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獣の旅路と香りの地図  作者: sakumaaa
第一章 森がおかしい

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人間の匂いを消せ

「人間の匂いを消せ」


 ミレアは俺を倒木の陰へ座らせると、濡れた苔を靴へ押しつけた。


「着任二日目で人間を辞めろと言われるとは思わなかった」


「全部は無理。今日は匂いだけでいい」


「明日は?」


「働き次第」


 炭焼き道の手前で、ミレアは乾ききっていない自分の外套へ着替えていた。


 返してもらったばかりの調査上着には、今度は灰と砕いた針葉を擦り込まれる。


 せっかく乾いたのに、別の意味でまた汚れていく。


 封鎖された炭焼き道の先には、岩鎧熊がいる。


 俺たちは風下へ回り込んだが、森の魔物にとって人間の生活臭は目立つ。


 石鹸。紙。加工した革。器具に使う金属油。


 俺には薄くても、鼻の利く魔物には「人間がいる」と知らせる旗になる。


「森の匂いだけじゃ足りないのか」


「ここを巡回する者の匂いも要る。知らない奴が入り込んだんじゃなくて、いつもの巡回者が通った場所だと思わせるの」


「お前の?」


「嫌?」


「意味を聞いてから判断したい」


 ミレアが笑い、腰から細い布を外した。


 風向きを見るため、普段は袖口へ結んでいる布だ。


 乾いた薬草と獣毛。


 その奥に、長く触れていた彼女の手の匂いが薄く残っている。


「仕事の意味しかない。これを襟へ巻く」


「了解」


 ミレアが俺の背後へ回る。


 布に残った匂いとは別に、乾きかけた髪と、歩いて温まった身体の匂いが近づいた。


 首筋まで嗅ぐつもりはなくても、この距離なら勝手に入ってくる。


 布が首の後ろを通り、襟へ一周した。


 指先は肌に触れない。


 それでも結び目を締める瞬間だけ、彼女の息が耳の近くへかかった。


「動かないで」


「動いてない」


「息が増えた」


「首を絞められてるからだ」


「緩いよ」


「なら記録違いだな」


 布を結び終えると、ミレアは俺の肩、胸元、背中の空気を順番に確かめた。


 俺が自分で嗅いでも、灰と苔ばかりが鼻につく。


 彼女は眉を寄せる。


「まだ紙」


「紙は捨てられない」


「鞄を置く?」


「試料を取れなくなる」


「面倒な生き物」


 ミレアは自分の乾ききらない外套を、俺の試料鞄へかぶせた。


 雨を吸った布と濡れた獣毛。


 そこへ、彼女が昨日からまとっていた体温の名残がまだ薄く残っている。


 それらが紙と蝋の匂いを覆った。


 襟には、彼女が使っていた布。


 鞄には、彼女の外套。


 さっきまで自分の周りにあった匂いが、少しずつ遠くなる。


「これでいい」


「……俺からお前の匂いがするぞ」


「潜入が終わるまで、あたしの巡回範囲にいるってこと」


「昨日の上着と同じか?」


「似てるけど違う」


「説明を求める」


「帰ってから」


 また後回しにされた。


 偽装は、俺たちを森から消すものじゃない。


 灰と苔だけを大量につければ、そこだけ不自然に匂いが濃くなって逆に目立つ。


 だから森の匂いへ、普段からここを歩いているミレアの匂いを薄く重ねる。


 未知の侵入者ではなく、いつもの巡回者。


 そう誤認させて、気づかれるまでの時間を少し買う。


 熊へ近づいても安全になるわけではない。


     ◇


 炭焼き道は斜面を切るように伸び、途中から黒い石の窪地へ下っていた。


 昔は炭窯が三つ並んでいたらしい。


 今は土へ埋もれ、丸い盛り上がりだけが残っている。


 先を歩いていたミレアが、指を二本立てた。


 二十歩。


 俺たちは身体を低くし、シダの陰へ入った。


 最初に聞こえたのは音だった。


 硬い何かを木へ擦りつける、重い音。


 次に来たのが、湿った獣脂と鉱石の匂い。


 最後に、姿が見えた。


 岩鎧熊は想像より若かった。


