運ぶのは荷車じゃなかった
白い毛一本あれば、獣人を疑うことはできる。
簡単に、だ。
だからこそ、してはいけない。
「狼系の毛には見える」
ミレアは洗った髪を、火のそばで乾かしながら言った。湿った毛先から湯気が細く立ち、石鹸の残りと燃えた薪の匂いが同じ空気に乗っていた。
「白い毛の一族は共同林にいる。巡回で旧道へ来る人もいる」
「人名は」
「今は出さない」
「正しい」
「疑わないからじゃないよ」
ミレアがこちらを見た。火の熱で乾きかけた髪が肩へ落ち、左肩の傷を隠す布の端が少し動いた。
「毛があたしたちのものでも、違っても、付いた順番は同じでしょ」
白い毛。
その外側へ絡んだ菌糸。
さらに上から重なった、果樹畑の新しい樹脂。
少なくとも三つの時間がある。毛は、最初から菌床にあったものではなかった。どこかで菌糸へ触れ、そのまま別の樹脂傷へ触れた。
「誰の毛かより、何が運んだか」
「それを分ける」
俺は白い毛を硝子板へ固定した。反対側には、果樹畑で回収した夜走り鼠の黒い毛。もう一枚には、宵灯蛾の羽粉。どれも菌糸へ触れた痕跡がある。違うのは、その後に重なった樹脂だった。
白い毛には、果樹の青い樹液。
鼠の背には、古い針葉樹の樹脂と果樹の樹液が二層。
宵灯蛾の翅には、さらに湿った沢木の樹脂が薄く重なる。
「一か所じゃない」
「身体につけたまま、別の木へ行ってる」
「人が塗って回った可能性は?」
「残る。ただ、塗った後に鼠と蛾も増やしてる」
原因を作った手と、道を伸ばした身体は同じとは限らない。そこを一つにすれば、また間違える。
◇
夜のうちに、ナージャが支局へ来た。北の共同林から持ってきたのは、白い獣毛の付いた巡回外套だった。
「切っていい場所は印を付けた。そこ以外は駄目」
布の端へ、白い糸が結ばれている。
「着ていたのは?」
「共同林の白狼系巡回者。昨日、外周を回った。本人が比較に出すって」
「症状は」
「ない。昼に眠くなったり、森へ向かいたくなったりもしてない」
「なら、毛だけで行動は変わらない」
ミレアが言った。
「最初から獣人を動かす匂いじゃないよ」
俺は採取同意の印を確認し、指定された端だけを切った。近い空気に入ってきたのは、白い毛そのものより先に、乾いた草と、共同林で使う苦い防虫油だった。白い毛の外側には、ごく細い菌糸が絡んでいた。洗い落とした毛とよく似ている。だが、同一人物かどうかを決められるほどの特徴はない。
「共同林の誰かが菌糸へ触れた可能性はある」
俺は記録する。
「設置した証拠ではない。運んだ時刻も意図も不明」
ナージャが文字を追った。
「その順番なら、名前を残していい」
「不利な記録になるぞ」
「消したら、次に白い毛が出た時、誰かが勝手に犯人を作る」
第一章で、ナージャが試料の出所を記録させた時と同じだった。誰の側にある証拠かと、誰が原因かは別だ。
俺は報告欄を一行増やした。
――共同林巡回者の外套に、同系統の菌糸片が付着していた可能性。
――故意の設置を示すものではない。
「あたしたちも書く」
ミレアが、自分の除染記録を指した。
「果樹畑から小屋まで運んだ。途中で新しい木へ触れなかっただけ」
「共同調査者二名も、付着後の運搬者になった可能性あり」
「それでいい」
自分たちだけを記録の外へ置かない。それが、他人を疑う前の条件だった。
エッダは、完成した共同報告をすぐには受け取らなかった。机の上で用紙の端だけを押さえ、白狼系という推定の行を見たまま動かない。
