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獣の旅路と香りの地図  作者: sakumaaa
夜行性魔物の昼行

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12/20

夕暮れは、まだ来ていない

 旧樹脂採取道は、真昼の光にさらされていた。

 荷車を通すために枝を払った古い道で、頭上を遮るものが少ない。乾き始めた轍まで、陽が届いている。

 なのに、風は夕暮れの匂いを運んでいた。

 濡れた石。

 指で揉んだ青い苔。

 夜行性の魔物が巣を出る頃、沢底から上がってくる冷えた匂いだ。

「道は昼のまま」

 ミレアが鼻先を上げた。

「でも、鼻だけ夜だと思わされる」

「お前は?」

「昼だって分かってる。肩は朝と同じ。頭も、まだ取れる」

「まだ、は記録するぞ」

「どうぞ」

 俺も自分の状態を確かめた。

 甘い残香を浴びた後の頭痛は、支局を出た時より弱い。視界も、文字を読む速さも変わらない。

「俺も続行可能。ただし、匂いが濃くなったら一度離れる」

「採用」

 共同停止条件を確認し、道へ入った。


 最初に見つけた夜走り鼠は、走っていなかった。

 日向の轍を、黒い腹を擦るように進んでいる。二股の尾は土を引き、森鷹の影が横切っても顔を上げない。

 眠いのだ。

 それでも、石の陰へ入って丸くなるたび、何かに急かされるように立ち上がる。

「追うか?」

「あれを?」

「進路を見れば、発生源へ近づける」

 ミレアは答えず、右手で道の先を示した。

 宵灯蛾が一匹、低い枝へぶつかった。

 黒い翅の青白い斑点が、昼の光の中で弱く明滅している。飛び上がろうとしては葉へ落ち、また同じ向きへ翅を開く。

 その上を、森鷹が旋回していた。

 鼠を追えば、蛾は見失う。

 蛾を採れば、鼠の足跡は先へ行く。

 どちらも発生源へ向かっている可能性がある。どちらも、このままでは長く持たない。

「止める」

 ミレアが言った。

「追跡を?」

「この二匹を。原因は逃げても、死なせたら今日の状態は取り直せない」

 正しい。

 異常な活動そのものが試料だ。死骸にしてしまえば、昼に動けていた理由は取れない。調査対象を死なせて近道をするのは、調査とは呼ばない。

「鼠は俺が影へ入れる。蛾を頼む」

「左腕は使わない」

「分かってる」

 俺は黒い遮光布を道脇の倒木へ掛けた。遮光布なら、失敗しても外せば元の明るさへ戻せる。鼠の正面には出ない。右側の土へ小石を落とし、音だけで進路を半歩ずらす。

 夜走り鼠は跳ねる力も残っていなかった。よろめきながら布の下へ入り、そこで腹を土へつける。

 一方、ミレアは外套の裾を右手で広げ、森鷹と宵灯蛾の間へ立った。

 鷹が一度低く降りる。

 ミレアは動かない。

 灰褐色の耳だけが、羽音を追って向きを変えた。

 蛾が外套の影へ落ちる。

「箱」

 俺は蓋を外した木箱を、地面へ滑らせた。

 ミレアは蛾へ触れず、外套の影を少しずつ箱まで動かす。蛾は自分から暗がりへ入り、翅を閉じた。

 森鷹が諦めて枝の向こうへ消える。

「共同調査者の判断により追跡を中断。疲弊個体二匹を一時保護」

 記録しながら言う。

「理由は?」

「再観察可能な状態を守るため」

「格好いい方だけ書いた」

「他にあるのか」

「見捨てるのが嫌だった」

 筆先が止まった。

 業務記録に必要かと言われれば、いらない。

 だが、何を守るために追跡を止めたのかは、次の判断に残る。保護を共同手順にした以上、片方だけの理由では足りない。

「……併記する」

