嗅ぐのは俺の仕事なんだが
「そっちだけ嗅ぐの、不公平でしょ」
狼獣人の女が、椅子から身を乗り出した。
赤みのある焦茶の髪が肩から滑り落ちる。灰褐色の耳が俺の頬のすぐ横まで来て、その鼻先は首筋から指二本ぶん手前で止まった。
近い。
鼻先を向けられているのは俺なのに、ここまで近づかれれば、こちらにも彼女の匂いが届く。
窓から差す陽に温められた短い獣毛。乾いた草。手入れされた革。その奥に、髪の根元と温かな皮膚から、若葉を指で揉んだような青い匂いがほんのわずかに混じっていた。
一息ぶん、呼吸を忘れた。
「息、止めた?」
「不意打ちだったからな」
俺が片手を二人の間へ掲げる。
彼女は肌に触れる手前で、ぴたりと止まった。
笑っている。だが、押し切る気はないらしい。
断れば、それで終わる距離だ。
「一息だけだぞ」
「けち」
許可すると、彼女は本当に一度だけ短く息を吸った。
温かな呼気が首筋をかすめ、すぐに身を引く。
「紙。乾いた革。昨日の宿の石鹸。あと――馬車で隣に薬師が座ってた」
「最後のは当たりだ」
「全部当たり」
「確認できるものだけ丸をつける主義なんだ」
「めんどくさい人間」
「褒め言葉として受け取っておく」
俺は机に置いた封香管の栓を締め、蝋へ番号印を押した。
王立魔物生態調査局、北境支局。
着任して半刻もたたず、俺は共同調査者の匂いを記録し、その共同調査者から首の匂いを読まれていた。
「カイル・レイン。二十九歳。現地調査官。痕跡分析と移り香解析が専門」
机の向こうで、支局長のエッダ・モーンが書類を読み上げる。右の親指には青い記録墨が付いていた。
「こちらがミレア・ヴァルク。北境森林の巡回猟師。本日からあなたの共同調査者です」
「案内人じゃなくて?」
ミレアが尋ねる。
エッダは書類から顔を上げなかった。
「道だけ教える契約ではありません。調査停止権と、報告書への異論記載権を含みます」
「へえ」
その一言で、ミレアの声から棘が一本抜けた。
俺は採取記録を彼女の前へ滑らせる。
「櫛に残っていた毛を三本。普段使いの革手袋を片方。まずはそれを、お前の普段の匂いを知るための比較試料にする」
ミレアはまだ署名しない。
保管期間の欄へ指先を置いた。
「三十日?」
「今回の調査にしか使わない」
「終わったら?」
「お前の前で焼く」
そこで初めて、ミレアの目が俺へ向いた。
「首も髪も、直接は嗅がないんだ」
「手袋と毛で足りるならな」
「足りなかったら?」
「必要な理由と、どこを確認するか説明する。そのあと、もう一度聞く」
「断ったら?」
「別の方法を探す」
数秒、ミレアは俺を見ていた。
鼻ではなく、目で。
やがて紙へ視線を戻し、署名する。
「人間の役人って、森へ来ると何でも持って帰りたがるのに」
「俺は荷物が多いのが嫌いなんだ」
「だから試料鞄を三つも持ってる?」
「必要な荷物は別だ」
「その言い方、人間は好きだよね」
笑いながらも、彼女の左手は署名した紙を押さえたままだった。
目は俺ではなく、床の試料鞄を一つずつ数えている。
俺の鼻が何を拾えるかより、持ち帰ったものをどう扱う人間なのか。
ミレアが見ているのは、そちららしい。
エッダが地図を広げた。北側の開拓村を青鉛筆で囲む。
「三日前から、家畜が夜になると柵の南側へ固まるようになりました。森でも小型魔物の目撃位置が変わっています」
「うちの集落でも話は出てる」
ミレアの笑みが消えた。
「人間が北の道を切り開いたから、魔物が森の奥から押し戻されてるって」
「人間側では逆の噂が広がっています」
エッダが言う。
「獣人が魔物を人里へ追い出している、と」
ミレアの耳がわずかに伏せた。
「便利だね。何か起きたら、とりあえずあたしたちのせい」
「どちらの主張にも、現時点では証拠がありません」
エッダは地図の森を指で叩く。
「今夜どの道を閉じるべきか。その判断材料を日没までに持ち帰ってください」
日没まで。
慎重に調べろと言いながら、締切だけは慎重ではない。
だが、魔物が夜に人里へ入れば、翌朝の完璧な報告書では誰も守れない。
「了解」
俺が地図を畳むより早く、ミレアは窓を開けた。
冷えた風が流れ込む。
紙、蝋、古い木――支局の匂いが押し流され、代わりに外の空気が入り込んだ。
湿った土。針葉樹。馬小屋。それから、台所で炒めている玉ねぎ。
ミレアは目を閉じた。
道を見るより先に、風を嗅いでいる。
耳が一度だけ動いた。
