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獣の旅路と香りの地図  作者: sakumaaa
第一章 森がおかしい

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8/20

獣人は人間より嘘が上手い?

 旧見張り小屋の扉は、怪我人に優しくない。


 湿気を吸った板が枠へ噛み、肩で押さなければ開かなかった。


「平気」


 まだ何も聞いていないのに、ミレアが言った。


 左腕を身体の脇へつけたまま、右手だけで扉を押す。


 足を踏ん張った瞬間、呼吸が途切れた。


 俺は横から扉へ体重をかける。


「今の平気は、何に対する返事だ」


「歩けるし、扉も開く」


「開けたのは俺だ」


「共同作業」


「便利な言葉を覚えたな」


 小屋へ入ると、昨夜の灰が冷えた匂いを残していた。


 俺は火を起こし直す。


 ミレアは椅子へ座るより先に、封香管を置いた机を指した。


「針、調べるんでしょ」


「その前に肩だ」


「血は止まってる」


「歩幅が短くなってる」


 ミレアの目が俺へ戻った。


「最初の坂では右と左が同じだった。途中から左足を出すたび半足ぶん狭い。木の根を越えるときは右足から。扉も、外套の留め具も右手だけだ」


「鼻で分かった?」


「見れば分かる」


「匂いの専門家なのに」


「鼻で分からないと何も分からなくなる専門家は、長生きしない」


 ミレアは腰の薬草袋を右手で開いた。


 葉を二枚、指先で潰す。


 青く苦い匂いが広がった。


 強い。


 傷の熱も、歩いて乾き始めた汗の匂いも、その下へ押し込めるほどだ。


「薬だよ」


「効くのは知ってる。ついでに隠せるのもな」


「獣人は人間より嘘が上手いと思った?」


「逆だ。身体が正直すぎる」


 ミレアは何か返しかけ、諦めたように右手で髪を払った。


「包帯、替えるんでしょ」


「替える」


「じゃあ早く」


     ◇


 破れた外套を肩から外す。


 内側にこもっていた空気が、火の前へゆっくり逃げた。


 一日歩いてまとった草と煙。


 汗を吸って温まった上衣。


 その上へ、潰したばかりの薬草の苦い匂いが重なっている。


 包帯の下では、三つの傷が赤く腫れ始めていた。


 黒い変色はない。


 血も止まっている。


 だが左肩だけ、右より明らかに熱を持っていた。


「腕は上げるな」


「上げてない」


「上げられない、だろ」


 ミレアは黙った。


 救急布へ薬草を薄く塗り、傷へ当てる。


 邪魔にならないよう、ミレアが髪を右側へ寄せた。


 火に照らされた左肩から背中の線が、普段よりよく見える。


 外套の中に隠れていた肌にはまだ熱が残り、薬草の苦さの下から、乾き始めた汗のごく薄い酸っぱさが戻ってきていた。


 汗で湿った髪の先が、肩口へ張りついている。


 見ているのは傷だ。


 そのはずなのに。


 包帯を回す手が、一拍だけ遅れた。


「カイル」


「痛んだか」


「そっち、息止まってた」


「結び目を確認してた」


「便利な言葉」


「薬草を増やすぞ」


「それは困る」


 軽口が戻ったなら、意識ははっきりしている。


 だからといって、調査を続けていい理由にはならない。


「今夜はここで止まる。痺れ、熱、腫れを朝まで見る」


「朝に増えてなかったら?」


「左腕は使わない。追跡は短時間。悪化したら、その場で戻る」


「あたしの判断は?」


「聞く。ただし『平気』は禁止だ」


 ミレアは新しい包帯の上から肩を確かめようとして――俺に手首を止められた。


「触るな」


「厳しい」


「庇われた側だからな」


「じゃあ、庇った側からも条件」


 ミレアの鼻先が、わずかに俺へ向く。


「カイルも頭痛を隠さない。さっきから息が浅い。あの甘い匂い、まだ鼻の奥に残ってるでしょ」


 自分のことになると、観察される側は面倒だ。


「少し痛む」


「少しは禁止」


「俺の言葉まで取り上げるな」


「身体が正直なんでしょ?」


 返された。


「仕事に支障はない。ただ、甘い残香の濃い場所へ入れば判断が遅れる可能性がある」


「それなら使える」


 ミレアが頷く。


「次から、どっちかが隠したら戻る」


「停止権を体調にも使うのか」


「使っちゃ駄目?」


「いや」


 俺は記録板を引き寄せた。


「採用する」


     ◇


 事故報告の最初の一行は、すぐに書けた。


 ――調査官カイル・レインは、移り香を塗布者本人の進路と誤認した。


 次に、原試料を囮として廃棄したこと。


 塗布者を逃がしたこと。


 共同調査者が負傷したことを書く。


 ミレアが机の向こうから覗き込んだ。


「あたしのこと、抜けてる」


「負傷なら書いた」


「違う。頭が痛くて方向を取りにくかったのに、『追える』って言ったこと。分岐で止めなかったこと」


「進路を決めたのは俺だ」


「一緒に入ったのはあたし」


「書けば、お前にも責任が付く」


「書かなかったら、次も誰かが『平気』で通す」


 右手の指が、記録板の空いた行を叩く。


「あたしを悪く書かない報告じゃなくて、次に止まれる報告にして」


 人間の役人が持ち帰る記録を、ミレアはまだ全面的には信じていない。


 それでも、自分に不利な事実をその記録へ預けようとしている。


 俺は一行を足した。


 ――共同調査者は嗅覚過負荷の程度を申告せず、調査停止権を行使しなかった。


 ――両名とも、身体状態と判断確度の共有が不十分だった。


「これでどうだ」


「いい。庇ったところは、もう少し格好よく」


「事実だけ書く」


「人間は嘘が下手だね」


「今の話の結論が変わってるぞ」


     ◇


 火が安定してから、封香管の針を平皿へ移した。


 一本目と二本目には、針尾山猫の獣脂と、あの不自然な甘さ。


 三本目の根元には、それとは別に白い繊維が絡んでいた。


 挟みで外し、灯りへ透かす。


「毛?」


「家畜のものに近い。山猫より柔らかくて、縮れてる」


 未使用の布へ移す。


 乾いた藁。


 古い木柵。


 ごく弱いが、森の中だけでは付きにくい組み合わせだ。


 さらに灯りを横から当てる。


 白い毛は、針へ乾いた状態で絡んだわけではない。


 根元を覆う甘い油膜へ、あとから貼りついている。


 先に甘いものが付いた。


 そのあと、家畜のいる場所へ触れた。


「一番近い放牧地は?」


「開拓村の北柵」


 これだけで、針尾山猫が村へ入ったとは断定できない。


 毛の付いた荷や服へ触れた可能性もある。


 時刻も経路も分からない。


 だが、調べる場所は絞れる。


「夜明けに北柵を見る」


「続行?」


「朝の再評価を通ればな」


 ミレアは立ち上がらなかった。


 椅子へ深く座り直す。


 少なくとも今は、条件を守る気があるらしい。


 俺は白い毛を別の封香管へ収めた。


 甘い道は、森の奥だけに引かれていたんじゃない。


 すでに一度、人里の匂いへ触れている。


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