は」
「歩ける。短い距離なら走れる。弓は引けない。昨日より悪くない」
「頭は」
「小屋の中なら平気――は、禁止だった」
ミレアが言い直す。
「甘い匂いがなければ、方向も距離も取れる」
「採用」
「カイルは?」
「今は痛まない。甘さが濃くなったら先に言う」
「それも採用」
短弓を試料鞄の脇へ固定する。
俺たちは昨夜決めた条件を、朝になっても撤回しなかった。
◇
小屋を出て、朝霧が薄くなるころ。
俺たちは開拓村の北放牧地へ着いた。
雨上がりの柵には、湿った木と家畜の毛の匂いが残っている。
北端の杭だけ、表面が低い位置で削れていた。
泥には細い前足の跡。
柵の割れ目には、白く縮れた毛。
俺は昨夜封じた繊維を硝子板の端へ置き、柵から採った毛を反対側へ並べた。
太さ。
縮れ方。
乾いた藁を吸った匂い。
よく似ている。
「同じ家畜の毛かもしれない。少なくとも、同じような場所で飼われたものだ」
「山猫はここまで来た」
「その可能性は高い」
「まだ丸じゃない?」
「足跡の向きを見てからだ」
ミレアが杭の外側へしゃがみ、靴先で落ち葉を一枚返した。
泥に残った前足の指先は、そろって北東を向いている。
柵の内側には、対応する跡がない。
針尾山猫は村へ踏み込んでいない。
柵へ身体を擦ったあと、そのまま森へ戻っている。
そして帰路にも、雨を弾く甘い印が続いていた。
針へ付いた順番とも合う。
先に甘い油膜。
そのあと、放牧地の白い毛。
「丸をつける。山猫は甘いものを付けた状態で北柵まで来て、また森側へ移動した」
「往復させられてる?」
「経路は往復してる。させられたかどうかは、まだ保留だ」
「そこは変わらないね」
「変えない方がいいところもある」
ミレアが笑い、北東へ顔を向けた。
「道は追える。でも、鼻だけでは追わない」
昨日までなら、後半は言わなかったはずだ。
「それでいこう」
◇
甘い印は、森へ入るほど増えていった。
低い根。
岩の角。
枝分かれした若木。
ミレアが足跡と折れた草から方向を拾い、俺は甘い印のない枝も対照として採る。
匂いが濃い場所ほど、信用しない。
昨日の代償は高すぎた。
忘れるよりはましだ。
昼を過ぎたころ、森が浅い窪地へ開けた。
中央へ陽が落ち、白い小花が一面に咲いている。
その周囲だけ、地面が輪を描くように踏み荒らされていた。
葉耳兎。
角鼠。
樹皮鹿。
岩鎧熊。
それから、針尾山猫。
食べるものも、鼻の高さも違う五種が、同じ場所へ来ている。
そして――甘い。
花と熟れた果実を一緒に潰し、甘いところだけを油で葉へ貼りつけたような匂いが、窪地全体にこもっていた。
ミレアが鼻と口へ布を当てる。
「花が原因に見える」
「見えすぎるな」
これだけ甘いのに、蜂がほとんどいない。
俺は足跡の外側から花を一株採った。
花弁を分ける。
茎を折る。
根の土を落とす。
出てくるのは、刈った草と湿った土の匂いだけだった。
日向。
木陰。
踏み跡の内側。
三か所とも同じだ。
「花は普通」
「じゃあ餌?」
窪地の中心を調べる。
岩鎧熊が土を掘った跡。
角鼠が種を探った小穴。
鹿が葉を噛み切った跡。
だが、五種が同じものを食べた形跡はない。
果実の皮も、骨も、餌を入れた器も見つからなかった。
「病気で、魔物の身体から出てる可能性は?」
「それなら、魔物が触れてない場所には残りにくい」
「触れてない場所、分かる?」
「探す」
分からないなら、分かる条件を作る。
俺たちは獣道を外れ、足跡のない外周を回った。
一本の若木の前で、ミレアが止まる。
「あれ」
人の胸ほどの高さにある葉が、一枚だけ不自然に光っていた。
下に足跡はない。
枝も折れていない。
葉を返すと、雨の当たりにくい裏側へ透明な膜が細く引かれていた。
布で拭う。
あの甘さと、油を含んだ獣脂の匂いが移る。
拭ったあとの葉には、青い草の匂いしか残らなかった。
花が作ったものではない。
餌の残りでもない。
病気の魔物が、足跡も残さず葉の裏へ同じ幅で塗ることもない。
「後から付けられた」
ミレアが言う。
「ああ」
今回は、断定までに時間をかけなかった。
◇
印の位置を地図へ落とすと、窪地の役割が見えてきた。
中心ではない。
五本の獣道が重なる分岐だ。
地面すれすれの根には、葉耳兎と角鼠。
低い岩には針尾山猫。
鹿が顔を向ける枝。
岩鎧熊が鼻先を寄せる幹。
それぞれ違う高さに、同じ膜が残っている。
「塗った奴、森を知ってる」
「少なくとも、五種の通り道と、どの高さに鼻が来るかは知ってる」
「人間? 獣人?」
「どちらとも書かない」
記録板へ記す。
――複数種の行動位置に合わせた塗布。
――塗布者は対象種の移動および嗅覚行動に知識を持つ可能性。
「早くなったね」
「急いで決めるのと、必要なところで決めるのは別だ」
「昨日もそれができればよかったのに」
「反省してる人間へ追い打ちをかけるな」
「次に効くようにしてる」
言い返せない。
採取布を二つに分け、一方を封香管へ収める。
その間に、ミレアは右手で外套の襟を緩めた。
焦茶の髪が首元へ落ちる。
一日歩いて温まった布から薬草の苦さが抜け、その下から、乾きかけた汗と肌の熱を含んだ匂いがわずかに戻ってきた。
昨夜巻き直した包帯のあたりだけ、まだ薬草が強い。
左肩をかばい続けたせいか、呼吸も朝より短くなっている。
俺が口を開く前に、ミレアが言った。
「肩は、朝より痛い。走れるのは一度だけ」
「頭は、甘さの中で判断が遅れる手前だ」
俺も答える。
「採取は終わった。戻るぞ」
「異論なし」
二人で決めた停止条件が、初めて役に立った。
そのとき。
窪地の北側から、鳥が一斉に飛び立った。
太い枝が折れる。
重い足音。
少し遅れて、もっと低く速いものが落ち葉を踏んだ。
ミレアが鼻を覆っていた布を外し、一度だけ浅く吸う。
「一頭は岩鎧熊。もう一頭は、たぶん山猫」
「向きは」
答えを待つより先に、足元の葉が光った。
南へ伸びる獣道だけ。
昨日の明け方に雨が上がったあと、新しい膜が塗られている。
その先は――さっき確認した北放牧地だ。
「戻る場所を変える」
俺は試料鞄を閉じた。
「小屋じゃない。開拓村へ警告する」
ミレアが短く頷く。
甘い道はもう、森から村へ向けて塗り直されていた。




