↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
獣の旅路と香りの地図  作者: sakumaaa
第一章 森がおかしい

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/20

嗅ぐのは俺の仕事なんだが

「そっちだけ嗅ぐの、不公平でしょ」


 狼獣人の女が、椅子から身を乗り出した。


 赤みのある焦茶の髪が肩から滑り落ちる。灰褐色の耳が俺の頬のすぐ横まで来て、その鼻先は首筋から指二本ぶん手前で止まった。


 近い。


 鼻先を向けられているのは俺なのに、ここまで近づかれれば、こちらにも彼女の匂いが届く。


 窓から差す陽に温められた短い獣毛。乾いた草。手入れされた革。その奥に、髪の根元と温かな皮膚から、若葉を指で揉んだような青い匂いがほんのわずかに混じっていた。


 一息ぶん、呼吸を忘れた。


「息、止めた?」


「不意打ちだったからな」


 俺が片手を二人の間へ掲げる。


 彼女は肌に触れる手前で、ぴたりと止まった。


 笑っている。だが、押し切る気はないらしい。


 断れば、それで終わる距離だ。


「一息だけだぞ」


「けち」


 許可すると、彼女は本当に一度だけ短く息を吸った。


 温かな呼気が首筋をかすめ、すぐに身を引く。


「紙。乾いた革。昨日の宿の石鹸。あと――馬車で隣に薬師が座ってた」


「最後のは当たりだ」


「全部当たり」


「確認できるものだけ丸をつける主義なんだ」


「めんどくさい人間」


「褒め言葉として受け取っておく」


 俺は机に置いた封香管の栓を締め、蝋へ番号印を押した。


 王立魔物生態調査局、北境支局。


 着任して半刻もたたず、俺は共同調査者の匂いを記録し、その共同調査者から首の匂いを読まれていた。


「カイル・レイン。二十九歳。現地調査官。痕跡分析と移り香解析が専門」


 机の向こうで、支局長のエッダ・モーンが書類を読み上げる。右の親指には青い記録墨が付いていた。


「こちらがミレア・ヴァルク。北境森林の巡回猟師。本日からあなたの共同調査者です」


「案内人じゃなくて?」


 ミレアが尋ねる。


 エッダは書類から顔を上げなかった。


「道だけ教える契約ではありません。調査停止権と、報告書への異論記載権を含みます」


「へえ」


 その一言で、ミレアの声から棘が一本抜けた。


 俺は採取記録を彼女の前へ滑らせる。


「櫛に残っていた毛を三本。普段使いの革手袋を片方。まずはそれを、お前の普段の匂いを知るための比較試料にする」


 ミレアはまだ署名しない。


 保管期間の欄へ指先を置いた。


「三十日?」


「今回の調査にしか使わない」


「終わったら?」


「お前の前で焼く」


 そこで初めて、ミレアの目が俺へ向いた。


「首も髪も、直接は嗅がないんだ」


「手袋と毛で足りるならな」


「足りなかったら?」


「必要な理由と、どこを確認するか説明する。そのあと、もう一度聞く」


「断ったら?」


「別の方法を探す」


 数秒、ミレアは俺を見ていた。


 鼻ではなく、目で。


 やがて紙へ視線を戻し、署名する。


「人間の役人って、森へ来ると何でも持って帰りたがるのに」


「俺は荷物が多いのが嫌いなんだ」


「だから試料鞄を三つも持ってる?」


「必要な荷物は別だ」


「その言い方、人間は好きだよね」


 笑いながらも、彼女の左手は署名した紙を押さえたままだった。


 目は俺ではなく、床の試料鞄を一つずつ数えている。


 俺の鼻が何を拾えるかより、持ち帰ったものをどう扱う人間なのか。


 ミレアが見ているのは、そちららしい。


 エッダが地図を広げた。北側の開拓村を青鉛筆で囲む。


「三日前から、家畜が夜になると柵の南側へ固まるようになりました。森でも小型魔物の目撃位置が変わっています」


「うちの集落でも話は出てる」


 ミレアの笑みが消えた。


「人間が北の道を切り開いたから、魔物が森の奥から押し戻されてるって」


「人間側では逆の噂が広がっています」


 エッダが言う。


「獣人が魔物を人里へ追い出している、と」


 ミレアの耳がわずかに伏せた。


「便利だね。何か起きたら、とりあえずあたしたちのせい」


「どちらの主張にも、現時点では証拠がありません」


 エッダは地図の森を指で叩く。


「今夜どの道を閉じるべきか。その判断材料を日没までに持ち帰ってください」


 日没まで。


 慎重に調べろと言いながら、締切だけは慎重ではない。


 だが、魔物が夜に人里へ入れば、翌朝の完璧な報告書では誰も守れない。


「了解」


 俺が地図を畳むより早く、ミレアは窓を開けた。


 冷えた風が流れ込む。


 紙、蝋、古い木――支局の匂いが押し流され、代わりに外の空気が入り込んだ。


 湿った土。針葉樹。馬小屋。それから、台所で炒めている玉ねぎ。


 ミレアは目を閉じた。


 道を見るより先に、風を嗅いでいる。


 耳が一度だけ動いた。


