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獣の旅路と香りの地図  作者: sakumaaa
第一章 森がおかしい

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これは、生態調査じゃない

 開拓村の警鐘が鳴るより先に、地面が揺れた。


 岩鎧熊の足音だ。


 少し遅れて、乾いた草を低く裂く音が追ってくる。針尾山猫も同じ道にいる。


「あと二百歩」


 ミレアが走りながら言った。


 左腕は外套の内側へ固定したまま。包帯の薬草が汗で湿り、苦い匂いがいつもより近い。それでも歩調は崩れていない。


「村までは?」


「百五十」


「追いつかれるな」


「計算できて偉い」


「褒めるところが低すぎる」


 森が切れた。


 北放牧地の柵。その向こうで、羊を追う声と鐘が重なる。


 柵の外にはエッダが立っていた。地図を杭へ押しつけ、青い鉛筆で退路を引いている。


「報告は走りながら」


 挨拶はなかった。


「岩鎧熊一頭、針尾山猫一頭。南向きの新しい塗布路を追っています」


「止められますか」


「殺さずに、なら。たぶん」


 エッダの鉛筆が止まる。


「確度は」


 昨日なら、そこで言葉を足していた。


 成功する条件。失敗する条件。断定できない理由。


 今は先に結論を置く。


「試す価値はあります。失敗すれば北柵で接触します」


「必要なものは」


「東側の柵を開けてください。羊の鉱塩も一つ」


 エッダは村人へ向き直った。


「北の家畜を南柵へ。東門は開放。鉱塩を一塊、涸れ沢の入口へ運んで」


 誰が責任を持つかまで、一息で決める声だった。


     ◇


 村へ向かう甘い道は、北柵の三十歩手前で二つの高さに分かれていた。


 地面すれすれの草。


 俺の胸ほどの高さにある杭。


 針尾山猫と岩鎧熊。それぞれが顔を向ける位置だ。


 窪地で採った布は二分してある。一方は封香管の中。もう一方は現場比較用だ。


 証拠を全部使う必要はない。


 比較用の布だけを細く三つに裂く。


「東の涸れ沢は、どこへ抜ける」


「村を回って北東の谷へ戻る。出口は二つ。追い詰める形にはならない」


「風は」


「今は東へ流れてる。でも沢の入口で一度巻く」


 ミレアが右手で俺の襟をつかみ、半歩引いた。


 次の瞬間、頭上の枝が大きく揺れる。


「今の線をまっすぐ走ったら、熊の正面」


「先に言え」


「今、分かった」


 寄った髪は汗で少し張りついていた。そこへ包帯の薬草が混じる。俺の呼吸が止まるより先に、ミレアは襟を離した。


「右から回って。あたしはここで風を見る」


「走れるのは一度だけだったな」


「もう使った」


「なら動くな」


「命令?」


「共同停止条件だ」


 ミレアは一瞬だけ俺を見た。


「採用」


 俺は東へ走った。


 涸れ沢の入口。低い石へ一片。


 十歩先の幹、岩鎧熊の鼻の高さへ一片。


 最後の一片は、村から運ばれた鉱塩の手前に置く。


 濃くすればいいわけではない。甘いものだけが突然増えれば、警戒させるか、二頭を興奮させる。


 既存の道から枝分かれして、少しずつ東へ寄る濃さにする。


 戻る途中、村へ続く印の付いた草を根元から切った。杭へ塗られた膜は採取布で一度だけ拭い、その布も封じる。


 消せたわけではない。


 選ばせる道を一本増やしただけだ。


「来る!」


 ミレアの声が飛ぶ。


 先に現れたのは針尾山猫だった。


 地面へ身体を伏せ、黒い針を揺らしながら北柵へ進む。すぐ後ろで若い岩鎧熊が木々を押し分けた。


 二頭とも、俺たちを狙ってはいない。


 鼻先は甘い道だけを追っている。


 分岐で、山猫が止まった。


 右――村。


 左――涸れ沢。


 鼻を二度動かす。


