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獣の旅路と香りの地図  作者: sakumaaa
第一章 森がおかしい

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7/20

共同調査者に庇われました

 枝を踏んだ相手は、すぐに走り始めた。


 俺たちは岩鎧熊を迂回し、炭焼き道へ戻る。


 試料鞄を覆っていた外套を、ミレアが肩へ戻した。


 俺の襟には、彼女の風見布が巻かれたままだ。


 濡れた土に靴跡が残っている。


 爪先は細い。


 踵には四角い鋲。


 俺たちの靴でも、獣人の巡回靴でもない。


「追えるか」


「風が悪い」


 ミレアは鼻の脇を指で押さえた。


「甘いのが濃すぎる。でも、足なら追える」


 俺の仕事も同じだ。


 匂いが使えないなら、土を見る。


 折れた草を見る。


 分からないものを、分かったことにしない。


 そのはずだった。


     ◇


 靴跡は、古い炭窯の先で二つに分かれていた。


 左は谷へ下る細道。


 右は尾根へ戻る巡回路。


 俺は左手の茨へ捕香紙を当てた。


 例の甘い匂い。


 それに、灯火油と濡れた革。


 茨の下には、四角い鋲らしき跡まである。


「左だ」


 ミレアは返事をせず、右側の落ち葉を一枚めくった。


「こっちにも擦れた跡がある」


「鹿かもしれない。左には匂いと靴跡が揃ってる」


 口にすると、自分でも十分な証拠に聞こえた。


 新しい原試料が手に入れば、保存成分を調べられる。


 塗った本人まで押さえられれば、岩鎧熊を討伐せずに済むかもしれない。


 あと少し。


 そう思っていた。


「どのくらい確か?」


 ミレアが聞く。


 いつもの俺なら、可能性を三つくらい並べてから答える。


「追うには十分だ」


 俺たちは左へ入った。


 谷道は昨夜の雨で半分崩れていた。


 右手は切り立った土壁。


 左手は石の転がる沢。


 二人が横に並べる幅はない。


 先へ進むほど、甘い匂いは濃くなっていく。


 なのに、ミレアの歩調は遅くなった。


「頭か?」


「追える」


 答えになっていない。


 そこで止まるべきだった。


 だが、十歩ほど先。


 枝に黒い布袋が引っかかっている。


 口から、細い硝子瓶がのぞいていた。


「原試料だ」


 俺は駆け寄った。


 手袋を替え、袋を取る。


 鼻の奥へ、甘さが針のように刺さった。


 花蜜じゃない。


 熟れた果実でもない。


 両方の甘い部分だけを乱暴に重ね、獣脂で森へ貼りつけたような匂いだ。


 これだ。


 そう思った直後、袋の下から一本の縄が伸びていることに気づいた。


 縄は茨をくぐり、倒木を回り、谷の上へ戻っている。


 表面には甘い液。


 それから灯火油。


 俺は、さっき靴跡だと思った四角い窪みの一つへ指を当てた。


 小さい。


 鋲より細い。


 縄を留めた金具の跡だ。


「……違う」


 喉が乾く。


「人が通った跡じゃない。匂いを付けた縄を引きずった跡だ」


 ミレアが振り返った。


 そのとき、右の尾根から小石が一つ転がり落ちた。


 塗布者は右へ逃げた。


 左へ縄と袋を落とし、匂いと跡を作った。


 追う者を谷へ誘導するために。


 昔も、同じことをした。


 荷車へ移った魔物臭を、そこに魔物がいた証拠だと書いた。


 匂いそのものは合っていた。


 どこにいたかを決めた俺が、間違えた。


「戻る」


 言い終えるより早く、土壁の上で枝が折れた。


 灰色の塊が落ちてくる。


 岩鎧熊だった。


 甘い縄を追って、俺たちと同じ谷道へ入ってきている。


 退路側からも、低い唸り声。


 灰褐色の細長い影が現れた。


 猫に似た耳。


 尾の先には、黒い針の束。


「伏せて!」


 ミレアの肩が胸へぶつかった。


 濡れた外套の冷たさ。


 その内側に残っていた身体の熱。


 走って乱れた髪の匂いと、短い息が一瞬だけ近づく。


 意識するより先に、俺は沢側へ転がされた。


 直後。


 灰色の影が、ミレアの横を裂いた。


 布が破れる音。


 ミレアの外套が裂けた。


 左肩に、細い黒い針が三本立っている。


「っ……」


 声を飲み込みながら、ミレアは山刀を抜いた。


「立って。熊が来る」


 岩鎧熊は、逃げ道を探すように頭を振っている。


 灰色の魔物も、俺たちを獲物として見ているようには見えなかった。


