眠れない魔物は腹を空かせる
夜走り鼠は、果実を食べない。
主食は虫と木の実だ。
少なくとも、普段なら。
「また一つ落ちたぞ!」
開拓村の果樹畑で、青い実が枝から転がった。
夜走り鼠が三匹、その実へ群がる。
皮を破る。まだ硬い果肉へ歯を立てる。
空腹で選んでいるというより、口へ入るものを確かめる余裕すらなく噛んでいた。
「毒餌を持ってこい!」
「待ってください」
俺は村人の前へ記録板を出した。
昨日は畑に出ても、根も果実も食べていなかった。行動が変わったのは夜からで、眠れていない個体が日向へ出続けている。
「実が落ちたのは今日だ!」
「だから今日、止めます」
「調査が終わる頃には畑が空だ」
もっともだ。
原因の説明だけでは、今落ちている果実を守れない。ここの実は記録用の試料ではなく、村の今年の収穫だ。
畑の上では森鷹が二羽、円を描いている。
鼠を追い払えば、日向へ飛び出したところを狩られる。放置すれば、実を食べる。毒餌を使えば、鼠だけでなく、それを食べた森鷹まで死ぬ可能性がある。
「あの石垣を開けられる?」
ミレアが畑の北端を指した。
古い水路を塞いだ石垣だ。今は水がなく、奥は暗い。
「鼠の巣にする気か」
「今日の夕方まで休ませるだけ。入口を二つ残す。閉じ込めない」
村人が鼻を鳴らした。
「入る保証は」
「ない」
ミレアは即答した。
「だから失敗したら、次の手を使う。今から毒を撒いたら、失敗した時に戻せない」
言葉は短い。約束できないことは約束しない。それでも、やる順番は示す。
「一刻」
村人が言った。棒の先が、まだ枝に残っている青い実を指していた。
「それで実が落ち続けたら、追い出す」
「十分だ」
今度は俺が答えた。
記録を先に整える時間は、もうない。先に現場を止め、あとから対照を残す。
◇
水路の石を三つ外す。
内部へ湿らせた土を薄く敷き、昼の光が直接入らないよう入口へ板を斜めに立てる。
餌で釣れば、村を餌場として覚える。だから使うのは、使われていない巣から採った乾いた草だけだ。
ミレアが鼻で古さを確かめ、俺が採取地点を記録する。
「鼠を追うな!」
森鷹が急降下した。
村人の一人が驚いて棒を振る。夜走り鼠が散った。
二匹は石垣へ。残る一匹は明るい畑へ飛び出す。
「ミレア、左を塞げ!」
「肩は使わない!」
外套を右手だけで広げ、鼠と森鷹の間へ走る。走れるのは一度だけだ。決めた条件を使うなら、今だった。
俺は煙を出すための薬包を畑の風上へ投げた。火は出さない。薄い白煙が低く流れ、森鷹の視界だけを遮る。
鼠はミレアの外套に沿って向きを変えた。一匹。二匹。石垣の暗がりへ入る。
最後の一匹が、果樹の幹へ駆け上がった。
そこには新しい樹脂傷がある。青灰色の粉。白い菌糸。
「そこが合図を出してる!」
ミレアが幹へ手を伸ばす。
「触るな!」
遅かった。
鼠が傷へ身体を擦りつけた瞬間、日に温められた樹脂の薄皮が弾けた。透明な飛沫が、ミレアの髪と外套の肩へ散る。
濡れた石と青い苔の匂いが、一気に近づいた。その下に、走った彼女の汗を吸った布と、温まった髪がある。
認識したのは一瞬だけだ。
「下がれ!」
俺はミレアの右腕を引き、幹から離した。
鼠が飛び降りる。森鷹の影が煙を抜けた。
ミレアが外套で鼠を覆い、地面へ伏せる。
俺は棒で傷の上へ濡れた粘土を押しつけた。完全に壊すためではない。熱を遮り、匂いを一時的に止める。
冷えるにつれ、夜の匂いが弱くなった。
鼠が外套の下から石垣へ走る。森鷹は旋回したものの、暗がりまでは追わなかった。
石垣の中で、黒い背が重なっていく。しばらくすると、動かなくなった。
眠っている。
俺は入口から三歩離れ、板の位置へ印を付けた。鼠が自分で出れば、細い糸が切れる。外から誰かが石を動かせば、青い粉が落ちる。休ませた結果と、閉じ込めた結果を混ぜないためだ。
「餌は置かないのか」
村人が聞いた。
「今は置きません。眠るか食べるか、こちらが選ばせたことになる」
「腹を空かせてるんだろ」
「だからこそ、起きた後を見ます」
落ちた果実を二つ回収する。歯形のあるもの。触れられていないもの。
反対側には、果樹の根元から採った甲虫の幼虫を一匹だけ、土ごと置いた。夜走り鼠が普段選ぶ餌だ。どちらも石垣の出口から同じ距離。
こちらから起こさない。選ばなければ、それも結果にする。
半刻が過ぎた。
糸が一本だけ揺れる。
一匹が鼻先を出し、しばらく光を嫌うように目を細めていた。それでも昨日のようには歩き続けない。土の中の幼虫を見つけ、前足で掘り出す。青い果実には近づかなかった。
「戻った?」
「一匹だけなら、戻ったとは書かない」
俺は歯形のない果実と、減った幼虫を記録する。
「少なくとも、休んだ個体は普段の餌を先に選んだ」
村人が畑を見た。新しく落ちた実はない。
「眠れなかったから、何でも噛んだのか」
「可能性が高い。原因を止めなければ、また起きます」
「じゃあ、今度は毒より先に呼べばいいのか」
ミレアが石垣の暗がりを見たまま答えた。
「被害が出る前なら。噛まれたり、作物を食べ続けたりしたら、人の安全を先にして」
魔物を守ることと、村人へ我慢を強いることは同じではない。その境目も、記録へ残した。
「一刻、いらなかったな」
村人が棒を下ろした。
「果実は?」
番号紙を枝へ挟む。新しく落ちれば紙が動く。
「ここから数えます。夕方に自分で森へ戻れば仮設は撤去。残った個体は別に扱います」
「毒は」
「使わずに済みます」
断言できるのは、今この瞬間だけだ。だから時刻も条件も残す。
◇
ミレアは畑を出る前に、自分の状態を申告した。
「肩の痛みは一つ増えた。走るのはもう無理。鼻は樹脂の匂いしか拾えない」
「髪と外套は隔離する」
「あたしごと?」
「お前を森へ置いていく気はない」
「じゃあ、言い方」
「菌糸が付着した同行者一名を、接触範囲を増やさず小屋へ戻す」
「もっと悪い」
笑ってはいるが、右手は髪へ触れないよう身体の横へ下ろしている。
俺は未使用の防水布をミレアの外套の上から掛けた。首から下だけ。髪へ触れない。
風下を歩き、人や木へ近づかない道を選ぶ。
旧見張り小屋へ戻る頃には、陽が傾き始めていた。
それでも。
ミレアの焦茶の髪へ貼りついた樹脂は、体温を吸ってまだ柔らかい。
濡れた石。青い苔。
彼女が顔を動かすたび、真昼に作られた夜の匂いが小屋へ広がる。
偽物の夜は、もう木の傷だけにいなかった。
今度は――ミレア自身が、次の道になりかけていた。




