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獣の旅路と香りの地図  作者: sakumaaa
夜行性魔物の昼行

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19/20

証拠を残せば、森が増える

 共同林の北六番杭は、種布の設置先ではなかった。


 矢印だった。


 杭の裏に、樹脂採取人だけが使う古い記号が残っている。北へ六。そこから西へ二。廃道になる前、採取した樹脂を一時置いた穴の位置だ。


「知ってる人は?」


 俺が尋ねると、ミレアは杭の苔を見た。鼻は近づけない。指先で表面を確かめるだけだった。


「昔の採取人。巡回猟師。古い地図を読める役人」


「多いな」


「森を知ってる奴って書けば、もっと多いよ」


 犯人を絞る印ではない。それでも、種布を持っていた影の行き先を拾うには足りた。


 俺たちは記号の先へ進んだ。


 ミレアの左肩は、昨日より動く。ただし短弓は持たない。俺の頭痛もない。支局へ残した行動予定には、昼までに戻らなければエッダが増援を出すと書いた。二人だけで捕まえるためではない。見つけたものを、二人だけで抱えないためだ。


     ◇


 樹脂貯蔵穴は、斜面へ半分埋まっていた。


 入口を塞ぐ板は古い。板を留めている縄だけが新しい。外からは、湿った土と腐った木の匂いしかしない。


 ミレアは鼻を穴へ入れずに言った。


「中、温かい」


「分かるのか」


「土の匂いが乾いてる。あと、息をしてるみたいに、夜の匂いが出たり止まったりする」


 入口の両側から対照布を取る。右には何もない。左だけに、夜醒苔と、火を通したあとの樹脂が付いていた。板の隙間から朝の陽が差し、内部の何かへ当たっている。


 俺たちは風上へ回り、濡れ布を入口の外へ広げた。粉が出ても、最初の一度を受け止めるためだ。


「開ける」


「三息だけ」


 ミレアが先に条件を置いた。


「何が」


「証拠を取る時間。中で白い粉が開いてたら、三息で諦める」


「短い」


「森を増やさない方が先」


 正しい。だが、中を全部壊せば、第六保存塩を誰がどう使ったか追えなくなる。俺が黙っていると、ミレアは声を少し落とした。


「取るなとは言ってない。三息は待つ」


 証拠を欲しがる俺ごと、判断に入れている。


「十分だ」


 縄を切った。


     ◇


 板の向こうは、浅い石槽だった。


 槽の底には、温めた樹脂と湿った木屑が敷いてある。その上を、白い菌糸が布の網目いっぱいに覆っていた。表面には青灰色の粒が乗っている。火を通した樹脂の甘い焦げと、湿った木屑の匂いが、穴の中で一つにまとまっていた。


 石槽の縁には、細い種布を寝かせる溝が九本。八本にはまだ布が残っている。一つだけ空いていた。


「昨日の影が持ってた一本?」


「時刻が合わない。あれは北六へ置く予定の、別の一本かもしれない」


 空の溝は乾き始めている。少なくとも、ついさっき抜かれた跡ではなかった。


 残った八本も、同じ段階ではなかった。二本は白い菌糸が織り目を覆い切っている。三本は青灰色の粒を吸わせた直後らしく、樹脂がまだ柔らかい。残り三本は乾いた布のまま、縁へ並べられていた。


「作る順番が見える」


「布を置く。菌を伸ばす。保存塩を含んだ樹脂を吸わせる?」


「可能性は高い」


 同じ完成品を九枚しまっている場所ではない。ここで、順番に育てている。


 温度を保つため、石槽の下には炭の消えた跡がある。天井には細い採光穴。日が動けば、光の当たる溝が一本ずつずれる角度だった。朝に樹脂を足す者、昼に布を返す者、夜に持ち出す者。作業を分ければ、誰も全体を知らないまま種布を作れる。


「昨日の影も、作った人とは限らない」


「運んだだけかもしれない」


 捕まえなかった悔しさの形が、少し変わった。あの一人を押さえても、この石槽までは辿れなかった可能性がある。逆に、包み紙を残したからここへ来られた。正しかったと決める気はない。選ばなかったものだけを、過大にしない。


 石槽の横に、払出票が貼られていた。第六保存塩。量は二袋。番号は支局の旧様式。名義欄には、二年前に死亡した調査官の記録印がある。


「死んだ人が作った?」


「決めない。印が使われたことしか分からない」


 日付を見る。死亡の三か月後。本人が受け取れるはずのない時期だ。


 これを持ち帰れれば、払出の経路を追える。種布を一枚取れれば、配合も調べられる。石槽ごと封じれば、作り方と量を残せる。その分だけ、菌糸も生きたまま残る。


 入口の濡れ布が、外へ膨らんだ。穴の中から空気が押し出されている。採光穴から入った空気が、菌糸の間を通って入口へ抜ける仕組みらしい。板を開けた時点で、胞子は自然に外へ流れる。丸ごと運ぶという選択肢は、最初から安全ではなかった。


 それでも欲しい。石槽の形。布の順番。作業者の手袋跡。証拠として見えるものが、多すぎた。


「一息」


 ミレアが数え始めた。


 俺は払出票を硝子板で挟む。


「二息」


 種布の端を、指一本ぶんだけ切り、素焼き管へ入れる。石槽の全景、溝の数、不足した一本。位置を記録板へ写す。


「三――」


「取った!」


 ミレアが板を閉じた。


 その直前、菌床の端に小さな袋が見えた。共同林の巡回杭番号が、いくつも書かれている。追いたい。全部読みたい。だが、約束は三息だ。俺は扉へ手を伸ばさなかった。


     ◇


 取った試料を冷えた石で囲み、払出票を二重に封じる。石槽を失活させるには、石鹸と木灰、それを流す熱湯が要る。手持ちでは足りない。エッダの増援を待つ間、入口へ濡れ布を重ねた。


 最初の一枚には、すでに白い粉が点になって付いている。俺は濡れ布を試料にしなかった。折り込み、さらに濡らし、失活用の袋へ入れる。胞子を一粒でも多く持ち帰れば分析には使える。同時に、一粒でも落とせば新しい菌床になるかもしれない。三息で取った種布がある以上、ここで量を増やす理由はなかった。


 風向き。日差し。板の隙間。監視を交代しながら記録する。


「証拠、足りる?」


 ミレアが聞いた。


「足りない」


 正直に答えた。


「配合も、作った場所も、持ち出した人間も追いたい」


「うん」


「石槽ごと運びたい」


「うん」


「でも運ばない」


 ミレアが俺を見る。


「三息で足りた?」


「足りないまま止めるためには」


「ならいい」


 森を守るために証拠を捨てる。そう簡単に美談へはできない。証拠がなければ、次の種布を止められない。だが証拠を残すために菌糸を生かせば、次の森が増える。選んだ代償ごと、報告書へ持ち帰るしかない。


 雲の切れ間から、陽が差した。


 細い光が板の隙間を抜ける。石槽の表面へ落ちた。中で何かが、乾いた音を立てる。


 一つ。


 二つ。


 白い胞子嚢が、袋の口のように一斉に開き始めた。夜の匂いではない。鼻の奥へ刺さる、乾いた粉の気配だった。


「カイル!」


 培養床が――胞子を放とうとしていた。

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