 二頭とも。


 鼻先が何度も、俺の持つ布袋へ向く。


 甘い匂い。


 道は狭い。


 前後を魔物に挟まれている。


 煙の薬包は、さっき使った。


 俺の手には原試料がある。


 これを持ち帰れれば、異常の原因へ一気に近づける。


 ミレアの膝が、一度だけ沈んだ。


 そこでようやく、考える順番が変わった。


「ミレア、沢へ三歩下がれ」


「それ、どうする気」


「捨てる」


「貴重なんでしょ」


「お前よりは安い」


 布袋の封を解いた。


 頭が痛くなるほどの甘さが噴き出す。


 俺は袋ごと、谷道の奥へ投げた。


 硝子の割れる音。


 濃い甘さが、沢沿いの風へ一気に広がった。


 先に反応したのは灰色の魔物だった。


 俺たちから視線を外し、四つ足で駆ける。


 岩鎧熊も土壁を削りながら、その後を追った。


「今だ」


 ミレアの右腕を俺の肩へ回す。


 左肩には触れない。


 身体を支えると、裂けた外套がわずかに開いた。


 雨の残る布の下から、走ったあとの薄い汗と、温まった肌の匂いが近づく。


 普段より少し濃い。


 それを意識している場合じゃない。


 崩れた斜面を上った。


     ◇


 尾根へ出ても、二頭は戻ってこなかった。


 人影も消えている。


 原試料も失った。


 塗布者も逃がした。


 俺が道を間違えたせいで。


「座れ」


「歩ける」


「命令だ」


「調査官の?」


「庇われた間抜けの」


 ミレアが笑おうとした。


 途中で息を詰める。


 笑える状態ではない。


 俺は手袋を替え、救急布と抜針具を取り出した。


「肩を見る。破れた布を切る。傷の周りと、抜いた針の匂いも確認したい」


「理由は?」


「毒と付着物を見分ける。嫌なら触らない。そのまま支局まで戻る」


 ミレアは右手で外套の留め具を外した。


「触っていい。左腕は動かさないで」


「了解」


 破れた部分だけを切る。


 濡れた布が皮膚から離れ、左肩が露わになった。


 雨に晒されていた外套とは違い、その内側にはまだ身体の熱が残っている。


 走って乱れた髪。


 走ったあとの薄い汗。


 薬草や雨の匂いの奥に、それらとは違うミレア自身の匂いが近かった。


 傷を見るために近づいている。


 それ以外の理由はない。


 なのに、必要のないところまで拾う自分の鼻が、今だけは少し邪魔だった。


 仕事へ意識を戻す。


 血の金属っぽい匂いは薄い。


 見える範囲では、傷も深くない。


 ただ、黒い針の根元には獣脂と――例の甘い匂いが付いていた。


 一本ずつ抜き、封香管へ入れる。


 最後に、傷口から指一本ほど離れた位置で空気を浅く取った。


 薬草。


 濡れた布に残った雨。


 薄い血の匂い。


 腐ったような異臭はない。


 痺れ毒でよく出る、青臭い刺激も感じない。


「強い毒の可能性は低い。圧迫して戻る」


「原試料は?」


「全部、沢だ」


「追ってた人は?」


「逃がした」


「報告書は?」


 答える前に、包帯を結ぶ。


「俺が移り香を本人の進路だと誤認した」


 一度、結び目を確認する。


「俺の判断で谷へ入って、共同調査者に庇われた。原試料は救出のため廃棄。塗布者は逃走」


「そこまで書くんだ」


「そう書く」


 ミレアが俺の顔を見た。


「昔もやった顔してる」


 痛いところは肩のはずなのに、よく見ている。


「荷車へ移った匂いを、魔物の居場所だと誤認したことがある」


「それで?」


「無関係な運び手を疑わせた。本当の経路も見失った」


「今回と同じ?」


「同じだ」


 ミレアは何も言わなかった。


 森の下で、岩鎧熊の遠い唸り声が響く。


 しばらくして。


「じゃあ次は、あたしが聞いた時に確かなふりをしないで」


「次をくれるのか」


「帰れたらね」


 ミレアが立ち上がる。


 身体が、わずかに右へ傾いた。


 俺は何も言わず、その右側へ回った。


 一瞬だけこちらを見たミレアも、何も言わない。


 そのまま、少しだけ体重を預けてきた。


 今度は確認しなかった。


 歩き出す前に、俺は封香管の中の黒い針を見る。


 針尾山猫。


 本来なら、岩鎧熊とは狩場も餌も違う。


 その針にまで、同じ甘い匂いが染みついている。


 集められているのは――一種類じゃない。

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