証拠を残せば、森が増える
共同林の北六番杭は、種布の設置先ではなかった。
矢印だった。
杭の裏に、樹脂採取人だけが使う古い記号が残っている。北へ六。そこから西へ二。廃道になる前、採取した樹脂を一時置いた穴の位置だ。
「知ってる人は?」
俺が尋ねると、ミレアは杭の苔を見た。鼻は近づけない。指先で表面を確かめるだけだった。
「昔の採取人。巡回猟師。古い地図を読める役人」
「多いな」
「森を知ってる奴って書けば、もっと多いよ」
犯人を絞る印ではない。それでも、種布を持っていた影の行き先を拾うには足りた。
俺たちは記号の先へ進んだ。
ミレアの左肩は、昨日より動く。ただし短弓は持たない。俺の頭痛もない。支局へ残した行動予定には、昼までに戻らなければエッダが増援を出すと書いた。二人だけで捕まえるためではない。見つけたものを、二人だけで抱えないためだ。
◇
樹脂貯蔵穴は、斜面へ半分埋まっていた。
入口を塞ぐ板は古い。板を留めている縄だけが新しい。外からは、湿った土と腐った木の匂いしかしない。
ミレアは鼻を穴へ入れずに言った。
「中、温かい」
「分かるのか」
「土の匂いが乾いてる。あと、息をしてるみたいに、夜の匂いが出たり止まったりする」
入口の両側から対照布を取る。右には何もない。左だけに、夜醒苔と、火を通したあとの樹脂が付いていた。板の隙間から朝の陽が差し、内部の何かへ当たっている。
俺たちは風上へ回り、濡れ布を入口の外へ広げた。粉が出ても、最初の一度を受け止めるためだ。
「開ける」
「三息だけ」
ミレアが先に条件を置いた。
「何が」
「証拠を取る時間。中で白い粉が開いてたら、三息で諦める」
「短い」
「森を増やさない方が先」
正しい。だが、中を全部壊せば、第六保存塩を誰がどう使ったか追えなくなる。俺が黙っていると、ミレアは声を少し落とした。
「取るなとは言ってない。三息は待つ」
証拠を欲しがる俺ごと、判断に入れている。
「十分だ」
縄を切った。
◇
板の向こうは、浅い石槽だった。
槽の底には、温めた樹脂と湿った木屑が敷いてある。その上を、白い菌糸が布の網目いっぱいに覆っていた。表面には青灰色の粒が乗っている。火を通した樹脂の甘い焦げと、湿った木屑の匂いが、穴の中で一つにまとまっていた。
石槽の縁には、細い種布を寝かせる溝が九本。八本にはまだ布が残っている。一つだけ空いていた。
「昨日の影が持ってた一本?」
「時刻が合わない。あれは北六へ置く予定の、別の一本かもしれない」
空の溝は乾き始めている。少なくとも、ついさっき抜かれた跡ではなかった。
残った八本も、同じ段階ではなかった。二本は白い菌糸が織り目を覆い切っている。三本は青灰色の粒を吸わせた直後らしく、樹脂がまだ柔らかい。残り三本は乾いた布のまま、縁へ並べられていた。
「作る順番が見える」
「布を置く。菌を伸ばす。保存塩を含んだ樹脂を吸わせる?」
「可能性は高い」
同じ完成品を九枚しまっている場所ではない。ここで、順番に育てている。
温度を保つため、石槽の下には炭の消えた跡がある。天井には細い採光穴。日が動けば、光の当たる溝が一本ずつずれる角度だった。朝に樹脂を足す者、昼に布を返す者、夜に持ち出す者。作業を分ければ、誰も全体を知らないまま種布を作れる。
「昨日の影も、作った人とは限らない」
「運んだだけかもしれない」
捕まえなかった悔しさの形が、少し変わった。あの一人を押さえても、この石槽までは辿れなかった可能性がある。逆に、包み紙を残したからここへ来られた。正しかったと決める気はない。選ばなかったものだけを、過大にしない。
石槽の横に、払出票が貼られていた。第六保存塩。量は二袋。番号は支局の旧様式。名義欄には、二年前に死亡した調査官の記録印がある。
「死んだ人が作った?」
「決めない。印が使われたことしか分からない」
日付を見る。死亡の三か月後。本人が受け取れるはずのない時期だ。
これを持ち帰れれば、払出の経路を追える。種布を一枚取れれば、配合も調べられる。石槽ごと封じれば、作り方と量を残せる。その分だけ、菌糸も生きたまま残る。
入口の濡れ布が、外へ膨らんだ。穴の中から空気が押し出されている。採光穴から入った空気が、菌糸の間を通って入口へ抜ける仕組みらしい。板を開けた時点で、胞子は自然に外へ流れる。丸ごと運ぶという選択肢は、最初から安全ではなかった。
それでも欲しい。石槽の形。布の順番。作業者の手袋跡。証拠として見えるものが、多すぎた。
「一息」
ミレアが数え始めた。
俺は払出票を硝子板で挟む。
「二息」
種布の端を、指一本ぶんだけ切り、素焼き管へ入れる。石槽の全景、溝の数、不足した一本。位置を記録板へ写す。
「三――」
「取った!」
ミレアが板を閉じた。
その直前、菌床の端に小さな袋が見えた。共同林の巡回杭番号が、いくつも書かれている。追いたい。全部読みたい。だが、約束は三息だ。俺は扉へ手を伸ばさなかった。
◇
取った試料を冷えた石で囲み、払出票を二重に封じる。石槽を失活させるには、石鹸と木灰、それを流す熱湯が要る。手持ちでは足りない。エッダの増援を待つ間、入口へ濡れ布を重ねた。
最初の一枚には、すでに白い粉が点になって付いている。俺は濡れ布を試料にしなかった。折り込み、さらに濡らし、失活用の袋へ入れる。胞子を一粒でも多く持ち帰れば分析には使える。同時に、一粒でも落とせば新しい菌床になるかもしれない。三息で取った種布がある以上、ここで量を増やす理由はなかった。
風向き。日差し。板の隙間。監視を交代しながら記録する。
「証拠、足りる?」
ミレアが聞いた。
「足りない」
正直に答えた。
「配合も、作った場所も、持ち出した人間も追いたい」
「うん」
「石槽ごと運びたい」
「うん」
「でも運ばない」
ミレアが俺を見る。
「三息で足りた?」
「足りないまま止めるためには」
「ならいい」
森を守るために証拠を捨てる。そう簡単に美談へはできない。証拠がなければ、次の種布を止められない。だが証拠を残すために菌糸を生かせば、次の森が増える。選んだ代償ごと、報告書へ持ち帰るしかない。
雲の切れ間から、陽が差した。
細い光が板の隙間を抜ける。石槽の表面へ落ちた。中で何かが、乾いた音を立てる。
一つ。
二つ。
白い胞子嚢が、袋の口のように一斉に開き始めた。夜の匂いではない。鼻の奥へ刺さる、乾いた粉の気配だった。
「カイル!」
培養床が――胞子を放とうとしていた。




