昼なのに、夜の匂いがする
朝から、支局の試料棚には封印票が貼られていた。
赤い紐が棚の扉を横切り、結び目にはエッダの青い指印がある。
第六保存塩だけではない。
それを使った保存液、払出簿、外部委託の控え。昨夜まで仕事道具だったものが、今朝は触れてはいけない証拠になっていた。
「調査鞄、軽くなった?」
背後からミレアが覗き込む。
「不便になった」
「それ、人間の言葉で?」
「かなり困ってる」
「最初からそう言えばいいのに」
未処理の採取布と遮光布、木箱は使える。だが保存液がなければ、持ち帰る間にも匂いは変わる。採取点と時刻を細かく分け、現場で照合できる範囲に絞るしかない。
左肩の包帯は新しい。
昨夜の汗を吸った布から、今朝は潰した薬草の青い苦さと、洗った上衣の匂いへ変わっている。湿った布の奥に、温かな皮膚の匂いが薄く残っていた。
腕はまだ上がらない。
それでもミレアは短弓を腰へ戻そうとしていた。
「置け」
「持つだけ」
「弦を引けない弓は荷物だ」
「敵に、引けないって教えなきゃいい」
「俺には教えただろ」
言うと、ミレアの手が止まった。
共同停止条件は、森を出たら失効する取り決めではない。
俺の頭痛も消え切ってはいない。片方だけに体調申告を求める条件では、共同とは呼べなかった。
しばらく俺を見てから、彼女は短弓を机へ置いた。
「山刀は持つ」
「右手で抜けるならな」
「採用」
そこで、窓に何かがぶつかった。
乾いた音。
続いて、薄い翅が硝子を擦る。
窓枠へ落ちたのは、掌より大きな蛾だった。
黒い翅に、青白い斑点が並んでいる。
「宵灯蛾?」
ミレアが窓を開ける。
宵灯蛾は夜にだけ飛ぶ。
斑点へ蓄えた淡い光で仲間を見つけ、湿った樹皮の樹液を吸う。朝には暗い木の洞へ戻るはずだ。
今は、日が屋根を越えたところだった。
蛾は窓台で翅を震わせた。
光を避けるでもなく、もう一度外へ飛ぼうとして硝子へぶつかる。
「触るな」
俺は遮光布をかぶせ、布ごと木箱へ移した。
翅の粉が少しだけ机へ落ちる。
朝日に温められた翅の粉から、乾いた紙のような匂いが立った。
その下に、濡れた石と指で揉んだ苔を合わせたような青さが残っていた。
「夜醒苔だ」
ミレアが鼻先を箱へ向ける。
「この辺にはないよ」
「一番近い場所は?」
「北東の沢。日がほとんど入らない崖の下」
窓の外で、今度は鐘が鳴った。
警報ではない。
門番が来訪を知らせる鐘だ。
開拓村の使いが、息を切らして支局へ駆け込んでくる。
「南の畑に、夜の魔物が出ています。蛾だけじゃない。倉の下から、黒い鼠が何十匹も」
「夜走り鼠か」
エッダは封印棚から目を離さずに尋ねた。
「尾が二股なら、そうです」
夜走り鼠も夜行性だ。
畑の害虫を食べるため、普段はむしろ村にとって役に立つ。だが昼間に群れで出れば、家畜が騒ぎ、人が追い立て、鼠は逃げ場を失う。
偶然、寝床を壊された一群ならあり得る。
宵灯蛾と同時でなければ。
使いが持ってきた報告紙には、鼠が人を噛んだとも、蛾が作物を食べたとも書かれていない。被害より先に、「昼にいる」という異常だけが揃っていた。
原因を害獣化と決めるには早い。
共通しているのは、夜行性の二種が昼に出たことだけだ。原因まで同じとは、まだ決められない。
「現地を見ます」
俺が言うと、エッダは先にミレアを見た。
「ヴァルクさんの負傷は」
「弓は引かない。走らない。匂いが濃くなったら、あたしが先に言う」
「戦闘になった場合は」
「俺が撤退を決める」
ミレアが横目を寄越した。
「そこ、あたしも決めるんだけど」
「共同で撤退を決める」
「よろしい」
エッダは一枚だけ通行票を切った。
「試料棚は封印中です。正規の保存液は持ち出せません」
「分かっています」
「分かっていて、行くんですね」
「道具が使えないことと、見ないことは別です」
エッダの親指が、通行票へ青い跡を残す。
「日没前に一度報告を。今回は夜を待つ必要があるかもしれません」
◇
南の果樹畑は、昼の匂いで満ちていた。
陽に温められた土。
まだ青い果実。
刈った草。
その間を、夜走り鼠の黒い背が何十本も走っている。
鼠は餌を探していなかった。
巣へ戻る穴を探し、石垣や木箱の陰へ鼻先を差し入れては、落ち着かずに出てくる。
宵灯蛾もいた。
明るさを嫌うはずの翅を重そうに動かし、果樹の北側へ同じ向きで集まっている。
異常は匂いだけではなかった。
宵灯蛾の斑点は、夜なら淡く光る。今は陽を受けても消えず、弱い明滅を繰り返していた。夜走り鼠も、穴を探すたび目を細めている。瞳は暗い場所に合わせて開いたまま。森鷹の影が横切っても、反応が一拍遅い。
身体は昼だと分かっている。
光への反応は残っている。昼夜の感覚そのものが消えた、と決めるのも早い。
それでも、活動を止められない。
病気で感覚が壊れたのか。昨夜から追われ続けたのか。それとも、休む判断より強い何かを拾っているのか。
「病気なら、種類ごとに症状が違っていい」
俺は鼠の通った草へ未処理の布を当てた。
「巣を壊されたなら、蛾と鼠が同じ方向へ行く理由がない」
「何かから逃げてる匂いでもない」
ミレアは日陰へしゃがみ、右手だけで土を崩した。
鼠の足跡は北東へ続いている。
宵灯蛾が翅を向けるのも同じ方角だった。
布からは獣毛と土。
それから、支局の窓台に残っていたのと同じ夜醒苔。
「苔を運んだ荷が通った可能性は?」
「鼠の腹にも、蛾の翅にも付いてる。地を走る鼠と空を飛ぶ蛾、その両方へ移る経路が要る。荷だけじゃ足りない」
ミレアが立ち上がる。
左肩を動かさない分、身体がわずかに右へ傾いた。
俺が口を開く前に、彼女が言う。
「痛みは朝と同じ。頭は平気。続けられる」
「先に言うようになったな」
「誰かさんが細かいから」
「誰かさんは助かってる」
返事が一拍遅れた。
ミレアは何も言わず、畑の北東へ顔を向ける。
風が、森の方から吹いた。
真昼の針葉樹と乾き始めた道の中に、日が落ちた沢でしか立たないはずの匂いが混じっている。
濡れた石。
冷えた苔。
夜の始まりを、夜行性の魔物へ知らせる匂い。
鳥は昼の枝へ戻り、虫は陽を避けている。森そのものは昼のままなのに、鼻へ届く合図だけが時間から外れていた。
「旧樹脂採取道」
ミレアが言った。
「匂いは、あそこから来てる」
空を見上げる。
太陽はまだ高い。
それなのに森の一角だけが、夜の始まりを告げていた。




