共同調査者に庇われました
枝を踏んだ相手は、すぐに走り始めた。
俺たちは岩鎧熊を迂回し、炭焼き道へ戻る。
試料鞄を覆っていた外套を、ミレアが肩へ戻した。
俺の襟には、彼女の風見布が巻かれたままだ。
濡れた土に靴跡が残っている。
爪先は細い。
踵には四角い鋲。
俺たちの靴でも、獣人の巡回靴でもない。
「追えるか」
「風が悪い」
ミレアは鼻の脇を指で押さえた。
「甘いのが濃すぎる。でも、足なら追える」
俺の仕事も同じだ。
匂いが使えないなら、土を見る。
折れた草を見る。
分からないものを、分かったことにしない。
そのはずだった。
◇
靴跡は、古い炭窯の先で二つに分かれていた。
左は谷へ下る細道。
右は尾根へ戻る巡回路。
俺は左手の茨へ捕香紙を当てた。
例の甘い匂い。
それに、灯火油と濡れた革。
茨の下には、四角い鋲らしき跡まである。
「左だ」
ミレアは返事をせず、右側の落ち葉を一枚めくった。
「こっちにも擦れた跡がある」
「鹿かもしれない。左には匂いと靴跡が揃ってる」
口にすると、自分でも十分な証拠に聞こえた。
新しい原試料が手に入れば、保存成分を調べられる。
塗った本人まで押さえられれば、岩鎧熊を討伐せずに済むかもしれない。
あと少し。
そう思っていた。
「どのくらい確か?」
ミレアが聞く。
いつもの俺なら、可能性を三つくらい並べてから答える。
「追うには十分だ」
俺たちは左へ入った。
谷道は昨夜の雨で半分崩れていた。
右手は切り立った土壁。
左手は石の転がる沢。
二人が横に並べる幅はない。
先へ進むほど、甘い匂いは濃くなっていく。
なのに、ミレアの歩調は遅くなった。
「頭か?」
「追える」
答えになっていない。
そこで止まるべきだった。
だが、十歩ほど先。
枝に黒い布袋が引っかかっている。
口から、細い硝子瓶がのぞいていた。
「原試料だ」
俺は駆け寄った。
手袋を替え、袋を取る。
鼻の奥へ、甘さが針のように刺さった。
花蜜じゃない。
熟れた果実でもない。
両方の甘い部分だけを乱暴に重ね、獣脂で森へ貼りつけたような匂いだ。
これだ。
そう思った直後、袋の下から一本の縄が伸びていることに気づいた。
縄は茨をくぐり、倒木を回り、谷の上へ戻っている。
表面には甘い液。
それから灯火油。
俺は、さっき靴跡だと思った四角い窪みの一つへ指を当てた。
小さい。
鋲より細い。
縄を留めた金具の跡だ。
「……違う」
喉が乾く。
「人が通った跡じゃない。匂いを付けた縄を引きずった跡だ」
ミレアが振り返った。
そのとき、右の尾根から小石が一つ転がり落ちた。
塗布者は右へ逃げた。
左へ縄と袋を落とし、匂いと跡を作った。
追う者を谷へ誘導するために。
昔も、同じことをした。
荷車へ移った魔物臭を、そこに魔物がいた証拠だと書いた。
匂いそのものは合っていた。
どこにいたかを決めた俺が、間違えた。
「戻る」
言い終えるより早く、土壁の上で枝が折れた。
灰色の塊が落ちてくる。
岩鎧熊だった。
甘い縄を追って、俺たちと同じ谷道へ入ってきている。
退路側からも、低い唸り声。
灰褐色の細長い影が現れた。
猫に似た耳。
尾の先には、黒い針の束。
「伏せて!」
ミレアの肩が胸へぶつかった。
濡れた外套の冷たさ。
その内側に残っていた身体の熱。
走って乱れた髪の匂いと、短い息が一瞬だけ近づく。
意識するより先に、俺は沢側へ転がされた。
直後。
灰色の影が、ミレアの横を裂いた。
布が破れる音。
ミレアの外套が裂けた。
左肩に、細い黒い針が三本立っている。
「っ……」
声を飲み込みながら、ミレアは山刀を抜いた。
「立って。熊が来る」
岩鎧熊は、逃げ道を探すように頭を振っている。
灰色の魔物も、俺たちを獲物として見ているようには見えなかった。
二頭とも。
鼻先が何度も、俺の持つ布袋へ向く。
甘い匂い。
道は狭い。
