上着を貸しただけだ
朝になっても、ミレアは俺の上着を返さなかった。
貸した側としては、別に構わない。
問題は――夜明けに現れた獣人の女が、その姿を見るなり扉の前で黙り込んだことだ。
「……何?」
先に口を開いたのはミレアだった。
女は返事をせず、小屋の空気を短く吸う。
消えかけた火の煙。
湿った床。
まだ乾ききらない外套。
そして、ミレアが一晩着ていた俺の調査上着。
彼女には少し大きい。袖は一度折られ、前を革紐で留めている。
乾き始めた焦茶の髪が襟へ広がり、灰褐色の耳の根元だけ、まだ湿って色が濃かった。
紙と石鹸の匂いが残っていた布は、もう昨日の俺の上着とは違う。
煙。
乾きかけた髪。
夜のあいだ布へこもった体温。
そこに、汗を吸って温まった布の匂いが薄く重なっている。
試料棚に並べるものにはない、一晩ぶんの身体の気配が移っていた。
「ミレア」
女がようやく口を開く。
「人間を一晩で囲い込んだの?」
「逆」
「じゃあ、囲われた?」
「ナージャ」
ミレアの声が一段低くなる。
ナージャと呼ばれた女は、背負っていた細長い荷を床へ下ろした。
ミレアより髪が短く、弓の弦には赤い糸が巻いてある。
「北の集落からの伝令。ついでに従妹を笑いに来た」
「後半はいらない」
「前半より面白いのに」
俺は火へ薪を一本足した。
「上着を貸しただけだ」
二人が同時にこちらを見る。
ナージャは口元を押さえ、ミレアは額へ手を当てた。
「何か間違ったか?」
「間違ってない。だから困る」
ミレアは折っていた袖を直しながら言った。
「狼系の共同体だと、自分の匂いが付いた外套を貸すのは、相手を保護範囲に入れるって意味になるの。同じ帰り道を保証する、みたいな」
「家族にも貸すのか」
「貸す」
「仕事仲間は」
「状況による」
「なら、雨の森で同行者を保温するのは仕事だ」
「そこまではね」
火の向こうからナージャが口を挟んだ。
「未婚の男女が一晩、相手の匂いを移したまま朝を迎えたところまで、みんなが仕事だと思うかは別だけど」
「あなたは黙ってて」
「説明しろって顔してるから」
俺はミレアの上着――正確には、俺の上着へ目を向けた。
ミレアが襟を整える。
その動きで、内側にこもっていた温かな空気がわずかに押し出された。
石鹸の残る襟へ、乾きかけた髪と彼女の体温が馴染んでいる。
何が先に付いたか。
どれが俺のもので、どこからがミレアのものか。
分けて説明することならできる。
なのに、それを全部元へ戻したいかと聞かれたら――答えはすぐに出なかった。
「返す?」
ミレアがこちらを見る。
「外套が乾くまででいい」
「匂い、かなり移ってるけど」
「把握してる」
「把握してる顔には見えないね」
ナージャが言った。
「顔を読むのは専門外だ」
「じゃあ、匂いなら?」
今度はミレアだ。
昨日、首筋を嗅がれたときの温かな息を思い出す。
「今は上着の話だ」
「今も、ね」
ミレアはまだ湿っている自分の外套を見る。
それから、自分の手で俺の上着の前を閉じ直した。
「乾くまで借りる。意味を知ったあとで寒さを選んだら、それこそ変でしょ」
決めたのは彼女だ。
俺は頷く。
「記録にはどう書けばいい」
「書く気なの?」
「貸与品一、継続使用」
「そこだけなら」
「『共同調査者を保護範囲へ入れた』も」
ナージャが追加する。
ミレアは火箸を投げるふりをした。
◇
笑いが収まったところで、ナージャが荷をほどいた。
乾燥肉。
固いパン。
小さな薬草袋。
その下から、泥の付いた木片が出てくる。
「夜明け前、北の巡回路で岩鎧熊を見た人がいる。襲われてはいない。森番小屋の壁を嗅いで、それから東へ行った」