「行ける。今の風なら、森の縁から入った方が早い」
「もう分かるのか?」
「台所の玉ねぎ、そろそろ焦げる」
「そっちじゃない」
「分かってる」
ミレアが片目を開けた。
「人間の調査官が、どこまで拾えるか見ただけ」
そのまま扉へ向かっていく。
「置いていくよ、調査官」
「共同調査者を置いていく案内人がいるか」
「案内人じゃないんでしょ?」
正論だった。
少し悔しい。それ以上に、次は何を返してくるのか、少しだけ楽しみでもある。
◇
支局から森の縁までは、一時間もかからなかった。
畑が途切れる。
道の両側へ木々が迫る。
人工物の匂いが薄れていくほど、空気の中にある情報は増えていった。
若い針葉樹の樹脂。水を含んだ苔。昨夜の雨がまだ残る腐葉土。獣道へ落ちた兎の毛。
「右」
ミレアが突然言った。
「道は左だぞ」
「風が右から来てる」
言われて見れば、彼女は歩きながら何度も風上へ顔を向けていた。
目で道を探しているというより、鼻で森の形を読んでいる。
「右へ寄れば、谷から上がってくる匂いを拾える。左だと人間の道の埃に潰される」
「了解」
「素直だ」
「現場で案内役と喧嘩する趣味はない」
「共同調査者」
「訂正が早いな」
「大事だから」
ミレアが先を歩く。
森へ入ってからの彼女は、支局にいた時より少しだけ静かだった。
足音が小さい。枝を避ける動きにも迷いがない。
狼獣人だから、ではない。
この森を歩いてきた者の動きだ。
上り坂へ差しかかる。
ミレアが片手で髪をまとめた。
襟に貼りついていた毛先が持ち上がり、首筋が現れる。
薄く汗ばんでいた。
風が、彼女の背から俺へ流れてくる。
最初に来たのは革油。
次に、乾いた草と薬草の青い匂い。
その下に、陽を浴びた短い獣毛と、歩いて温まった皮膚。
さらに奥に、歩いた後らしい、かすかな汗の匂いが混じっていた。
臭い、というほどではない。
むしろ、手袋から取った試料よりずっと弱い。
なのに、生きた本人の方が妙にはっきりしている。
髪も、汗も、体温も、森の匂いも。
全部混ざって、今そこを歩いているミレアの匂いになっていた。
記録用紙には《歩行後・軽度発汗》と書けば済む。
だが、その分類だけでは、何かが抜け落ちる気がした。
筆先が、一拍止まる。
ミレアが振り返った。
「紙、風に置いていかれてるよ」
「歩いた後の匂いも取ってる。手袋じゃ、森を歩いてる時の状態までは分からない」
「近づかなくていいの?」
「この距離なら風が運ぶ」
「その紙に届く前に、風はもう二回曲がってるけど」
俺は頼りなく揺れる捕香紙を見る。
確かに、その通りだった。
「……今のは参考記録にする」
「書いていいよ」
「何を」
「《人間の道具より、あたしの鼻の方が優秀》って」
「再現性のある条件で確認してからだ」
「負けず嫌い」
「調査官だ」
ミレアが笑った。
支局で聞いたものより、少し軽い。
俺も何か返そうとした。
その瞬間、ミレアの足が止まった。
俺も止まる。
葉が擦れる。
虫が鳴く。
遠くで鳥が嘴を木へ打ち付けている。
それだけだ。
少なくとも、俺には。
ミレアは動かなかった。
鼻先をわずかに上げる。
右。
左。
もう一度、風上。
灰褐色の耳が森の奥へ向く。
腰の山刀へ手が伸びた。
「カイル」
さっきまでのからかいは消えていた。
「この森、何かおかしい」
俺は捕香紙を下げる。
「何がいる?」
「岩鎧熊」
一瞬、聞き間違いかと思った。
白い岩場に棲み、鉱塩を食べる大型魔物。
肩から背にかけての皮膚が岩のように硬化するため、その名がついた。
この近辺にはいない。
「距離は?」
「まだ遠い」
ミレアは森から目を離さない。
「でも、生きてる。毛皮を誰かが運んだ匂いじゃない」
「最も近い生息地は?」
「北へ六日」
俺の記録とも一致する。
六日。
偶然迷い込むには遠すぎる。
「数は?」
「今分かるのは一頭。でも――」
ミレアが眉を寄せた。
「おかしい」
「何が?」
「こっちへ来てる」
風向きとは逆だった。
岩鎧熊が餌を探して移動するなら、この季節に南へ下る理由はない。
俺には、まだ湿った森しか分からない。
だがミレアには、その奥を歩くはずのない巨体が分かる。
そして俺には、彼女が拾った異常が何を意味するのか調べる方法がある。
ミレアが森へ半歩踏み込んだ。
振り返る。
「調べる?」
返事は決まっていた。
俺は新しい捕香紙を取り出し、時刻と風向きを書き込んだ。
「それが俺たちの仕事だ」