「本当に?」

「共同報告だろ」

 ミレアは少しだけ笑った。


 遮光布の下で、夜走り鼠の呼吸がようやく遅くなった。

 箱の宵灯蛾も、青白い斑点の明滅を止めている。

 眠らせたまま触る理由はない。

 俺は鼠が通った轍と、蛾が落ちた葉から別々に布を取った。接触範囲はそこまでだ。

 鼠の轍には、乾いた土と黒い毛。

 葉には、薄い羽粉。

 その両方へ、見慣れない青灰色の粒が混じっていた。

「同じ道を通ったから、同じものが付いた?」

「その可能性はある。ただ、付き方が違う」

 鼠は、背の毛に粒が多い。

 腹を擦って歩いた轍には、ほとんど落ちていない。

 宵灯蛾も、枝へぶつけやすい翅の外側だけに粒が残っている。

「地面から拾ったなら、鼠は腹にも付く」

「蛾は飛んでる。二匹とも、身体の高いところを何かへ触れた」

 同じ場所で付いたのか。

 違う場所に同じものがあるのか。

 採取地点を増やす前に、まず付着の向きを記録する。

 あとから「森中にあった」と思い込まないためだ。

 ミレアは鼠の進んできた轍を見て、それから蛾がぶつかった枝を見上げた。

「高さは違う。でも、どっちも樹脂を採ってた木のそば」

 旧道の木には、採取傷が同じ高さで並んでいるわけではない。

 幹の太さ。

 傾き。

 人が刃を入れやすかった位置。

 そして廃道になった後、魔物が身体を擦りやすくなった位置。

 俺たちは、最も近い古傷へ向かった。


     ◇


 蛾が落ちた枝の下には、古い樹脂傷があった。

 三年前まで、樹脂を採るために樹皮を斜めへ削った跡だ。傷は黒く乾き、普通なら新しい匂いなど残っていない。

 その縁だけ、わずかに濡れていた。

「鼠も寄ってる」

 ミレアが足元を示す。

 小さな爪跡が、傷の真下で何度も重なっている。幹の低い位置には、黒い毛が三本貼りついていた。

 宵灯蛾の翅が触れた高さには、青灰色の粉。

 夜走り鼠の毛にも、同じ色の粉が付いている。

「道を通ったから付いたんじゃない」

「ここで付けてる」

 ミレアは傷へ鼻を近づけず、右手を添える手前で止めた。

「擦った跡が新しい。蛾は翅、鼠は背中」

 俺は傷の上、下、触れられていない裏側の樹皮から別々に布を取った。

 保存液はない。

 だから持ち帰る前提ではなく、この場で比べる。

 何も載せていない素焼き皿。

 傷の外側。

 濡れた縁。

 三枚を風下へ並べた。

 空の皿は乾いた土。

 外側は古い木と、日に温められた樹脂。

 縁の布だけに、冷えた苔の匂いが移っている。

 それだけではない。

 樹脂の油っぽさの下に、保存塩に似た刺激がごく薄く混じっていた。

「第六保存塩か?」

「簡易試験なしでは断定しない」

「でも、思ってる」

「候補には入れる」

 傷へ灯りを当てる。

 表面の粉は、塗られた膜のように均一ではなかった。

 細い筋が、樹皮の割れ目へ入り込んでいる。

 ミレアが顔をしかめた。

「奥から来てる」

「匂いが?」

「うん。一度、強くなった」

 風は動いていない。

 葉も、俺の捕香紙も静かなままだ。

 俺は焼いて処理した挟みで、乾いた樹脂の端を一片だけ持ち上げた。

 その下にあったのは、苔ではなかった。

 髪より細い白い糸が、何十本も樹皮の奥へ伸びている。

 一本がわずかに縮む。

 続いて。

 濡れた石と青い苔の匂いが、傷の中から一度だけ脈打った。

 夕暮れは、まだ来ていない。

 それなのに。

 木の傷の中で――夜が生きていた。


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