空気が仕事へ戻った。
俺は木片を受け取る前に、採取布を敷く。
「壁から採ったのか。触ったのは?」
「見つけた猟師、あたし、集落の記録係。全員、手袋」
「採取時刻」
「夜明けの鐘より少し前」
「助かる」
ナージャが俺の手元を見る。
「聞いてたより疑うね」
「誰を?」
「全部」
「疑うんじゃない。混ざったものを分けてる」
ナージャの笑みが消えた。
「じゃあ、見つけた猟師の個人名は外して。壁を採ったことは書いていい。でも『獣人の集落から持ち込まれた試料』だけだと、またあたしたちが塗ったって話になる」
もっともだった。
俺は記録欄を一行増やす。
――発見地点、人間側管理の森番小屋。
――発見者、北部巡回契約者。
――採取・運搬関係者、三名。
――甘い残香は採取以前から壁面に付着。
「これでどうだ」
ナージャは最後の一文を指で叩いた。
「それなら、あたしの名前は残していい」
試料がどこから来たかと、誰が原因なのかは別だ。
そこを一緒にしてはいけない。
木片からは、昨日と同じ甘い匂いがした。
岩鎧熊の脂も新しい。
壁へ鼻先か肩を押しつけたのだろう。
その下に、炭の粉が付いている。
「森番小屋の近くに炭焼き場は?」
ミレアとナージャが顔を見合わせた。
「北東に古い道がある」
ミレアが答える。
「三年前の崩落で閉じた。今は誰も使ってない」
「岩鎧熊は使ってる」
「誰かが使わせてるのかも」
雨でも消えない印。
一定の間隔。
岩鎧熊は壁へ立ち寄り、また次の印へ向かう。
まだ推測だ。
だが昨日より、ずっと形がある。
「道を見たい」
ナージャが立ち上がった。
「あたしは集落へ報告してから追いつく」
ミレアが俺を見る。
「行ける?」
「聞く相手が逆だ。お前の外套はまだ湿ってる」
「上着がある」
「俺のな」
「貸しただけでしょ?」
言い返せなかった。
◇
小屋を出ると、雨上がりの森は低い霧を抱えていた。
俺の上着を着たミレアが先を歩く。
歩くたび、布が彼女の身体で温め直される。
乾きかけた髪の匂いへ、襟に残っていた俺の石鹸が薄く混じっていた。
昨日まで俺のものだった上着が、少しずつ彼女の体温へ馴染んでいく。
「混ざった上着は、比較試料には向かないな」
「捨てる?」
「まさか。混ざったこと自体が記録だ」
ミレアが振り向いた。
「それ、獣人の前であんまり言わない方がいいよ」
「また意味があるのか」
「今のは、あたしが勝手に意味を足しただけ」
そう言って笑い、また前を向く。
俺は一拍遅れて歩き出した。
からかわれた。
ただ、それだけだ。
それだけなら――こんなに襟元が暑くなる理由はない。
北の巡回路には、雨で輪郭の崩れた足跡が残っていた。
岩鎧熊の大きな跡。
その脇に、人間か獣人かまでは判別できない、二本足の跡。
どちらも封鎖された炭焼き道へ向かっている。
封鎖前は、炭と木材を運ぶ道だった。
三年前に橋を外し、巡回対象からも外された。
ここへ入れば人に会いにくい。
それでいて標識杭だけは残っているから、一定間隔で匂いを置く目印には困らない。
古い道を知っているだけでは足りない。
今も使われていないと知っている者が選んだ道だ。
入口には、古い調査局の標識杭が立っていた。
赤い封鎖布は切れ、その代わりに新しい甘い匂いが塗られている。
「調査局の道を知ってる」
俺が言うと、ミレアは上着の襟を押さえた。
「森の人間なら、標識は知ってる」
「使われてないと知っている者は?」
「ずっと少ない」
霧の奥で、重い何かが木へ擦れる音がした。
岩鎧熊は近い。
そして――
その先には、二本足の痕跡がある。




