↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
獣の旅路と香りの地図  作者: sakumaaa
第一章 森がおかしい

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/20

甘すぎる森

 夜明け、ミレアは自分から短弓を差し出した。


「持ってて」


 素直すぎて、受け取る手が止まった。


「熱でも出たか」


「失礼だね」


「昨日までのお前なら、左足で弦を引く方法を考えてた」


「考えたよ」


「考えたのか」


「やめたから渡してる」


 褒めるべきなのだろう。


 基準が低すぎて、褒め方が分からない。


 左肩の腫れは、昨夜から増えていなかった。


 指先の痺れも、傷の変色もない。


 ミレアは左腕を外套の内側で身体へ寄せ、留め具を右手だけで締めている。


 包帯からは、新しく塗った薬草の苦い匂いが立っていた。


 その下に、寝不足の身体を火のそばで温め直したあとの、布と温かな皮膚の匂いが薄く残っている。


「肩は」


「歩ける。短い距離なら走れる。弓は引けない。昨日より悪くない」


「頭は」


「小屋の中なら平気――は、禁止だった」


 ミレアが言い直す。


「甘い匂いがなければ、方向も距離も取れる」


「採用」


「カイルは?」


「今は痛まない。甘さが濃くなったら先に言う」


「それも採用」


 短弓を試料鞄の脇へ固定する。


 俺たちは昨夜決めた条件を、朝になっても撤回しなかった。


     ◇


 小屋を出て、朝霧が薄くなるころ。


 俺たちは開拓村の北放牧地へ着いた。


 雨上がりの柵には、湿った木と家畜の毛の匂いが残っている。


 北端の杭だけ、表面が低い位置で削れていた。


 泥には細い前足の跡。


 柵の割れ目には、白く縮れた毛。


 俺は昨夜封じた繊維を硝子板の端へ置き、柵から採った毛を反対側へ並べた。


 太さ。


 縮れ方。


 乾いた藁を吸った匂い。


 よく似ている。


「同じ家畜の毛かもしれない。少なくとも、同じような場所で飼われたものだ」


「山猫はここまで来た」


「その可能性は高い」


「まだ丸じゃない?」


「足跡の向きを見てからだ」


 ミレアが杭の外側へしゃがみ、靴先で落ち葉を一枚返した。


 泥に残った前足の指先は、そろって北東を向いている。


 柵の内側には、対応する跡がない。


 針尾山猫は村へ踏み込んでいない。


 柵へ身体を擦ったあと、そのまま森へ戻っている。


 そして帰路にも、雨を弾く甘い印が続いていた。


 針へ付いた順番とも合う。


 先に甘い油膜。


 そのあと、放牧地の白い毛。


「丸をつける。山猫は甘いものを付けた状態で北柵まで来て、また森側へ移動した」


「往復させられてる?」


「経路は往復してる。させられたかどうかは、まだ保留だ」


「そこは変わらないね」


「変えない方がいいところもある」


 ミレアが笑い、北東へ顔を向けた。


「道は追える。でも、鼻だけでは追わない」


 昨日までなら、後半は言わなかったはずだ。


「それでいこう」


     ◇


 甘い印は、森へ入るほど増えていった。


 低い根。


 岩の角。


 枝分かれした若木。


 ミレアが足跡と折れた草から方向を拾い、俺は甘い印のない枝も対照として採る。


 匂いが濃い場所ほど、信用しない。


 昨日の代償は高すぎた。


 忘れるよりはましだ。


 昼を過ぎたころ、森が浅い窪地へ開けた。


 中央へ陽が落ち、白い小花が一面に咲いている。


 その周囲だけ、地面が輪を描くように踏み荒らされていた。


 葉耳兎。


 角鼠。


 樹皮鹿。


 岩鎧熊。


 それから、針尾山猫。


 食べるものも、鼻の高さも違う五種が、同じ場所へ来ている。


 そして――甘い。


 花と熟れた果実を一緒に潰し、甘いところだけを油で葉へ貼りつけたような匂いが、窪地全体にこもっていた。


 ミレアが鼻と口へ布を当てる。


