夕暮れは、まだ来ていない
旧樹脂採取道は、真昼の光にさらされていた。
荷車を通すために枝を払った古い道で、頭上を遮るものが少ない。乾き始めた轍まで、陽が届いている。
なのに、風は夕暮れの匂いを運んでいた。
濡れた石。
指で揉んだ青い苔。
夜行性の魔物が巣を出る頃、沢底から上がってくる冷えた匂いだ。
「道は昼のまま」
ミレアが鼻先を上げた。
「でも、鼻だけ夜だと思わされる」
「お前は?」
「昼だって分かってる。肩は朝と同じ。頭も、まだ取れる」
「まだ、は記録するぞ」
「どうぞ」
俺も自分の状態を確かめた。
甘い残香を浴びた後の頭痛は、支局を出た時より弱い。視界も、文字を読む速さも変わらない。
「俺も続行可能。ただし、匂いが濃くなったら一度離れる」
「採用」
共同停止条件を確認し、道へ入った。
最初に見つけた夜走り鼠は、走っていなかった。
日向の轍を、黒い腹を擦るように進んでいる。二股の尾は土を引き、森鷹の影が横切っても顔を上げない。
眠いのだ。
それでも、石の陰へ入って丸くなるたび、何かに急かされるように立ち上がる。
「追うか?」
「あれを?」
「進路を見れば、発生源へ近づける」
ミレアは答えず、右手で道の先を示した。
宵灯蛾が一匹、低い枝へぶつかった。
黒い翅の青白い斑点が、昼の光の中で弱く明滅している。飛び上がろうとしては葉へ落ち、また同じ向きへ翅を開く。
その上を、森鷹が旋回していた。
鼠を追えば、蛾は見失う。
蛾を採れば、鼠の足跡は先へ行く。
どちらも発生源へ向かっている可能性がある。どちらも、このままでは長く持たない。
「止める」
ミレアが言った。
「追跡を?」
「この二匹を。原因は逃げても、死なせたら今日の状態は取り直せない」
正しい。
異常な活動そのものが試料だ。死骸にしてしまえば、昼に動けていた理由は取れない。調査対象を死なせて近道をするのは、調査とは呼ばない。
「鼠は俺が影へ入れる。蛾を頼む」
「左腕は使わない」
「分かってる」
俺は黒い遮光布を道脇の倒木へ掛けた。遮光布なら、失敗しても外せば元の明るさへ戻せる。鼠の正面には出ない。右側の土へ小石を落とし、音だけで進路を半歩ずらす。
夜走り鼠は跳ねる力も残っていなかった。よろめきながら布の下へ入り、そこで腹を土へつける。
一方、ミレアは外套の裾を右手で広げ、森鷹と宵灯蛾の間へ立った。
鷹が一度低く降りる。
ミレアは動かない。
灰褐色の耳だけが、羽音を追って向きを変えた。
蛾が外套の影へ落ちる。
「箱」
俺は蓋を外した木箱を、地面へ滑らせた。
ミレアは蛾へ触れず、外套の影を少しずつ箱まで動かす。蛾は自分から暗がりへ入り、翅を閉じた。
森鷹が諦めて枝の向こうへ消える。
「共同調査者の判断により追跡を中断。疲弊個体二匹を一時保護」
記録しながら言う。
「理由は?」
「再観察可能な状態を守るため」
「格好いい方だけ書いた」
「他にあるのか」
「見捨てるのが嫌だった」
筆先が止まった。
業務記録に必要かと言われれば、いらない。
だが、何を守るために追跡を止めたのかは、次の判断に残る。保護を共同手順にした以上、片方だけの理由では足りない。
「……併記する」
「本当に?」
「共同報告だろ」
ミレアは少しだけ笑った。
遮光布の下で、夜走り鼠の呼吸がようやく遅くなった。
箱の宵灯蛾も、青白い斑点の明滅を止めている。
眠らせたまま触る理由はない。
俺は鼠が通った轍と、蛾が落ちた葉から別々に布を取った。接触範囲はそこまでだ。
鼠の轍には、乾いた土と黒い毛。
葉には、薄い羽粉。
その両方へ、見慣れない青灰色の粒が混じっていた。
「同じ道を通ったから、同じものが付いた?」
「その可能性はある。ただ、付き方が違う」
鼠は、背の毛に粒が多い。
腹を擦って歩いた轍には、ほとんど落ちていない。
宵灯蛾も、枝へぶつけやすい翅の外側だけに粒が残っている。
「地面から拾ったなら、鼠は腹にも付く」
「蛾は飛んでる。二匹とも、身体の高いところを何かへ触れた」
同じ場所で付いたのか。
違う場所に同じものがあるのか。
採取地点を増やす前に、まず付着の向きを記録する。
あとから「森中にあった」と思い込まないためだ。
ミレアは鼠の進んできた轍を見て、それから蛾がぶつかった枝を見上げた。
「高さは違う。でも、どっちも樹脂を採ってた木のそば」
旧道の木には、採取傷が同じ高さで並んでいるわけではない。
幹の太さ。
傾き。
人が刃を入れやすかった位置。
そして廃道になった後、魔物が身体を擦りやすくなった位置。
俺たちは、最も近い古傷へ向かった。
◇
蛾が落ちた枝の下には、古い樹脂傷があった。
三年前まで、樹脂を採るために樹皮を斜めへ削った跡だ。傷は黒く乾き、普通なら新しい匂いなど残っていない。
その縁だけ、わずかに濡れていた。
「鼠も寄ってる」
ミレアが足元を示す。
小さな爪跡が、傷の真下で何度も重なっている。幹の低い位置には、黒い毛が三本貼りついていた。
宵灯蛾の翅が触れた高さには、青灰色の粉。
夜走り鼠の毛にも、同じ色の粉が付いている。
「道を通ったから付いたんじゃない」
「ここで付けてる」
ミレアは傷へ鼻を近づけず、右手を添える手前で止めた。
「擦った跡が新しい。蛾は翅、鼠は背中」
俺は傷の上、下、触れられていない裏側の樹皮から別々に布を取った。
保存液はない。
だから持ち帰る前提ではなく、この場で比べる。
何も載せていない素焼き皿。
傷の外側。
濡れた縁。
三枚を風下へ並べた。
空の皿は乾いた土。
外側は古い木と、日に温められた樹脂。
縁の布だけに、冷えた苔の匂いが移っている。
それだけではない。
樹脂の油っぽさの下に、保存塩に似た刺激がごく薄く混じっていた。
「第六保存塩か?」
「簡易試験なしでは断定しない」
「でも、思ってる」
「候補には入れる」
傷へ灯りを当てる。
表面の粉は、塗られた膜のように均一ではなかった。
細い筋が、樹皮の割れ目へ入り込んでいる。
ミレアが顔をしかめた。
「奥から来てる」
「匂いが?」
「うん。一度、強くなった」
風は動いていない。
葉も、俺の捕香紙も静かなままだ。
俺は焼いて処理した挟みで、乾いた樹脂の端を一片だけ持ち上げた。
その下にあったのは、苔ではなかった。
髪より細い白い糸が、何十本も樹皮の奥へ伸びている。
一本がわずかに縮む。
続いて。
濡れた石と青い苔の匂いが、傷の中から一度だけ脈打った。
夕暮れは、まだ来ていない。
それなのに。
木の傷の中で――夜が生きていた。