前後を魔物に挟まれている。
煙の薬包は、さっき使った。
俺の手には原試料がある。
これを持ち帰れれば、異常の原因へ一気に近づける。
ミレアの膝が、一度だけ沈んだ。
そこでようやく、考える順番が変わった。
「ミレア、沢へ三歩下がれ」
「それ、どうする気」
「捨てる」
「貴重なんでしょ」
「お前よりは安い」
布袋の封を解いた。
頭が痛くなるほどの甘さが噴き出す。
俺は袋ごと、谷道の奥へ投げた。
硝子の割れる音。
濃い甘さが、沢沿いの風へ一気に広がった。
先に反応したのは灰色の魔物だった。
俺たちから視線を外し、四つ足で駆ける。
岩鎧熊も土壁を削りながら、その後を追った。
「今だ」
ミレアの右腕を俺の肩へ回す。
左肩には触れない。
身体を支えると、裂けた外套がわずかに開いた。
雨の残る布の下から、走ったあとの薄い汗と、温まった肌の匂いが近づく。
普段より少し濃い。
それを意識している場合じゃない。
崩れた斜面を上った。
◇
尾根へ出ても、二頭は戻ってこなかった。
人影も消えている。
原試料も失った。
塗布者も逃がした。
俺が道を間違えたせいで。
「座れ」
「歩ける」
「命令だ」
「調査官の?」
「庇われた間抜けの」
ミレアが笑おうとした。
途中で息を詰める。
笑える状態ではない。
俺は手袋を替え、救急布と抜針具を取り出した。
「肩を見る。破れた布を切る。傷の周りと、抜いた針の匂いも確認したい」
「理由は?」
「毒と付着物を見分ける。嫌なら触らない。そのまま支局まで戻る」
ミレアは右手で外套の留め具を外した。
「触っていい。左腕は動かさないで」
「了解」
破れた部分だけを切る。
濡れた布が皮膚から離れ、左肩が露わになった。
雨に晒されていた外套とは違い、その内側にはまだ身体の熱が残っている。
走って乱れた髪。
走ったあとの薄い汗。
薬草や雨の匂いの奥に、それらとは違うミレア自身の匂いが近かった。
傷を見るために近づいている。
それ以外の理由はない。
なのに、必要のないところまで拾う自分の鼻が、今だけは少し邪魔だった。
仕事へ意識を戻す。
血の金属っぽい匂いは薄い。
見える範囲では、傷も深くない。
ただ、黒い針の根元には獣脂と――例の甘い匂いが付いていた。
一本ずつ抜き、封香管へ入れる。
最後に、傷口から指一本ほど離れた位置で空気を浅く取った。
薬草。
濡れた布に残った雨。
薄い血の匂い。
腐ったような異臭はない。
痺れ毒でよく出る、青臭い刺激も感じない。
「強い毒の可能性は低い。圧迫して戻る」
「原試料は?」
「全部、沢だ」
「追ってた人は?」
「逃がした」
「報告書は?」
答える前に、包帯を結ぶ。
「俺が移り香を本人の進路だと誤認した」
一度、結び目を確認する。
「俺の判断で谷へ入って、共同調査者に庇われた。原試料は救出のため廃棄。塗布者は逃走」
「そこまで書くんだ」
「そう書く」
ミレアが俺の顔を見た。
「昔もやった顔してる」
痛いところは肩のはずなのに、よく見ている。
「荷車へ移った匂いを、魔物の居場所だと誤認したことがある」
「それで?」
「無関係な運び手を疑わせた。本当の経路も見失った」
「今回と同じ?」
「同じだ」
ミレアは何も言わなかった。
森の下で、岩鎧熊の遠い唸り声が響く。
しばらくして。
「じゃあ次は、あたしが聞いた時に確かなふりをしないで」
「次をくれるのか」
「帰れたらね」
ミレアが立ち上がる。
身体が、わずかに右へ傾いた。
俺は何も言わず、その右側へ回った。
一瞬だけこちらを見たミレアも、何も言わない。
そのまま、少しだけ体重を預けてきた。
今度は確認しなかった。
歩き出す前に、俺は封香管の中の黒い針を見る。
針尾山猫。
本来なら、岩鎧熊とは狩場も餌も違う。
その針にまで、同じ甘い匂いが染みついている。
集められているのは――一種類じゃない。




