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獣の旅路と香りの地図  作者: sakumaaa
第一章 森がおかしい

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魔物は風上へ逃げない

 魔物は風上へ逃げない。


 少なくとも、鼻の利く草食種は。


 風上に捕食者がいるなら、なおさらだ。


「葉耳兎、一匹だけなら間違えることもあるか?」


 俺が尋ねると、ミレアは斜面の上を見たまま答えた。


「穴から追い出された直後なら。火に驚いたとか、子どもを置いてきたとか」


「火の匂いは?」


「ない」


「子どもは?」


「あの腹なら雄」


 一つ消えた。


 葉耳兎の足跡は、柔らかな斜面を北東へ上っている。


 途中で岩鎧熊の足跡と交差しているのに、それでも向きを変えていない。


 普通なら、大型魔物の痕跡を拾っただけで巣へ戻るか、風下へ逃げる。


 俺たちは足跡を追った。


 ミレアはむやみに走らない。


 跡が薄い場所では速度を落とし、風が枝に砕かれる場所では左右へ大きく動いて鼻を使う。


 俺はその後ろで、三か所から捕香紙を取った。


 一枚目。


 湿った土と、葉耳兎の毛。


 二枚目。


 岩鎧熊の脂と、赤鈴花の花粉。


 三枚目には――それまでになかった甘い匂いが残った。


 花ではない。


 熟した果実みたいな甘さなのに、酸味がない。


 蜂蜜に似ているのに、あの重さもない。


 甘いところだけを切り取って、森の中へ貼りつけたような匂いだった。


「ミレア」


「分かってる。さっきから甘すぎる」


 彼女は顔をしかめ、鼻先で空気を探る。


「どこから?」


「上。……じゃないな」


 鼻先が少し動く。


「上へ続いてる」


 源が一か所にある言い方ではなかった。


 道だ。


 採取位置を地図へ落とす。


 三点は沢から尾根へ、ほぼ一定の間隔で並んでいた。


 一つ目は倒木の端。


 二つ目は岩の角。


 三つ目は、鼻の高さに伸びた細枝。


 どれも、走る魔物が次の進路を探すとき、自然と顔を向ける場所だ。


 自然の花なら、日当たりや土を選んで生える。


 獣道の曲がり角だけを選んではくれない。


「誰かが付けた?」


「まだ決めない。樹液を採る奴の目印かもしれないし、餌を運んだ跡かもしれない」


「それ、人間の言葉で『そう思ってる』って意味?」


「人間の言葉でも『まだ決めない』だ」


 ミレアが何か言い返しかけた。


 そのとき。


 森の奥で、枝が続けて折れた。


 一匹ではない。


 俺たちは斜面の脇へ退く。


 最初に現れたのは、さっきとは別の葉耳兎だった。


 続いて、背中に苔を生やした角鼠が三匹。


 さらにその後ろから、まだ角の短い樹皮鹿が一頭。


 食べるものも、巣も、普段の縄張りも違う魔物たちが、同じ獣道を同じ方向へ走ってくる。


「道、空けて」


 ミレアの声が低くなった。


「この先は尾根だ」


「だから」


 地図を開く。


 獣道は五百歩ほど先で二つに分かれる。


 左は北東の尾根。


 右は南へ下り、そのまま開拓村の放牧地へ出る。


 樹皮鹿が俺たちに気づき、足を滑らせた。


 後ろの角鼠がぶつかる。


 小さな群れが斜面で一度詰まり、進路を探して首を振った。


 その鼻先は、どれも風上を向いている。


「甘い匂いだけ塞げるか?」


「何で?」


 俺は鞄から未使用の採取布を引き抜いた。


「煙を流す。湿らせた布を燻して、村へ下りる道だけ匂いを切る」


 ミレアが群れと風向きを見比べる。


「右の分岐」


「左は残す」


「分かってるじゃない」


 群れの正面には出ず、横の急斜面を斜めに駆ける。


 足場はミレアが選んだ。


 俺はその踵を追う。


 速い。


 足元ばかり見ていたら、根も枝も斜面の傾きも全部遅れてくる。


 案の定、木の根に靴を取られた。


「っ」


 倒れる前に、ミレアの手が俺の腕をつかんだ。


 身体ごと引き上げられる。