「花が原因に見える」


「見えすぎるな」


 これだけ甘いのに、蜂がほとんどいない。


 俺は足跡の外側から花を一株採った。


 花弁を分ける。


 茎を折る。


 根の土を落とす。


 出てくるのは、刈った草と湿った土の匂いだけだった。


 日向。


 木陰。


 踏み跡の内側。


 三か所とも同じだ。


「花は普通」


「じゃあ餌?」


 窪地の中心を調べる。


 岩鎧熊が土を掘った跡。


 角鼠が種を探った小穴。


 鹿が葉を噛み切った跡。


 だが、五種が同じものを食べた形跡はない。


 果実の皮も、骨も、餌を入れた器も見つからなかった。


「病気で、魔物の身体から出てる可能性は?」


「それなら、魔物が触れてない場所には残りにくい」


「触れてない場所、分かる?」


「探す」


 分からないなら、分かる条件を作る。


 俺たちは獣道を外れ、足跡のない外周を回った。


 一本の若木の前で、ミレアが止まる。


「あれ」


 人の胸ほどの高さにある葉が、一枚だけ不自然に光っていた。


 下に足跡はない。


 枝も折れていない。


 葉を返すと、雨の当たりにくい裏側へ透明な膜が細く引かれていた。


 布で拭う。


 あの甘さと、油を含んだ獣脂の匂いが移る。


 拭ったあとの葉には、青い草の匂いしか残らなかった。


 花が作ったものではない。


 餌の残りでもない。


 病気の魔物が、足跡も残さず葉の裏へ同じ幅で塗ることもない。


「後から付けられた」


 ミレアが言う。


「ああ」


 今回は、断定までに時間をかけなかった。


     ◇


 印の位置を地図へ落とすと、窪地の役割が見えてきた。


 中心ではない。


 五本の獣道が重なる分岐だ。


 地面すれすれの根には、葉耳兎と角鼠。


 低い岩には針尾山猫。


 鹿が顔を向ける枝。


 岩鎧熊が鼻先を寄せる幹。


 それぞれ違う高さに、同じ膜が残っている。


「塗った奴、森を知ってる」


「少なくとも、五種の通り道と、どの高さに鼻が来るかは知ってる」


「人間? 獣人?」


「どちらとも書かない」


 記録板へ記す。


 ――複数種の行動位置に合わせた塗布。


 ――塗布者は対象種の移動および嗅覚行動に知識を持つ可能性。


「早くなったね」


「急いで決めるのと、必要なところで決めるのは別だ」


「昨日もそれができればよかったのに」


「反省してる人間へ追い打ちをかけるな」


「次に効くようにしてる」


 言い返せない。


 採取布を二つに分け、一方を封香管へ収める。


 その間に、ミレアは右手で外套の襟を緩めた。


 焦茶の髪が首元へ落ちる。


 一日歩いて温まった布から薬草の苦さが抜け、その下から、乾きかけた汗と肌の熱を含んだ匂いがわずかに戻ってきた。


 昨夜巻き直した包帯のあたりだけ、まだ薬草が強い。


 左肩をかばい続けたせいか、呼吸も朝より短くなっている。


 俺が口を開く前に、ミレアが言った。


「肩は、朝より痛い。走れるのは一度だけ」


「頭は、甘さの中で判断が遅れる手前だ」


 俺も答える。


「採取は終わった。戻るぞ」


「異論なし」


 二人で決めた停止条件が、初めて役に立った。


 そのとき。


 窪地の北側から、鳥が一斉に飛び立った。


 太い枝が折れる。


 重い足音。


 少し遅れて、もっと低く速いものが落ち葉を踏んだ。


 ミレアが鼻を覆っていた布を外し、一度だけ浅く吸う。


「一頭は岩鎧熊。もう一頭は、たぶん山猫」


「向きは」


 答えを待つより先に、足元の葉が光った。


 南へ伸びる獣道だけ。


 昨日の明け方に雨が上がったあと、新しい膜が塗られている。


 その先は――さっき確認した北放牧地だ。


「戻る場所を変える」


 俺は試料鞄を閉じた。


「小屋じゃない。開拓村へ警告する」


 ミレアが短く頷く。


 甘い道はもう、森から村へ向けて塗り直されていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。