 それでも四つ足で立って、背は俺の胸ほどまである。


 肩には灰色の鉱粉が厚く固まり、一本だけ生えた短い角にも同じ粉が付いていた。


 右後ろ足を、わずかにかばっている。


 沢で見つけた足跡と一致した。


 熊は一本の標識杭へ鼻を押しつけていた。


 甘い匂いが塗られた杭だ。


 舐めるわけではない。


 鼻先を擦りつける。


 頭を上げる。


 そして、次の匂いを探す。


「餌だと思ってる?」


 俺が囁くと、ミレアは首を横に振った。


「食べる時の動きじゃない。帰り道を探す時に近い」


 岩鎧熊は山地で鉱塩の匂いを目印に、水場や休息地を巡る。


 もしあの甘い匂いが、その目印と同じ役割をしているなら。


 熊は杭を離れ、窪地の奥へ歩き出した。


 そこにも同じ印がある。


 巣を作る様子はない。


 餌を探して土を掘ることもない。


 ただ、印から印へ向かっている。


「移動してるんじゃない」


 俺は記録板へ線を引いた。


「道を歩かされてる」


 その瞬間、ミレアの手が俺の筆を止めた。


 岩鎧熊が顔を上げている。


 こちらを向いた。


 灰や苔の偽装を嗅ぎ取ったのか。


 ――違う。


 熊の鼻先は、俺たちよりわずかに右へ向いていた。


 シダの向こうに、新しい標識杭が立っている。


 塗られた甘い液が、まだ濡れていた。


 岩鎧熊が一歩進む。


 俺たちは動けない。


 ミレアが俺の襟をつかみ、さらに地面へ伏せさせた。


 彼女の外套に包まれた試料鞄が、胸の下で小さく軋む。


 熊が杭へ近づき、鼻を寄せる。


 そのとき、風向きが変わった。


 襟元から、ミレアの匂いが窪地へ流れる。


 薬草と乾いた獣毛。


 その下に、歩いて温まった皮膚と、乾きかけた髪の匂い。


 今の俺がまとっているのに、どれも俺のものではない。


 岩鎧熊の耳が動いた。


 今度こそ、鼻先がこちらを向く。


「偽装、失敗か?」


「違う。知ってる匂いだから確認してる」


「次は?」


「あたしだけ出る」


「却下」


 即答すると、ミレアが横目で俺を見る。


「調査官の権限?」


「共同調査者の意見だ」


 俺は鞄から煙を出すための薬包を抜いた。


「左へ煙を流す。熊がそっちを見たら、右の崩れた窯へ移る」


「煙で甘い道を切る?」


「尾根の分岐と同じだ。ただし今回は、逃げ切るだけ」


 ミレアは葉と風を見た。


「三息後」


 薬包の紐を引く。


 一息。


 熊が鼻を上げる。


 二息。


 白い煙がシダの左から噴き出した。


 三息。


 ミレアが俺の腕を引く。


 地面を這い、崩れた炭窯の裏へ転がり込む。


 岩鎧熊が低く唸った。


 重い足音が、煙の方へ向かう。


「走る」


「鞄が」


「生きてたら拾える」


「すでに持ってる!」


 彼女の外套ごと鞄を抱え、斜面を駆け上がった。


     ◇


 足音が追ってこないことを確認し、倒木の陰まで戻った。


 ミレアが真っ先に俺の襟元へ顔を寄せる。


 近づいた鼻先が布をなぞり、ひと呼吸だけ止まった。


「偽装は残ってる。熊は甘い杭へ引かれただけ」


「なら成功だ」


「途中で煙を使った」


「生還まで含めて合格にしてくれ」


 俺は荒い息を整え、採取時刻を書こうとした。


 そこで手が止まる。


 あの杭。


 甘い液は、まだ濡れていた。


 昨夜から雨が降り、明け方に止んだばかりだ。


 古い塗布なら、表面に泥か水の跡が残る。


 だが、あの液にはまだ何も付いていなかった。


「塗られてから、長くても数時間だ」


 ミレアも窪地の方を見る。


 そのとき。


 森の奥で、乾いた枝を踏む音がした。


 軽い。


 岩鎧熊じゃない。


 一歩。


 短い間。


 もう一歩。


 左右へ交互に重なる足音。


 ミレアの耳が、音の方へ向く。


 俺たちは同時に黙った。


 二本足だ。


 塗った奴は――まだ近くにいる。

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