これは、生態調査じゃない
開拓村の警鐘が鳴るより先に、地面が揺れた。
岩鎧熊の足音だ。
少し遅れて、乾いた草を低く裂く音が追ってくる。針尾山猫も同じ道にいる。
「あと二百歩」
ミレアが走りながら言った。
左腕は外套の内側へ固定したまま。包帯の薬草が汗で湿り、苦い匂いがいつもより近い。それでも歩調は崩れていない。
「村までは?」
「百五十」
「追いつかれるな」
「計算できて偉い」
「褒めるところが低すぎる」
森が切れた。
北放牧地の柵。その向こうで、羊を追う声と鐘が重なる。
柵の外にはエッダが立っていた。地図を杭へ押しつけ、青い鉛筆で退路を引いている。
「報告は走りながら」
挨拶はなかった。
「岩鎧熊一頭、針尾山猫一頭。南向きの新しい塗布路を追っています」
「止められますか」
「殺さずに、なら。たぶん」
エッダの鉛筆が止まる。
「確度は」
昨日なら、そこで言葉を足していた。
成功する条件。失敗する条件。断定できない理由。
今は先に結論を置く。
「試す価値はあります。失敗すれば北柵で接触します」
「必要なものは」
「東側の柵を開けてください。羊の鉱塩も一つ」
エッダは村人へ向き直った。
「北の家畜を南柵へ。東門は開放。鉱塩を一塊、涸れ沢の入口へ運んで」
誰が責任を持つかまで、一息で決める声だった。
◇
村へ向かう甘い道は、北柵の三十歩手前で二つの高さに分かれていた。
地面すれすれの草。
俺の胸ほどの高さにある杭。
針尾山猫と岩鎧熊。それぞれが顔を向ける位置だ。
窪地で採った布は二分してある。一方は封香管の中。もう一方は現場比較用だ。
証拠を全部使う必要はない。
比較用の布だけを細く三つに裂く。
「東の涸れ沢は、どこへ抜ける」
「村を回って北東の谷へ戻る。出口は二つ。追い詰める形にはならない」
「風は」
「今は東へ流れてる。でも沢の入口で一度巻く」
ミレアが右手で俺の襟をつかみ、半歩引いた。
次の瞬間、頭上の枝が大きく揺れる。
「今の線をまっすぐ走ったら、熊の正面」
「先に言え」
「今、分かった」
寄った髪は汗で少し張りついていた。そこへ包帯の薬草が混じる。俺の呼吸が止まるより先に、ミレアは襟を離した。
「右から回って。あたしはここで風を見る」
「走れるのは一度だけだったな」
「もう使った」
「なら動くな」
「命令?」
「共同停止条件だ」
ミレアは一瞬だけ俺を見た。
「採用」
俺は東へ走った。
涸れ沢の入口。低い石へ一片。
十歩先の幹、岩鎧熊の鼻の高さへ一片。
最後の一片は、村から運ばれた鉱塩の手前に置く。
濃くすればいいわけではない。甘いものだけが突然増えれば、警戒させるか、二頭を興奮させる。
既存の道から枝分かれして、少しずつ東へ寄る濃さにする。
戻る途中、村へ続く印の付いた草を根元から切った。杭へ塗られた膜は採取布で一度だけ拭い、その布も封じる。
消せたわけではない。
選ばせる道を一本増やしただけだ。
「来る!」
ミレアの声が飛ぶ。
先に現れたのは針尾山猫だった。
地面へ身体を伏せ、黒い針を揺らしながら北柵へ進む。すぐ後ろで若い岩鎧熊が木々を押し分けた。
二頭とも、俺たちを狙ってはいない。
鼻先は甘い道だけを追っている。
分岐で、山猫が止まった。
右――村。
左――涸れ沢。
鼻を二度動かす。
左へ曲がった。
岩鎧熊は止まらない。
山猫が消えた沢ではなく、羊の集まる南柵へ顔を向けた。
「甘さより、家畜を拾ってる」
ミレアが言う。
「岩鎧熊は羊を狙わない」
「混ざりすぎて、餌場の匂いに見えてる」
人工の道は、命令じゃない。
その個体が元から持っている欲求を、強く押すだけだ。
なら、押し返すのも元の欲求でいい。
「鉱塩を割れ!」
エッダの声が響いた。
涸れ沢の入口で、白い塊が石へ打ちつけられる。
砕けた鉱塩の乾いた粉が風へ上がった。
岩鎧熊が足を止める。
鼻先が東へ動いた。
一歩。
もう一歩。
甘い布と鉱塩が重なる涸れ沢へ向きを変える。
灰色の背が谷へ消えるまで、誰も声を出さなかった。
やがて、地面の揺れが遠ざかる。
「丸、つけていい?」
ミレアが息を吐いた。
「まだだ。沢を抜けるまで見張る」
「そこは変わらないね」
「変えない方がいいところもある」
自分で言って、少し前にも聞いた気がした。
◇
日が森の向こうへ落ちる頃、二頭が北東の谷へ抜けたことをミレアが確認した。
村へ続いていた印は、採取できる範囲を封じた。封香管に残した試料も無事だ。
俺は黒い比較皿を二枚並べた。
一枚には、窪地で採った透明な膜。
もう一枚には、調査鞄に入れてある正規の保存剤標本。
甘い油を分けてから簡易試薬を落とす。
どちらにも、青灰色の細い輪が浮かんだ。
見覚えがある。
揮発しやすい魔物の分泌物を封香管で運ぶため、調査局が使う安定剤。
「第六保存塩だ」
エッダの表情は変わらなかった。
ミレアが皿と俺を見比べる。
「局の人間が塗った?」
「そこまでは言えない」
俺は首を横に振った。
「盗難、横流し、外部委託、古い備蓄。局の外へ出る経路はいくつもある。分かるのは、自然に生まれた膜じゃないことと、局の保管系統にある素材が混じっていることだけだ」
「十分、嫌な答えだね」
「ああ」
匂いを追って森へ入った。
魔物の行動を調べ、村へ入る前に進路を外した。
そこまでは、生態調査だ。
だが、誰が局の道具を持ち出し、何のために道を塗ったのか。
ここから先は違う。
エッダが記録板を引き寄せた。
「北境支局が保管する第六保存塩を、今から全量封印します。帳簿、外部委託、過去三年の払出記録も凍結。王都へ内部管理物混入の緊急報告を出します」
「全部止めたら、正規の調査にも使えない」
俺が言う。
「使えません」
「証拠は簡易試験だけだ」
「だから犯人は書きません。素材の混入と、封印を命じた責任者だけを書きます」
エッダは青い記録墨へ親指を押しつけた。
報告書の末尾へ、自分の指印を置く。
「判断が誤りなら、私が正規業務を止めた責任を負います。正しければ、局の評判より先に止めるべきものがあります」
ミレアが署名欄を見る。
「獣人側の異論も付ける?」
「異論ではありません」
エッダは新しい紙を一枚差し出した。
「共同報告です。確認した事実と、まだ断定できないことを、あなたの言葉でも書いてください」
ミレアはすぐには受け取らなかった。
俺を見る。
「どうする、共同調査者」
初日なら、俺が記録の正しさを説明していた。
今は違う。
「一緒に間違えないために書く」
ミレアが紙を取った。
「じゃあ、あたしが先」
「そこは譲らないのか」
「大事だから」
森の誰かが魔物を動かしている。
そう考えて始めた調査だった。
けれど、回収した試料が示した先は、森の奥ではない。
俺たちの側だった。