「白狼系という推定を残す必要はありますか」
「あります」
俺が答える前に、ミレアが言った。
「消したら公平に見える。でも次に同じ毛が出た時、最初の記録と比べられない」
「集落側への影響は」
「ある」
「それでも?」
「だから、故意じゃないことも同じ行へ書く」
エッダが今度は俺を見る。
「調査官の見解は」
「獣人由来の可能性を隠すのも、獣人が設置したと読める書き方をするのも、同じくらい危険です」
俺は付着順の図を報告書へ添えた。毛。菌糸。別地点の樹脂。言葉だけなら疑いへ寄る。順番を見せれば、少なくとも「毛の持ち主が最初に菌を植えた」とは読めない。
「事実だけでは足りないこともあるんですね」
エッダが言った。
「事実の並べ方で、別の話になります」
昔の俺なら、匂いの名前だけを書いていた。今は、それがどこへ付き、何の上へ重なったかまで残す。
ミレアが俺の横から報告書を読み、最後の一行へ自分の署名を置いた。肩が近いのは、用紙の端を共有しているからだ。乾ききらない髪から、石鹸と火の匂いがまだ残っていた。分類は済んでいる。あとは、この書き方が現場に戻せるかどうかだけだった。
「これなら共同林へ持っていける」
「反発は?」
「あるよ。でも、都合の悪いところを抜いた報告よりまし」
◇
翌朝。
俺たちは旧道の分岐へ戻った。人の道を追うためではない。夜走り鼠と宵灯蛾が、普段どこを通るかを見るためだ。
ミレアが生活圏を地図へ落とす。
「鼠は石垣から沢。蛾は沢木から果樹畑。白狼の巡回路は、この外側」
「重なる場所は」
「三つ」
一つ目は、沢の水場。
二つ目は、果樹畑北端の石垣。
三つ目は、共同林手前の古い樹脂溜め。
地図だけでは足りないため、最初の水場まで実際に追った。夜走り鼠の爪跡は、泥の縁で一度途切れる。反対岸の低木に黒い毛。その毛には、旧道の乾いた針葉樹脂が付いている。さらに十歩先の沢木には、新しい菌糸。
人が渡ったなら、泥へ靴跡が残る深さだった。あるのは小さな爪跡だけ。宵灯蛾の羽粉も、沢木の高い枝へ続いている。
「ここは、あたしでも夜に渡りたくない」
ミレアが増水した流れを見た。水しぶきが冷たく、岸の泥は靴底を吸う。
「人が種を持って回る道じゃない」
「回れないとは言わない。だが、魔物が運んだ方が説明は少なくて済む」
断定ではない。ただ、人の足を想定しなければ届かない場所が、一つずつ減っていく。
人の道なら、最短距離を線で結ぶ。地図の点は違った。低い石の隙間を好む夜走り鼠は、斜面を迂回する。宵灯蛾は水場と花のある空間をつなぐ。二つの線が重なる場所だけ、菌床の匂いが強い。湿った樹皮と、温められた樹脂だ。
「荷車じゃ、この道は通れない」
俺は沢沿いの狭い獣道を見た。車輪幅どころか、人が荷を背負って歩くのも難しい。それでも、手の届かない枝には新しい菌糸が育っている。
「最初の種は、人が置いたかもしれない」
ミレアが言う。
「でも今、道を伸ばしてるのはこの子たち」
足元を、夜走り鼠が一匹通った。今日は日が低いためか、足取りは昨日よりましだ。背の毛には、青灰色の粉。鼠は沢木の傷へ身体を擦り、そのまま石垣の方へ消えた。
地図へ新しい点を足す。
点は、人間の道から外れていた。
一つ。
また一つ。
夜走り鼠の巣と、宵灯蛾の休む木を結ぶように増えていく。
誰かが森へ道を引いたのではない。
植えられた最初の夜を。
魔物たち自身が――生活圏いっぱいに運び始めていた。