 焦茶の髪が頬をかすめた。


 走って温まった獣毛。


 乾いた草。


 その奥に、汗ばんだ首元の、ほんのわずかに酸っぱい匂い。


 一瞬だった。


 なのに、俺の呼吸だけが一拍遅れた。


「紙ばっかり見ない」


「今はお前しか見てない」


 口に出してから、言葉の順番を間違えたことに気づく。


 ミレアの灰褐色の耳が、すっとこちらへ向いた。


「へえ」


「足元の話だ」


「聞いてないけど」


 ミレアは手を離し、さっさと先へ走る。


 手首に残った熱まで分析している暇はなかった。


     ◇


 分岐へ着くと、ミレアが風下側へ立った。


 俺は小さな火皿へ、湿らせた採取布を置く。


 炎は上げない。


 松葉の苦い煙だけを、村へ下る右道へ流した。


 群れが近づいてくる。


 先頭の葉耳兎が止まった。


 鼻を何度も動かす。


 一度、右へ踏み出しかける。


「まだ甘い匂いを拾ってる」


「煙だけじゃ弱いか」


 ミレアが腰の袋から乾燥薬草を取り出した。


「これは?」


「鼻に刺さる草。入れすぎると、あたしまで何も分からなくなる」


「量は任せる」


 ミレアは葉を三枚だけ火皿へ落とした。


 青く苦い匂いが煙へ混じる。


 葉耳兎が頭を振った。


 右を諦め、左へ跳ぶ。


 角鼠が続いた。


 樹皮鹿も一度だけ右を見てから、尾根へ続く左道へ駆けていった。


 岩鎧熊まで止められる強さではない。


 それでも、小型魔物を放牧地へ落とさずに済んだ。


 最後の角鼠が消える。


 ミレアが薬草袋を閉じ、大きく息を吐いた。


 走ったせいで、首筋にはまだ薄く汗が浮いている。


 そこへ青い薬草の煙がまとわりつき、さっき一瞬だけ感じた獣毛や草の匂いは、もう苦い香りの下へ隠れていた。


 変わったのは森だけじゃない。


 俺の袖にも、同じ煙が付いている。


 俺たち自身が、次の採取地点へ新しい匂いを運ぶことになる。


「あたしにも封印紐、結ぶ?」


「調査記録へ書けば足りる。薬草煙を浴びた同行者二名」


「情緒がないね」


「青い紐を結んでほしかったのか?」


「場所による」


「……今のは調査か?」


「さあ?」


 ミレアの尻尾が一度だけ揺れる。


 俺は火皿を見た。


「こっちは最小限の介入だ」


「人間の言葉で?」


「村の畑を一つ守った」


「最初からそう言えばいいのに」


 俺は火皿へ水をかけた。


 使用した薬草の量。


 風向き。


 群れの種類。


 進路変更。


 一つずつ記録する。


 煙で守れたのは、分岐一つだけだ。


 その代わり、俺たちは現場へ本来なかった匂いを一つ増やした。


 後から来る調査員が薬草煙を異常の原因と取り違えないよう、火皿を置いた枝へ青い封印紐を結ぶ。


 介入すれば、現場は変わる。


 だから、何もしなければ人が危ないときだけ使う。


 その変更まで含めて記録に残す。


 ミレアが結び目を指先で確かめた。


「勝手に森を変えたって書く?」


「お前が葉を三枚使ったことまで書く」


「ならいい」


 彼女は群れが消えた左道へ顔を向ける。


「岩鎧熊も同じところへ行ってる」


「何から逃げてる?」


「逃げる足じゃない」


 少し間を置く。


「休まず歩いてる。でも、怖がってない」


 俺は群れの足跡へ目を落とした。


 跳ねている。


 滑っている。


 互いにぶつかった跡もある。


 それでも進路だけは揃っていた。


 捕食者から逃げているなら、もっと散る。


 速い個体から別々に逃げるはずだ。


 これは違う。


「何かに向かってる」


 言葉にした、そのとき。


 鼻の奥へ、あの甘い匂いが届いた。


 さっきより濃い。


 尾根の向こうで、低い雷が鳴る。


 ミレアが空を見上げた。


 ぽつり。


 最初の一滴が、灰褐色の耳へ落ちる。


 短い毛が濡れ、色がわずかに濃くなった。


 次の一滴が、俺の捕香紙を叩いた。


 雨が来る。

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