雨の日の獣人
雨は、森の匂いを消さない。
順番を変える。
乾いた樹皮や花粉の匂いが沈み、代わりに土と苔が一斉に立ち上がる。冷えた葉の青さが鼻を満たし、濡れた巣穴から逃げ出した小動物の、温かな毛の匂いまで近くなる。
俺たちが尾根へ着く前に、森はもう別の場所になっていた。
「小屋まで走る!」
ミレアの声が雨を切った。
道だった場所を水が流れ、踏むたび泥が靴を引く。彼女は枝を避けるのではなく、しなる向きを読んで、その隙間を抜けていった。
俺は二度、顔に枝を食らった。
三度目は、ミレアが片手で止めた。
「今の、紙に記録する?」
「調査官、森に負ける。二回」
「じゃあ今ので三回」
彼女が枝を離す。葉に溜まっていた水が、まとめて俺の頭へ落ちた。
「……これはお前の一回だろ」
「自然現象」
「便利な言葉だな」
◇
旧見張り小屋は、屋根の半分を苔に覆われていた。
扉を押すと、湿った木と古い灰の匂いが迎える。雨漏りは二か所。床はまだ乾いていた。
ミレアが扉を閉め、そこへ背中を預ける。焦茶の髪は頬と首へ貼りつき、灰褐色の耳の毛は水を含んで色を濃くしていた。尻尾の毛も細い束になり、床へぽたぽた雫を落としている。
外套は肩から裾まで色濃く濡れ、呼吸のたび、胸元の革紐が小さく上下した。
ミレアは息を整えると、外套の留め具を外した。厚い革が肩から離れる。その下の麻の上衣は、襟と背中だけが濡れて濃い色になっていた。
最初に広がったのは、雨と濡れた革の匂いだった。
そのあとに、残るものがある。
濡れた短い獣毛。湿った髪。さらに近いところには、走って汗ばんだ首筋と、その汗を吸って温まった布の匂い。
花でも、香油でもない。走って、汗をかいて、雨に濡れたミレアが、すぐそこにいる。そう分かる匂いだった。
支局で手袋から採った匂いより、ずっと生々しい。いや、濃いわけじゃない。雨が草や革の匂いを洗い流したぶん、ミレア自身の匂いが前へ出ている。
「いつもより、お前が分かりやすい」
口から出してから、記録用の言葉ではなかったと気づいた。
ミレアの手が止まる。灰褐色の耳の先から、一筋だけ水が落ちた。
「…………そういう言い方やめて」
「草とか革の匂いが雨で薄くなったって意味だ」
「もっと悪くなった」
「なぜだ」
「自分で考えなよ、匂いの専門家」
ミレアは濡れた髪を後ろでまとめ、毛先を絞った。うなじが露わになる。雨で冷えていた皮膚へ、火のない室内でも少しずつ色が戻っていく。
俺は採取鞄へ視線を落とした。革紐を解こうとして、一度で見つかるはずの留め具を指が滑る。もう一度。
「カイル」
「何だ」
「緊張してる?」
「走ったから息が上がってる」
「あたしも走ったよ」
「人間と狼獣人じゃ、汗のかき方も違う」
「じゃあ、そういう記録にしといて」
ミレアはそれ以上、何の緊張なのか聞かなかった。聞かれない方が、答えに困る。
俺は新しい採取布を取り出した。
「外套の襟。外側だけ採っていいか」
「何を見るの?」
「雨で何が落ちて、何が残ったか。上衣にも肌にも触れない」
ミレアは俺の顔を一度見てから、外套を両手で広げた。襟をこちらへ向ける。
「一回だけなら」
「一回で足りる」
採取布を襟へ滑らせる。外側には、雨水と濡れた革。縫い目には、汗を吸って温まった布の匂いが残っている。もう指一本ぶん内側には、まだ彼女の体温がこもっていた。
そこまで採る理由はない。
布を離す。
ミレアが俺の指先を見ていた。
「本当に、必要なところで止まるんだ」
「止まらない調査官を知ってるのか」
「止まる場所を、本人じゃなく自分で決める人なら」