 左へ曲がった。


 岩鎧熊は止まらない。


 山猫が消えた沢ではなく、羊の集まる南柵へ顔を向けた。


「甘さより、家畜を拾ってる」


 ミレアが言う。


「岩鎧熊は羊を狙わない」


「混ざりすぎて、餌場の匂いに見えてる」


 人工の道は、命令じゃない。


 その個体が元から持っている欲求を、強く押すだけだ。


 なら、押し返すのも元の欲求でいい。


「鉱塩を割れ!」


 エッダの声が響いた。


 涸れ沢の入口で、白い塊が石へ打ちつけられる。


 砕けた鉱塩の乾いた粉が風へ上がった。


 岩鎧熊が足を止める。


 鼻先が東へ動いた。


 一歩。


 もう一歩。


 甘い布と鉱塩が重なる涸れ沢へ向きを変える。


 灰色の背が谷へ消えるまで、誰も声を出さなかった。


 やがて、地面の揺れが遠ざかる。


「丸、つけていい?」


 ミレアが息を吐いた。


「まだだ。沢を抜けるまで見張る」


「そこは変わらないね」


「変えない方がいいところもある」


 自分で言って、少し前にも聞いた気がした。


     ◇


 日が森の向こうへ落ちる頃、二頭が北東の谷へ抜けたことをミレアが確認した。


 村へ続いていた印は、採取できる範囲を封じた。封香管に残した試料も無事だ。


 俺は黒い比較皿を二枚並べた。


 一枚には、窪地で採った透明な膜。


 もう一枚には、調査鞄に入れてある正規の保存剤標本。


 甘い油を分けてから簡易試薬を落とす。


 どちらにも、青灰色の細い輪が浮かんだ。


 見覚えがある。


 揮発しやすい魔物の分泌物を封香管で運ぶため、調査局が使う安定剤。


「第六保存塩だ」


 エッダの表情は変わらなかった。


 ミレアが皿と俺を見比べる。


「局の人間が塗った?」


「そこまでは言えない」


 俺は首を横に振った。


「盗難、横流し、外部委託、古い備蓄。局の外へ出る経路はいくつもある。分かるのは、自然に生まれた膜じゃないことと、局の保管系統にある素材が混じっていることだけだ」


「十分、嫌な答えだね」


「ああ」


 匂いを追って森へ入った。


 魔物の行動を調べ、村へ入る前に進路を外した。


 そこまでは、生態調査だ。


 だが、誰が局の道具を持ち出し、何のために道を塗ったのか。


 ここから先は違う。


 エッダが記録板を引き寄せた。


「北境支局が保管する第六保存塩を、今から全量封印します。帳簿、外部委託、過去三年の払出記録も凍結。王都へ内部管理物混入の緊急報告を出します」


「全部止めたら、正規の調査にも使えない」


 俺が言う。


「使えません」


「証拠は簡易試験だけだ」


「だから犯人は書きません。素材の混入と、封印を命じた責任者だけを書きます」


 エッダは青い記録墨へ親指を押しつけた。


 報告書の末尾へ、自分の指印を置く。


「判断が誤りなら、私が正規業務を止めた責任を負います。正しければ、局の評判より先に止めるべきものがあります」


 ミレアが署名欄を見る。


「獣人側の異論も付ける?」


「異論ではありません」


 エッダは新しい紙を一枚差し出した。


「共同報告です。確認した事実と、まだ断定できないことを、あなたの言葉でも書いてください」


 ミレアはすぐには受け取らなかった。


 俺を見る。


「どうする、共同調査者」


 初日なら、俺が記録の正しさを説明していた。


 今は違う。


「一緒に間違えないために書く」


 ミレアが紙を取った。


「じゃあ、あたしが先」


「そこは譲らないのか」


「大事だから」


 森の誰かが魔物を動かしている。


 そう考えて始めた調査だった。


 けれど、回収した試料が示した先は、森の奥ではない。


 俺たちの側だった。

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