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獣の旅路と香りの地図  作者: sakumaaa
第一章 森がおかしい

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2/20

獣人の鼻は、俺の道具より優秀らしい

 六日離れた山にいるはずの魔物が、この森を歩いている。


 それを村へ報告するなら、ミレアの鼻だけでは足りない。


「待て、ミレア」


「待ってるよ」


 返事はすぐ返ってきた。


 ただし本人は、三十歩先の倒木へ片足をかけている。


「それ、待ってる奴の距離じゃないだろ」


「人間の三十歩なんて、岩鎧熊なら十歩だよ」


「安心材料になってない」


 俺は斜面に膝をつき、落ち葉の上へ白い布を敷いた。


 森へ入ってから、四つ目の採取地点。


 折れた若木。苔を削った岩。沢へ沈んだ足跡らしき窪み。


 そして今、樹皮の裂け目に灰色の毛が一本引っかかっている。


 指では触れない。


 先端を焼いて処理した挟みでつまみ、半分を封香管へ、残りを素焼きの平皿へ移す。


 ミレアが倒木から飛び降りた。


 着地の風で焦茶の髪がほどけ、片方の耳へかかる。彼女は邪魔そうに髪を押し上げた。


 その拍子に風が動く。


 陽に温められた短い獣毛。乾いた草。


 そのあとに、坂を上ったばかりの、少し汗ばんだ肌の匂いが一瞬だけ混じった。


 支局で採った手袋の試料にはなかったものだ。


 歩いて身体が温まったときにだけ、服や髪の隙間からわずかに立つらしい。


 平皿から顔を上げると、ミレアと目が合った。


「今、熊じゃなくてあたしを分けた?」


「風が混ぜた。混入がないか確認しただけだ」


「便利な言い方」


 彼女は笑い、俺の肩越しに皿を覗き込む。


 それから、自分で半歩下がった。


 からかわれたのか。


 作業を邪魔しない距離を覚えたのか。


 たぶん、両方だ。


 俺はまず、何も載せていない皿を確認する。


 素焼きの乾いた土の匂いだけ。


 問題なし。


 次に、毛を載せた皿へ顔を寄せ、浅く息を吸った。


 獣脂。


 冷えた石。


 鉄を含んだ湿った土。


 その奥に、乾いた花粉のかすかな甘さがある。


「岩鎧熊で間違いない」


 ミレアが得意そうに顎を上げる。


「丸、つけていい?」


「まだだ」


「けち」


 毛だけなら、敷物や荷物に付着して運ばれてきた可能性が残る。


 ここを生きた岩鎧熊が歩いた証拠にはならない。


 俺は毛へ透明な試薬を一滴落とした。


 毛に残っていた花粉が、黄色く浮き上がる。


「赤鈴花だ」


「山の上に咲く花だね」


「この辺りには?」


「ない。ここの土じゃ根が腐る」


 毛の根元には、高地に咲く赤鈴花。


 毛先には、この森の沢沿いに多い黒い粘土。


 遠方で採った毛皮へ、あとから泥が付いた可能性はまだある。


 だが、毛の根元に残った脂は新しい。


 古い毛なら出る、油が変質した重い匂いがほとんどない。


「抜けてから半日も経ってない」


「じゃあ、朝には森にいた」


「生きた個体がな」


 そこでようやく、記録へ丸をつけた。


「あたしは最初からそう言った」


「お前の鼻が正しいことと、村へ警報を出せることは別だ」


「人間は、正しいものを二つに分けるのが好きだね」


「間違ったとき、どこで間違えたか分かるからな」


 ミレアは返さなかった。


 笑みが消えるのが早かった。


 彼女の目は封香管ではなく、その先にある報告書でも見ているようだった。


 俺は採取地点を書き込み、立ち上がる。


「匂いはどっちへ続いてる?」


 ミレアが風上へ顔を向ける。


「北東。沢へ降りて、また上がってる」


 森の縁まで南へ下ってきた匂いは、沢の手前で北東へ折れていた。


「水を飲んだ?」


「たぶん。でも、ほとんど足を止めてない」


