獣人は人間より嘘が上手い?
旧見張り小屋の扉は、怪我人に優しくない。
湿気を吸った板が枠へ噛み、肩で押さなければ開かなかった。
「平気」
まだ何も聞いていないのに、ミレアが言った。
左腕を身体の脇へつけたまま、右手だけで扉を押す。
足を踏ん張った瞬間、呼吸が途切れた。
俺は横から扉へ体重をかける。
「今の平気は、何に対する返事だ」
「歩けるし、扉も開く」
「開けたのは俺だ」
「共同作業」
「便利な言葉を覚えたな」
小屋へ入ると、昨夜の灰が冷えた匂いを残していた。
俺は火を起こし直す。
ミレアは椅子へ座るより先に、封香管を置いた机を指した。
「針、調べるんでしょ」
「その前に肩だ」
「血は止まってる」
「歩幅が短くなってる」
ミレアの目が俺へ戻った。
「最初の坂では右と左が同じだった。途中から左足を出すたび半足ぶん狭い。木の根を越えるときは右足から。扉も、外套の留め具も右手だけだ」
「鼻で分かった?」
「見れば分かる」
「匂いの専門家なのに」
「鼻で分からないと何も分からなくなる専門家は、長生きしない」
ミレアは腰の薬草袋を右手で開いた。
葉を二枚、指先で潰す。
青く苦い匂いが広がった。
強い。
傷の熱も、歩いて乾き始めた汗の匂いも、その下へ押し込めるほどだ。
「薬だよ」
「効くのは知ってる。ついでに隠せるのもな」
「獣人は人間より嘘が上手いと思った?」
「逆だ。身体が正直すぎる」
ミレアは何か返しかけ、諦めたように右手で髪を払った。
「包帯、替えるんでしょ」
「替える」
「じゃあ早く」
◇
破れた外套を肩から外す。
内側にこもっていた空気が、火の前へゆっくり逃げた。
一日歩いてまとった草と煙。
汗を吸って温まった上衣。
その上へ、潰したばかりの薬草の苦い匂いが重なっている。
包帯の下では、三つの傷が赤く腫れ始めていた。
黒い変色はない。
血も止まっている。
だが左肩だけ、右より明らかに熱を持っていた。
「腕は上げるな」
「上げてない」
「上げられない、だろ」
ミレアは黙った。
救急布へ薬草を薄く塗り、傷へ当てる。
邪魔にならないよう、ミレアが髪を右側へ寄せた。
火に照らされた左肩から背中の線が、普段よりよく見える。
外套の中に隠れていた肌にはまだ熱が残り、薬草の苦さの下から、乾き始めた汗のごく薄い酸っぱさが戻ってきていた。
汗で湿った髪の先が、肩口へ張りついている。
見ているのは傷だ。
そのはずなのに。
包帯を回す手が、一拍だけ遅れた。
「カイル」
「痛んだか」
「そっち、息止まってた」
「結び目を確認してた」
「便利な言葉」
「薬草を増やすぞ」
「それは困る」
軽口が戻ったなら、意識ははっきりしている。
だからといって、調査を続けていい理由にはならない。
「今夜はここで止まる。痺れ、熱、腫れを朝まで見る」
「朝に増えてなかったら?」
「左腕は使わない。追跡は短時間。悪化したら、その場で戻る」
「あたしの判断は?」
「聞く。ただし『平気』は禁止だ」
ミレアは新しい包帯の上から肩を確かめようとして――俺に手首を止められた。
「触るな」
「厳しい」
「庇われた側だからな」
「じゃあ、庇った側からも条件」
ミレアの鼻先が、わずかに俺へ向く。
「カイルも頭痛を隠さない。さっきから息が浅い。あの甘い匂い、まだ鼻の奥に残ってるでしょ」
自分のことになると、観察される側は面倒だ。
「少し痛む」
「少しは禁止」
「俺の言葉まで取り上げるな」
「身体が正直なんでしょ?」
返された。
「仕事に支障はない。ただ、甘い残香の濃い場所へ入れば判断が遅れる可能性がある」
「それなら使える」
ミレアが頷く。
「次から、どっちかが隠したら戻る」
「停止権を体調にも使うのか」
「使っちゃ駄目?」
「いや」
俺は記録板を引き寄せた。
「採用する」
◇
事故報告の最初の一行は、すぐに書けた。
――調査官カイル・レインは、移り香を塗布者本人の進路と誤認した。
次に、原試料を囮として廃棄したこと。
塗布者を逃がしたこと。
共同調査者が負傷したことを書く。
ミレアが机の向こうから覗き込んだ。
「あたしのこと、抜けてる」
「負傷なら書いた」
「違う。頭が痛くて方向を取りにくかったのに、『追える』って言ったこと。分岐で止めなかったこと」
「進路を決めたのは俺だ」
「一緒に入ったのはあたし」
「書けば、お前にも責任が付く」
「書かなかったら、次も誰かが『平気』で通す」
右手の指が、記録板の空いた行を叩く。
「あたしを悪く書かない報告じゃなくて、次に止まれる報告にして」
人間の役人が持ち帰る記録を、ミレアはまだ全面的には信じていない。
それでも、自分に不利な事実をその記録へ預けようとしている。
俺は一行を足した。
――共同調査者は嗅覚過負荷の程度を申告せず、調査停止権を行使しなかった。
――両名とも、身体状態と判断確度の共有が不十分だった。
「これでどうだ」
「いい。庇ったところは、もう少し格好よく」
「事実だけ書く」
「人間は嘘が下手だね」
「今の話の結論が変わってるぞ」
◇
火が安定してから、封香管の針を平皿へ移した。
一本目と二本目には、針尾山猫の獣脂と、あの不自然な甘さ。
三本目の根元には、それとは別に白い繊維が絡んでいた。
挟みで外し、灯りへ透かす。
「毛?」
「家畜のものに近い。山猫より柔らかくて、縮れてる」
未使用の布へ移す。
乾いた藁。
古い木柵。
ごく弱いが、森の中だけでは付きにくい組み合わせだ。
さらに灯りを横から当てる。
白い毛は、針へ乾いた状態で絡んだわけではない。
根元を覆う甘い油膜へ、あとから貼りついている。
先に甘いものが付いた。
そのあと、家畜のいる場所へ触れた。
「一番近い放牧地は?」
「開拓村の北柵」
これだけで、針尾山猫が村へ入ったとは断定できない。
毛の付いた荷や服へ触れた可能性もある。
時刻も経路も分からない。
だが、調べる場所は絞れる。
「夜明けに北柵を見る」
「続行?」
「朝の再評価を通ればな」
ミレアは立ち上がらなかった。
椅子へ深く座り直す。
少なくとも今は、条件を守る気があるらしい。
俺は白い毛を別の封香管へ収めた。
甘い道は、森の奥だけに引かれていたんじゃない。
すでに一度、人里の匂いへ触れている。




