彼女の髪から夜を洗い落とす
「髪を切るのが一番早い」
俺が言うと、ミレアは山刀へ手を伸ばした。
「待て。本当に切る奴があるか」
「一番早いんでしょ」
「最後の手段だ」
「先に言って」
右手が山刀から離れる。
焦茶の髪には、薄い樹脂が何筋も貼りついていた。乾いてはいない。ミレアの体温と、小屋の火に温められるたび、濡れた石と青い苔の匂いを出す。
水桶へ毛先を浸す。透明な膜は白く曇ったものの、落ちなかった。
「水だけでは駄目」
「薬草を使う?」
「強いものは菌糸もお前の鼻も壊す。落ちたのか、匂いが分からなくなったのか区別できない」
「石鹸は」
「試す。木灰も」
俺は小屋の中を二つに分けた。古い毛布を縄へ掛け、簡単な屏風にする。こちら側には火と試料皿。向こう側には水桶、着替え、石鹸。床には濡れ布を敷き、落ちた樹脂が木の隙間へ入らないようにする。
「外套を脱ぐ。上衣も替える」
屏風の向こうからミレアが言った。
「渡すのは、外套と髪の一房だけ。肌に触れた布は採らない」
「了解」
「洗うのに手が要る時は、あたしから言う」
「了解」
「返事が硬い」
「手順を確認してる」
衣擦れの音がした。外套が屏風の端から差し出される。受け取る前に置く場所を伝え、ミレア自身に防水布へ載せてもらう。
外側には草と土。内側には、一日歩いた汗を吸って温まった布。その両方へ、夜の匂いを出す樹脂が筋になって付いていた。
普段なら分けて記録する。今は先に封じる。温かいうちに匂いを取れば詳しく分かる。だが、採取のために菌糸を生かし続ける理由はない。
「外套は試験が済むまで防水布の上だ。洗う範囲はお前が決める。異論は」
「なし。髪は切らない」
「優先順位は分かった」
◇
最初の一房は、ミレアが自分で切った。
樹脂の付いている毛先を三つに分ける。一つ目は水。二つ目は石鹸。三つ目は、石鹸へごく少量の木灰を混ぜる。同じ回数だけ洗い、別々の布で水分を取った。
水だけの一房には、まだ夜の匂いが残る。石鹸では弱くなった。木灰を加えた方は、樹脂のぬめりごと落ちている。火のそばで温めても、濡れた苔の匂いは戻らない。
「これなら洗える」
「髪を傷めない?」
「灰は少量。毛先だけ。終わったら水でよく落とす」
屏風の向こうで、桶の水が動いた。石鹸の匂いが広がる。しばらくして、音が止まった。
「カイル」
「何だ」
「左側の後ろ。手が届かない」
負傷した肩だ。
「髪だけ触る。樹脂の付いたところへ石鹸と灰。皮膚には付けない」
「うん」
「屏風は」
「そのまま。髪だけこっちへ出す」
毛布の端から、濡れた焦茶の髪が差し出された。
俺は未使用の手袋へ替える。ミレアが自分で示した位置より上には触れない。濡れた髪を一房ずつ持ち上げる。雨の後より、今は石鹸の匂いが強い。指へ伝わる重さの奥で、湯気に温められた根元と、その先の皮膚の匂いがごく薄く混じっていた。
樹脂の筋へ指を滑らせる。布越しに、ミレアの体温が近い。仕事だ。必要な範囲も、触れていい場所も決まっている。それでも呼吸が一度だけ遅れた。
「また止めた?」
「菌糸の位置を見てる」
「便利な言葉」
「動くな。髪を引く」
「誤魔化した」
声は笑っていた。俺は返さず、石鹸と木灰を薄く馴染ませる。樹脂が柔らかくなり、指先の布へ移った。
「流していい」
髪が屏風の向こうへ戻る。水音。もう一度。最後に、ミレア自身が洗った髪をこちらへ出した。
「確認は?」
「近づける。触らない」
「どうぞ」
濡れた髪へ顔を寄せ、浅く息を取る。石鹸。水。洗ったばかりの髪と、その奥に残る彼女自身の温かな匂い。夜醒苔はない。
「除染できた」
「その顔で言うと、別の意味に聞こえる」
「どんな顔だ」
「自分で調べて」
そこで、ミレアの鼻先が俺の右袖へ向いた。
「待って」
「何だ」
「カイルにも付いてる」
外套の袖口。鼠を引いた時、ミレアの防水布へ触れた場所だ。目には何も見えない。鼻を寄せると、紙と革の下に夜醒苔の青さがほんのわずかに残っていた。
「髪を洗ってる場合じゃなかったね」
「両方だ」
「脱いで」
「上着だけだぞ」
「他に何を脱ぐと思ったの?」
言葉に詰まった。屏風の向こうで、ミレアが笑う。
「早く。温まる前に」
調査上着を脱ぎ、防水布へ置いた。ミレアは乾いた布を肩へ巻いてから、こちら側へ出てくる。濡れた髪を一つにまとめているせいで、洗った首筋が普段よりよく見えた。石鹸と湿った髪。火のそばへ出た皮膚へ戻り始めた体温。視線を置く理由はない。
俺は上着の袖へ採取票を貼った。
「今、記録へ逃げた」
「汚染範囲を決めた」
「じゃあ、あたしが洗う範囲も決める」
ミレアは右手の指で、袖口から指三本ぶん上へ線を引いた。
「ここまで。一回。終わったらカイルが確認」
「本人許可」
「上着本人の?」
「所有者のだ」
石鹸と木灰が、俺の袖からも透明な樹脂を浮かせた。ミレアが洗い、俺が水を替える。自分だけ安全な側へ立たない。調査員も共同調査者も、同じ運搬者になり得る。その事実を、少し笑えるうちに確かめられたのは悪くなかった。
◇
ミレアは乾いた上衣へ着替え、濡れた髪を布で包んで出てきた。森の土も、汗を吸った外套も今は離れている。小屋に残るのは石鹸と湿った髪、それから火のそばで戻っていく体温の匂いだった。
俺は見ていた時間をごまかすように、採取皿へ目を落とす。
「外套も同じ方法でいける?」
「樹脂の部分は。革油まで落ちるから、あとで手入れは必要だ」
「髪より面倒」
「髪を切ると言った奴が何を言う」
ミレアは外側と内側の樹脂の筋だけを示した。そこだけを石鹸と少量の木灰で洗った。俺の袖と並べて火のそばで温めても、どちらからも夜の匂いは戻らなかった。
洗い落としたものは、濡れ布の上へ集めてある。樹脂。青灰色の粉。白い菌糸。木灰に触れた部分は縮み、もう温めても匂いを出さない。
その中に一本だけ、色の違う毛が絡んでいた。
白い。ミレアの焦茶の髪ではない。鼠の黒い毛でも、宵灯蛾の羽粉でもない。先端には菌糸が絡み、その上から透明な樹脂が薄く重なっている。
「あたしの髪に付いた時に混ざった?」
「順番が逆だ」
白い毛の外側へ菌糸が伸びている。その菌糸ごと、果樹畑の新しい樹脂が包んでいた。
「こいつは、お前へ付く前から白い毛を抱えていた」
ミレアの声から、からかいが消える。
洗い落とした夜の中に。俺たちより先に、その道へ触れた何かの痕跡が残っていた。