「行ける。今の風なら、森の縁から入った方が早い」


「もう分かるのか?」


「台所の玉ねぎ、そろそろ焦げる」


「そっちじゃない」


「分かってる」


 ミレアが片目を開けた。


「人間の調査官が、どこまで拾えるか見ただけ」


 そのまま扉へ向かっていく。


「置いていくよ、調査官」


「共同調査者を置いていく案内人がいるか」


「案内人じゃないんでしょ?」


 正論だった。


 少し悔しい。それ以上に、次は何を返してくるのか、少しだけ楽しみでもある。


     ◇


 支局から森の縁までは、一時間もかからなかった。


 畑が途切れる。


 道の両側へ木々が迫る。


 人工物の匂いが薄れていくほど、空気の中にある情報は増えていった。


 若い針葉樹の樹脂。水を含んだ苔。昨夜の雨がまだ残る腐葉土。獣道へ落ちた兎の毛。


「右」


 ミレアが突然言った。


「道は左だぞ」


「風が右から来てる」


 言われて見れば、彼女は歩きながら何度も風上へ顔を向けていた。


 目で道を探しているというより、鼻で森の形を読んでいる。


「右へ寄れば、谷から上がってくる匂いを拾える。左だと人間の道の埃に潰される」


「了解」


「素直だ」


「現場で案内役と喧嘩する趣味はない」


「共同調査者」


「訂正が早いな」


「大事だから」


 ミレアが先を歩く。


 森へ入ってからの彼女は、支局にいた時より少しだけ静かだった。


 足音が小さい。枝を避ける動きにも迷いがない。


 狼獣人だから、ではない。


 この森を歩いてきた者の動きだ。


 上り坂へ差しかかる。


 ミレアが片手で髪をまとめた。


 襟に貼りついていた毛先が持ち上がり、首筋が現れる。


 薄く汗ばんでいた。


 風が、彼女の背から俺へ流れてくる。


 最初に来たのは革油。


 次に、乾いた草と薬草の青い匂い。


 その下に、陽を浴びた短い獣毛と、歩いて温まった皮膚。


 さらに奥に、歩いた後らしい、かすかな汗の匂いが混じっていた。


 臭い、というほどではない。


 むしろ、手袋から取った試料よりずっと弱い。


 なのに、生きた本人の方が妙にはっきりしている。


 髪も、汗も、体温も、森の匂いも。


 全部混ざって、今そこを歩いているミレアの匂いになっていた。


 記録用紙には《歩行後・軽度発汗》と書けば済む。


 だが、その分類だけでは、何かが抜け落ちる気がした。


 筆先が、一拍止まる。


 ミレアが振り返った。


「紙、風に置いていかれてるよ」


「歩いた後の匂いも取ってる。手袋じゃ、森を歩いてる時の状態までは分からない」


「近づかなくていいの?」


「この距離なら風が運ぶ」


「その紙に届く前に、風はもう二回曲がってるけど」


 俺は頼りなく揺れる捕香紙を見る。


 確かに、その通りだった。


「……今のは参考記録にする」


「書いていいよ」


「何を」


「《人間の道具より、あたしの鼻の方が優秀》って」


「再現性のある条件で確認してからだ」


「負けず嫌い」


「調査官だ」


 ミレアが笑った。


 支局で聞いたものより、少し軽い。


 俺も何か返そうとした。


 その瞬間、ミレアの足が止まった。


 俺も止まる。


 葉が擦れる。


 虫が鳴く。


 遠くで鳥が嘴を木へ打ち付けている。


 それだけだ。


 少なくとも、俺には。


 ミレアは動かなかった。


 鼻先をわずかに上げる。


 右。


 左。


 もう一度、風上。


 灰褐色の耳が森の奥へ向く。


 腰の山刀へ手が伸びた。


「カイル」


 さっきまでのからかいは消えていた。


「この森、何かおかしい」


 俺は捕香紙を下げる。


「何がいる?」


「岩鎧熊」


 一瞬、聞き間違いかと思った。


 白い岩場に棲み、鉱塩を食べる大型魔物。


 肩から背にかけての皮膚が岩のように硬化するため、その名がついた。


 この近辺にはいない。


「距離は?」


「まだ遠い」


 ミレアは森から目を離さない。


「でも、生きてる。毛皮を誰かが運んだ匂いじゃない」


「最も近い生息地は?」


「北へ六日」


 俺の記録とも一致する。


 六日。


 偶然迷い込むには遠すぎる。


「数は?」


「今分かるのは一頭。でも――」


 ミレアが眉を寄せた。


「おかしい」


「何が?」


「こっちへ来てる」


 風向きとは逆だった。


 岩鎧熊が餌を探して移動するなら、この季節に南へ下る理由はない。


 俺には、まだ湿った森しか分からない。


 だがミレアには、その奥を歩くはずのない巨体が分かる。


 そして俺には、彼女が拾った異常が何を意味するのか調べる方法がある。


 ミレアが森へ半歩踏み込んだ。


 振り返る。


「調べる?」


 返事は決まっていた。


 俺は新しい捕香紙を取り出し、時刻と風向きを書き込んだ。


「それが俺たちの仕事だ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。