二人ぶんの匂いを隠すには
二人ぶんの匂いは、一人ぶんを二倍にしただけではない。
紙と石鹸が残る人間。
薬草と獣毛をまとった巡回猟師。
別々の方向から流れれば、そこに二人いると教える。
だから、まとめる。
「もっと右」
ミレアに言われ、俺は濡らした炭布を木の根へ押し込んだ。
共同林の手前。樹脂傷を見下ろせる倒木の下に、二人がぎりぎり入れる窪みがある。入口には、土と腐葉を挟んだ遮蔽布を下げた。外套と試料鞄は、木灰を薄く塗った防水布へ一つに包んだ。
石鹸、紙、革油。ミレアの薬草と草、巡回で森に残してきた匂い。全部は消せない。一か所へ寄せ、濡れた炭と土の下へ到達順を落とす。相手の鼻に最初に届くものを、土と炭にする。
隠れる前に、互いの外側を確認した。
俺はミレアの外套へ鼻を寄せない。風下へ立ち、布から流れてくるものだけを取る。洗い直した革。薄い木灰。乾いた髪に残る石鹸。果樹畑の菌糸はない。
「次、カイル」
ミレアが俺の周囲を半周した。肩。試料鞄。靴。右袖で止まる。
「紙が強い」
「記録板は置けない」
「置かなくていい。届く順番を遅らせる」
ミレアは濡らした炭布を細く折った。
「触るよ」
「了解」
布を胸元へ回し、記録板の革紐の上から結ぶ。動かす指は右手だけだ。結び目を整える間、洗った髪が顎の近くをかすめた。石鹸と夜風。その奥に、歩いて温まった皮膚が一瞬だけ近い。
「まだ紙は分かる。でも最初には来ない」
「お前は」
「草と革。次に石鹸。近づいたら、あたし」
「最後は分類名じゃない」
「カイルが分けられない時に使う言葉でしょ」
否定できなかった。
ミレアは自分の薬草袋も外套と一緒に包む。怪我を隠すためではない。痛みが増えた時にすぐ取り出せる位置は残した。匂いを隠しても、身体の状態までは隠さない。
最後に、入口の外へ細い風見糸を張る。糸がこちらへ倒れれば撤退。相手の匂いを拾う前に、こちらの匂いが届くからだ。
隠れる手順より、見つかる前に諦める手順を先に決めた。
「これで、知らない人間一人には見える?」
「鼻にはね」
「お前は?」
「二人いるって分かる」
「失敗じゃないか」
「あたしを基準にしないで。普通の獣人なら、近づくまで分けにくい」
「普通の人間には、土しか分からない」
「それは知ってる」
遮蔽の中へ入る。狭い。俺が先に座り、ミレアが右側へ身体を滑り込ませる。左肩を壁へ当てないため、こちらへ寄るしかない。灰褐色の尻尾は、二人の膝の間へ畳まれた。
「踏むなよ」
「踏む場所がない」
「なら動かないで」
外では風が樹脂傷を横切り、共同林の奥へ流れている。相手が来るなら、先に匂いが届く位置だ。ただし、こちらが動けば衣擦れが鳴る。呼吸を揃えなければ、遮蔽布が別々に膨らむ。
「四つ吸って、六つ吐く」
ミレアが囁いた。
「誰の数え方だ」
「森で待つ時の」
言われた通りにする。最初は、濡れた炭と土ばかりが鼻についた。しばらくすると、その下が分かる。洗った石鹸が髪に薄く残り、乾いた毛先には夜風の冷たさが付いている。狭い布の内側では、上衣にこもった体温と、ここまで歩いたあとの汗の気配も近かった。
首筋ではない。肩でもない。二人の間に閉じ込められた、今夜のミレア全体の匂いだった。分けられる。それでも、分けた後に一拍だけ残る。
「五つになった」
「何が」
「吸う方」
「狭いからだ」
「そういうことにしとく」
ミレアはからかい切らなかった。灰褐色の耳を前へ向け、観測へ戻る。そのことに助けられたとは、記録しない。
待っている間、ミレアの左肩が一度だけ強張った。声には出さない。だが、狭い布越しに身体の動きが伝わる。
「痛みは」
「二。姿勢のせい。一度伸ばせば戻る」
「今、伸ばすか」
「足音が来る前なら」
俺が遮蔽布の端を押さえ、ミレアが右側へ身体をずらす。左腕には触れない。肩が壁から離れるだけの空間を作る。彼女は音を立てず息を吐き、すぐ元の位置へ戻った。
「一」
「記録する」
「こういう時まで?」
「こういう時だからだ」
近さを我慢できることと、痛みを我慢させることは別だった。
◇
月が木の間へ上がる頃、共同林の方から足音が一つ近づいた。
二本足。歩幅は狭い。灯りはない。影は外套の頭巾を深くかぶり、古い樹脂傷の前で止まった。手袋を外さない。腰の筒から、細い布を一本取り出す。
装置ではなかった。指二本ぶんの幅しかない、湿った種布だ。白い菌糸が織り目へ入り込み、青灰色の粉が表面に浮いている。
影は古い樹脂を薄く剥がし、傷の奥へ種布を押し込んだ。上から、温めた樹脂を塗る。それだけだ。あとは陽が当たれば菌糸が育つ。魔物が触れれば、別の木へ運ぶ。
俺は相手の手元を記憶する。左利き。細い刷毛。布の包みは、調査局で試料紙を畳む形に似ている。
捕まえるなら、傷へ手を入れた今だ。
だが、俺たちは二人。ミレアは負傷中。相手の武器も、仲間の有無も分からない。ここで飛び出せば、種布を傷の奥へ残したまま追うことになる。菌糸を確保するか。人影を追うか。
俺が動く前に、ミレアの右手が手首へ触れた。止める力ではない。選べ、という確認だった。
俺は動かなかった。まず種布を止める。
影は樹脂傷を一度見上げ、共同林とは逆の斜面へ消えた。足音が聞こえなくなるまで待つ。
「追わないんだ」
「顔も装備も取れてない。走れば、お前の肩と菌床を両方失う」
「採用」
悔しさはある。だから、悔しさまで判断の理由にしない。
◇
樹脂傷の周囲へ濡れ布を張り、粉が飛ばないようにしてから種布を抜いた。そのまま素焼き箱へ入れる。温まらないよう、冷えた石を外側へ置いた。傷には木灰を詰め、一時的に菌糸を縮ませる。
影が残した包み紙は、樹脂の裏へ貼りついていた。支局の正式票ではない。ただ、紙の折り方はよく似ている。内側には短い数字が炭筆で書かれていた。
――共同林、北六。
ミレアが表情を消す。
「巡回杭の番号」
「設置者の所属を示すとは限らない」
「分かってる。設置先かもしれない」
人影は共同林から来た。だが、共同林の者とは決められない。番号は、次の設置先を探る手掛かりにはなる。北六が次なのかは、まだ分からない。
確かなのは、北六番杭が――獣人側の森の中にあることだけだった。