軽口ではなかった。
俺は封香管へ採取範囲を書き込む。
――襟外側、一回。
――本人許可。
――上衣・皮膚への接触なし。
「そこまで書く?」
「何をしてないかも記録だ」
ミレアが少しだけ目を細めた。
「それは嫌いじゃない」
それ以上は何も言わず、小屋の隅へ向かう。乾いた薪を選び、手早く火を起こした。古い灰へ、新しい煙の匂いが重なる。
ミレアは濡れた外套を火から離して掛け、支局備品の毛布を肩へ巻いた。
「それは借りても意味が増えない?」
「黴と、何人も使った匂いくらい」
「安心した」
「残念そうに聞こえるけど」
俺は返事の代わりに地図を広げた。甘い匂いを採った三地点。岩鎧熊の足跡。葉耳兎たちが向かった尾根。全部が同じ北東へ寄っている。
「雨で消えたら、追跡は終わりか」
「普通ならね。流れた場所は分かっても、元の位置までは戻せない」
「普通なら」
「あれ、普通じゃないでしょ」
俺たちは同時に扉を見た。雨音は、まだ強い。
◇
小屋の軒下を伝い、直前に採取した木まで戻った。雨具の隙間から水が入り込み、ようやく温まり始めていた服がまた冷える。
捕香紙を置いた木の幹は、雨で筋になって濡れていた。
土。雨。砕けた葉。そして――甘い匂い。
弱くなっていない。
「雨の匂いの上にいる」
ミレアが目を細めた。灯りを寄せる。胸ほどの高さだけ、雨粒が細かく弾かれていた。指一本ほどの幅で、薄い油膜が縦に残っている。
俺は油膜の上と下から、それぞれ採取した。上側の布だけに甘い匂いが移る。油膜を通った雨は硝子板の端へ丸く集まり、何もない場所を流れた雨は薄く広がった。
樹脂なら、木の傷を中心ににじむ。だがここには傷がない。代わりに、塗り始めと塗り終わりの線がある。鼻を使わなくても、外から塗られた形は残っていた。
「木が出してるものじゃない」
「誰かが塗った」
今度は否定しなかった。
一本目から十二歩。次も胸の高さ。さらに十四歩先にも、同じ側の樹皮へ雨を弾く跡が残っている。
「同じ二本足が歩きながら付けた間隔だ」
ミレアが地面を見る。
「足跡は、もう崩れてる」
塗った者の種族も、目的も分からない。それでも。偶然ではない。
「小屋へ戻る」
ミレアは木々の奥を見た。
「今なら道そのものは追える。でも岩鎧熊も近い。雨で音が消える」
証拠は流れない。危険だけが見えにくくなる。
俺は木へ封印票を結んだ。
「夜明けから追う。日没までの暫定判断は昼に送った。追加報告に死体を添える気はない」
ミレアはしばらく俺を見ていた。それから濡れた耳を一度振る。
「了解、共同調査者」
◇
小屋へ戻っても、外套はまだ端から水を落としていた。火の前へ座ったミレアの肩が、小さく震える。毛布の下で両手を握っても、止まらない。
俺は雨具の内側で乾いていた調査上着を脱いだ。
「着ろ。外套が乾くまででいい」
ミレアは差し出した上着と、俺の顔を順番に見た。
「貸す意味、知ってる?」
「保温以外にもあるのか」
「ある」
「説明は?」
「明日の朝」
今度は彼女が、答えを後回しにした。
それでも。受け取るかどうかは、ミレア自身が決めた。
肩の毛布を下ろし、俺の上着へ袖を通す。少し大きい。襟の内側へ、まだ湿った焦茶の髪が触れた。紙と宿の石鹸が残っていた布へ、濡れた髪の匂いと彼女の体温が少しずつ移っていく。
俺は見ていた時間をごまかすように、火へ薪を一本足した。ぱちり、と火の粉が弾ける。
自然に生まれた匂いではない。魔物が偶然迷い込んだのでもない。誰かが。雨でも消えない道を、森の中へ作っている。