 岩鎧熊は山地の鉱塩を食べる。


 腹を満たせば、日当たりのいい岩場で休み、肩へ鉱粉をこすりつける習性がある。


 森を半日も歩いたなら、どこかで身体を伏せた跡が残っていていい。


 ここまで、一つもない。


 沢へ下りると、水際の泥に今度こそ明確な足跡があった。


 人の胸ほどもある前足。


 爪先が深く沈み、後ろ足はわずかに外へ開いている。


 ミレアがその横へしゃがんだ。


「若い個体。成獣ほど重くない」


「怪我は?」


「右の後ろ足を少しかばってる。でも走れないほどじゃない」


 鼻を泥へ近づけることもなく、ミレアは足跡の縁を指先で崩した。


 下はまだ湿っている。


 表面だけが乾き始めていた。


「夜明けから、そんなに経ってない」


 俺も歩幅を三つ測る。


 大きく乱れてはいない。


 急加速したときに出る、爪で泥をえぐった跡もなかった。


 ミレアが匂いから進路を拾う。


 泥の乾き方が時刻を支える。


 俺が毛に残ったものを分け、足跡が「運ばれてきた毛皮」の可能性を消す。


 二つの鼻は、どちらが上というより、得意な順番が違う。


 ミレアだけなら、本体へ辿り着くのは俺より圧倒的に早い。


 俺だけなら、毛一本がどこを通ってきたかまでは追えても、分析を終えた頃には熊が次の谷へ行っている。


 速さと確かさの間に、一つの答えを作る。


 それが、今のところ俺たちの仕事らしい。


 立ち上がろうとして――靴が泥から抜けなかった。


「……」


 ミレアが無言で手を差し出す。


 使い込んだ革手袋から、革と草の匂いがした。


 その手を握る。


 引かれた瞬間、手袋の内側にこもっていた熱まで手のひらへ伝わった。


 沢岸へ上がると、ミレアはすぐに手を離す。


「次から、採る場所を先に言って」


「待ってくれるのか?」


「待たない。先に見て、戻る」


「歩幅を合わせる選択肢は?」


「カイルが速くなればある」


 こいつと組むなら、鼻だけじゃなく歩調の合わせ方も覚えなきゃならないらしい。


「村まで、今夜中に着く可能性は?」


「南へ曲がれば。でも今は北東。村から離れてる」


「なら南の道は閉じない」


 大型魔物は実在する。


 だが現時点で、開拓村へ向かってはいない。


 討伐隊を南道へ集めれば、逆に熊の逃げ道を塞いで進路を村側へ変える可能性もある。


 警戒は解かない。


 ただ、塞ぐ場所を絞る。


 俺は携帯伝書筒へ短く書いた。


 ――岩鎧熊一頭。若い個体。右後肢に軽傷。


 ――警報維持。南道は封鎖せず。


 ミレアが肩越しに読む。


「ずいぶん半端」


「半端な証拠で、完全に道を閉じないだけだ」


「支局長、喜ぶ?」


「喜ばせるのは仕事に入ってない」


 伝書鳥を放す。


 白い腹が枝の隙間へ消えていった。


 少なくとも今夜、村人と討伐隊が同じ道へ押し込まれることはない。


 そのとき。


 落ち葉を蹴る、軽い音がした。


 葉耳兎が茂みから飛び出す。


 長い耳の先に青い膜を持つ、小型の草食魔物だ。


 俺たちを見て一瞬身体を固くし――そのまま斜面を駆け上がった。


 風は上から下へ吹いている。


「俺たちの匂いには気づいてるよな」


「気づいてる」


「岩鎧熊にも?」


「あたしより先にね」


 なら、おかしい。


 捕食者は風上にいる。


 葉耳兎なら、普通はそこから離れるように風下へ逃げる。


 なのに小さな背中は迷いもしない。


 岩鎧熊と同じ北東へ消えていった。


 ミレアが、その方向を見つめたまま言う。


 もう笑ってはいなかった。


「今度は、その紙でも変だって分かる?」


 俺は足跡の向きを記録した。


「ああ」


 丸を一つつける。


「熊だけじゃない」


 森の奥で、もう一度葉が揺れた。


「森のほうがおかしい」

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