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獣の旅路と香りの地図  作者: sakumaaa
夜行性魔物の昼行

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11/20

昼なのに、夜の匂いがする

 朝から、支局の試料棚には封印票が貼られていた。


 赤い紐が棚の扉を横切り、結び目にはエッダの青い指印がある。


 第六保存塩だけではない。


 それを使った保存液、払出簿、外部委託の控え。昨夜まで仕事道具だったものが、今朝は触れてはいけない証拠になっていた。


「調査鞄、軽くなった?」


 背後からミレアが覗き込む。


「不便になった」


「それ、人間の言葉で?」


「かなり困ってる」


「最初からそう言えばいいのに」


 未処理の採取布と遮光布、木箱は使える。だが保存液がなければ、持ち帰る間にも匂いは変わる。採取点と時刻を細かく分け、現場で照合できる範囲に絞るしかない。


 左肩の包帯は新しい。


 昨夜の汗を吸った布から、今朝は潰した薬草の青い苦さと、洗った上衣の匂いへ変わっている。湿った布の奥に、温かな皮膚の匂いが薄く残っていた。


 腕はまだ上がらない。


 それでもミレアは短弓を腰へ戻そうとしていた。


「置け」


「持つだけ」


「弦を引けない弓は荷物だ」


「敵に、引けないって教えなきゃいい」


「俺には教えただろ」


 言うと、ミレアの手が止まった。


 共同停止条件は、森を出たら失効する取り決めではない。


 俺の頭痛も消え切ってはいない。片方だけに体調申告を求める条件では、共同とは呼べなかった。


 しばらく俺を見てから、彼女は短弓を机へ置いた。


「山刀は持つ」


「右手で抜けるならな」


「採用」


 そこで、窓に何かがぶつかった。


 乾いた音。


 続いて、薄い翅が硝子を擦る。


 窓枠へ落ちたのは、掌より大きな蛾だった。


 黒い翅に、青白い斑点が並んでいる。


「宵灯蛾?」


 ミレアが窓を開ける。


 宵灯蛾は夜にだけ飛ぶ。


 斑点へ蓄えた淡い光で仲間を見つけ、湿った樹皮の樹液を吸う。朝には暗い木の洞へ戻るはずだ。


 今は、日が屋根を越えたところだった。


 蛾は窓台で翅を震わせた。


 光を避けるでもなく、もう一度外へ飛ぼうとして硝子へぶつかる。


「触るな」


 俺は遮光布をかぶせ、布ごと木箱へ移した。


 翅の粉が少しだけ机へ落ちる。


 朝日に温められた翅の粉から、乾いた紙のような匂いが立った。


 その下に、濡れた石と指で揉んだ苔を合わせたような青さが残っていた。


「夜醒苔だ」


 ミレアが鼻先を箱へ向ける。


「この辺にはないよ」


「一番近い場所は?」


「北東の沢。日がほとんど入らない崖の下」


 窓の外で、今度は鐘が鳴った。


 警報ではない。


 門番が来訪を知らせる鐘だ。


 開拓村の使いが、息を切らして支局へ駆け込んでくる。


「南の畑に、夜の魔物が出ています。蛾だけじゃない。倉の下から、黒い鼠が何十匹も」


「夜走り鼠か」


 エッダは封印棚から目を離さずに尋ねた。


「尾が二股なら、そうです」


 夜走り鼠も夜行性だ。


 畑の害虫を食べるため、普段はむしろ村にとって役に立つ。だが昼間に群れで出れば、家畜が騒ぎ、人が追い立て、鼠は逃げ場を失う。


 偶然、寝床を壊された一群ならあり得る。


 宵灯蛾と同時でなければ。


 使いが持ってきた報告紙には、鼠が人を噛んだとも、蛾が作物を食べたとも書かれていない。被害より先に、「昼にいる」という異常だけが揃っていた。


 原因を害獣化と決めるには早い。


 共通しているのは、夜行性の二種が昼に出たことだけだ。原因まで同じとは、まだ決められない。


「現地を見ます」


 俺が言うと、エッダは先にミレアを見た。


「ヴァルクさんの負傷は」


「弓は引かない。走らない。匂いが濃くなったら、あたしが先に言う」


「戦闘になった場合は」


「俺が撤退を決める」


 ミレアが横目を寄越した。


「そこ、あたしも決めるんだけど」


「共同で撤退を決める」


「よろしい」


 エッダは一枚だけ通行票を切った。


「試料棚は封印中です。正規の保存液は持ち出せません」


「分かっています」


「分かっていて、行くんですね」


「道具が使えないことと、見ないことは別です」


 エッダの親指が、通行票へ青い跡を残す。


「日没前に一度報告を。今回は夜を待つ必要があるかもしれません」


     ◇


 南の果樹畑は、昼の匂いで満ちていた。


 陽に温められた土。


 まだ青い果実。


 刈った草。


 その間を、夜走り鼠の黒い背が何十本も走っている。


 鼠は餌を探していなかった。


 巣へ戻る穴を探し、石垣や木箱の陰へ鼻先を差し入れては、落ち着かずに出てくる。


 宵灯蛾もいた。


 明るさを嫌うはずの翅を重そうに動かし、果樹の北側へ同じ向きで集まっている。


 異常は匂いだけではなかった。


 宵灯蛾の斑点は、夜なら淡く光る。今は陽を受けても消えず、弱い明滅を繰り返していた。夜走り鼠も、穴を探すたび目を細めている。瞳は暗い場所に合わせて開いたまま。森鷹の影が横切っても、反応が一拍遅い。


 身体は昼だと分かっている。


 光への反応は残っている。昼夜の感覚そのものが消えた、と決めるのも早い。


 それでも、活動を止められない。


 病気で感覚が壊れたのか。昨夜から追われ続けたのか。それとも、休む判断より強い何かを拾っているのか。


「病気なら、種類ごとに症状が違っていい」


 俺は鼠の通った草へ未処理の布を当てた。


「巣を壊されたなら、蛾と鼠が同じ方向へ行く理由がない」


「何かから逃げてる匂いでもない」


 ミレアは日陰へしゃがみ、右手だけで土を崩した。


 鼠の足跡は北東へ続いている。


 宵灯蛾が翅を向けるのも同じ方角だった。


 布からは獣毛と土。


 それから、支局の窓台に残っていたのと同じ夜醒苔。


「苔を運んだ荷が通った可能性は?」


「鼠の腹にも、蛾の翅にも付いてる。地を走る鼠と空を飛ぶ蛾、その両方へ移る経路が要る。荷だけじゃ足りない」


 ミレアが立ち上がる。


 左肩を動かさない分、身体がわずかに右へ傾いた。


 俺が口を開く前に、彼女が言う。


「痛みは朝と同じ。頭は平気。続けられる」


「先に言うようになったな」


「誰かさんが細かいから」


「誰かさんは助かってる」


 返事が一拍遅れた。


 ミレアは何も言わず、畑の北東へ顔を向ける。


 風が、森の方から吹いた。


 真昼の針葉樹と乾き始めた道の中に、日が落ちた沢でしか立たないはずの匂いが混じっている。


 濡れた石。


 冷えた苔。


 夜の始まりを、夜行性の魔物へ知らせる匂い。


 鳥は昼の枝へ戻り、虫は陽を避けている。森そのものは昼のままなのに、鼻へ届く合図だけが時間から外れていた。


「旧樹脂採取道」


 ミレアが言った。


「匂いは、あそこから来てる」


 空を見上げる。


 太陽はまだ高い。


 それなのに森の一角だけが、夜の始まりを告げていた。

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