森に時計を植えた奴
生きた試料ほど、持ち帰りに向かないものはない。
変わるからだ。
冷える。乾く。空気を吸う。運んだ俺の手や鞄の匂いまで取り込む。支局へ着く頃には、現場で見たものと別物になっている可能性がある。
「だから四つも箱があるの?」
ミレアが机の上を見た。
「日向の菌糸。木陰の菌糸。粉だけ。何も入れていない箱」
「空箱まで持って帰る人、初めて見た」
「空箱から同じ匂いがしたら、試料じゃなく鞄が汚れてる」
「面倒だけど、嫌いじゃない」
北境支局の仮設分析室には、封印棚から遠い物置を使った。第六保存塩も、正規の保存液も入れない。机は石鹸で洗い、窓を開け、採取順に器具を分けた。濡れた木の机と、外から入る夕方の空気だけが残る。それでも、生きた菌糸を支局へ持ち込む危険は消えない。
エッダは扉の外から中を見た。
「失活方法は」
「今は火です。観察後、素焼き箱ごと焼却します」
「途中で粉が飛んだ場合は」
「部屋を閉鎖。窓の外へ濡れ布を二重。出入りした二人の衣服も隔離」
「誰が責任を」
「俺が」
「共同で」
ミレアが口を挟んだ。右手で採取記録を持ち上げ、左肩は動かさない。
「どの木から採るか決めたのはあたし。菌糸を運んだ魔物を見たのも二人」
「危険管理は調査官の――」
「共同調査者」
初日と同じ訂正だった。
「大事だから」
俺は報告書の責任者欄を二段にした。
エッダが一度だけ頷く。
「では、二名とも部屋の外へ出ないでください。必要なものは私が運ばせます」
「了解」
「窓から逃げたら?」
ミレアが聞く。
「外で待機している記録官が、あなた方を捕まえます」
「冗談が硬い」
エッダは返事をせず、扉を閉めた。
◇
比較する自然株は、ミレアが支局裏の石垣から見つけた。湿った北側。古い樹液を薄く食べる白い菌糸。見た目は、旧道のものとほとんど同じだった。
「昔からある」
ミレアは採る前に、石垣の周囲を歩いて確かめていた。
「夕方になると、夜醒苔と似た匂いがする。鼠が巣から出る目印の一つ。でも昼はほとんど分からない」
「夜醒苔そのものじゃないのか」
「違う。苔より乾いた場所にいる」
自然株を半分に分ける。一方は冷えた湿り石。もう一方は、湯で温めた硝子板。旧道の菌糸も同じ条件へ置く。四枚。同じ量。同じ時間。
先に変わったのは自然株だった。
冷えた石の上で、濡れた苔に似た青い匂いが立つ。温めた板では弱くなる。
旧道の株は逆だった。
冷えると糸を縮める。温めると樹脂の膜が柔らかくなり、その下から、夕方の落ち葉が蒸れたような夜の匂いを出す。
「同じ生き物?」
「元は同じ種類かもしれない。反応する条件だけ変えられてる」
「菌に、昼を夜だって覚えさせた?」
「覚えさせたというより、熱を餌に蓋を開ける形にしたんだろう」
旧道の樹脂片を冷やす。表面へ青灰色の粒が集まった。第六保存塩の簡易試験で見た色に似ている。だが、封印中の標本とは比べられない。
「保存塩が、中の匂いを長持ちさせてる?」
「候補だ。菌糸そのものを変えたのか、匂いを樹脂へ留めてるだけかは分からない」
「丸はなし」
「なし」
ミレアは不満そうではなかった。分からないものを残すのも、もう二人の手順になっていた。
次に、菌糸を入れない樹脂だけを温めた。古い木の油っぽさは出る。夜の匂いは出ない。
自然株の冷と温をそれぞれ二つに分け、一方の表面へ、旧道の表面から分けた青灰色の粒を少量置く。混ぜ込まない。粒を置かなかった側と同じ条件で比べた。冷えた側も温めた側も、反応は変わらなかった。
「粒を置くだけじゃ、昼型にはならない」
「中まで作り替えてある?」
「そこまでは分からない。少なくとも、あの粒を表面へ置いただけではない」
菌糸へ樹脂を食わせる段階で混ぜたのか。夜醒苔の匂いだけを樹脂へ閉じ込め、その出口に菌糸を使っているのか。今の器具では、そこまで分けられない。
だからこそ、観察を止める線も決める。白い糸が皿の外へ伸びた時点。粉が舞った時点。空箱から匂いが出た時点。どれか一つでも起きれば、結果の良し悪しに関係なく焼却する。
「途中でも?」
「途中だからだ。答えより先に支局へ増やしたら、調べてる側と塗った側の違いがなくなる」
ミレアは自分の外套の袖口を確かめた。今日の粉が残っていないことを、目と鼻の両方で見る。乾いた布と、わずかな土だけだった。
「あたしたちも運べるんだよね」
「その前提で動く」
魔物だけが道を増やすとは限らない。知らずに触れた調査員も。採取鞄も。正しいことをしているつもりの手も、次の一本へ白い糸を運べる。
◇
夜を挟んで、試料をもう一度見た。
自然株は室温が下がった夜の間だけ匂いを出し、朝には弱くなっている。旧道の株は、火を落とした部屋では眠るように縮んでいた。朝日の当たった硝子板が温まると、その上だけ、再び白い糸を伸ばした。
「森に時計を植えたみたいだな」
俺が言うと、ミレアは地図へ目を落とした。
「時計なら、一個じゃない」
昨日見つけた樹脂傷。夜走り鼠の背が当たる低い位置。宵灯蛾の翅が触れる枝。ミレアが記憶から場所を拾い、俺が採取番号を重ねる。人の歩幅で等間隔ではない。木の種類も揃っていない。共通しているのは、夜行種が曲がり、止まり、身体を擦りやすい場所だった。
「現場へ戻る」
「肩は?」
「痛みは昨日と同じ。腕は上がらない。走らないなら行ける」
「俺は頭痛なし。判断も遅れてない」
「採用」
生きた試料は焼却し、灰まで封じた。残したのは、匂いではなく記録だ。
◇
朝の旧道で、地図の点を確かめた。朝露の乗った樹皮と、乾きかけた樹脂の匂いだけがする。
最初の三本は合っていた。低い根。胸の高さの傷。横へ張り出した枝。
四本目は、前日には粉だけだった場所で白い糸を伸ばしている。宵灯蛾が運んだ傷だ。俺は新しい点を地図へ足した。
「次は?」
ミレアが顔を上げる。鼻ではなく、目で見つけた。
「あれ」
人の背丈より高い枝。細く、体重をかければ折れそうな先端で、青灰色の粉をまとった菌床が白い糸を伸ばしていた。俺にもミレアにも、地面からは手が届かない。梯子を立てた跡も、幹を登った傷もない。
その代わり。
菌床には、宵灯蛾の黒い羽粉が残っていた。
森に時計を植えた奴はいる。
だが今。
少なくとも、あの一本へ時計を増やしたのは――人の手ではなかった。




