夜を森へ返す
証拠は、待ってくれない。
白い胞子嚢が一つ開いた。粉が板の隙間へ向かう。俺は濡れ布を入口へ押し込み、ミレアが上から木灰を叩きつけた。
夜醒苔の青い匂いが途切れる。代わりに、濡れた灰と熱い樹脂の匂いが膨らんだ。
「試料は?」
「取った」
「払出票は?」
「封じた」
「じゃあ閉じる!」
二人で板を押さえる。ミレアは右肩。俺は中央。左肩を使わせないまま、縄を二重に回した。中で乾いた音が続く。
すべて開く前に、増援が来た。エッダが運ばせた、石鹸を溶かした熱湯と木灰。村人四人。支局の記録官二人。誰がどの桶を持ったか、その場で番号を付ける。
「石槽を残す方法は」
エッダが聞いた。
「ありません。表面を開かせず運ぶ容器も、保存塩も封印中です」
「失活させれば、配合は」
「大半が分からなくなります。溝ごとの伸び方、空いた一本がいつ乾き始めたかも、一緒に消えます」
「それでも?」
俺は素焼き管と払出票を見た。三息で取った、最小限の証拠。全部ではない。十分でもない。石槽の並びそのものは、今日ここで終わる。
「培養床を止めます」
エッダは頷いた。
「責任者は私です」
「採取と失活判断は共同調査です。俺とミレアの名も残してください」
「異論なし」
ミレアが言った。
◇
入口へ石鹸を溶かした熱湯を流す。蒸気が上がる。木灰を重ねて樹脂を除くと、白い菌糸は縮んで黒くなった。
石槽の底まで届いたことを、温度ではなく排水の色と匂いで確かめる。青い苔の匂いが消える。温めても戻らない。
一度目。
二度目。
三度目。
処理前に対照として取った菌糸片は、素焼き片ごと封じた。再び伸びないかの確認は、支局へ戻ってからだ。今ここで分かるのは、温めても青い匂いが戻らず、胞子嚢も開かなくなったことまでだった。
「中央は止まった」
俺が言うと、ミレアは森の方へ顔を向けた。
「でも道は残ってる」
その通りだった。旧道。沢木。果樹畑。すでに夜走り鼠と宵灯蛾が運んだ菌床は、石槽を壊しても消えない。地図へ落とした既知の点だけで十九。見つけていないものもある。
俺たちは十九本を三つに分けた。果樹畑へ近い七本。沢沿いの七本。共同林側の五本。
村人には果樹畑の木を任せる。記録官は一本ずつ、処理前と処理後の布を取る。俺とミレアは、魔物の生活圏が重なる沢と共同林を確認する。
「知らない菌床を見つけたら?」
記録官が尋ねた。
「その場で触らない。日当たり、高さ、付着した毛か羽粉を記録。俺たちへ伝える」
「今すぐ止めなくていいんですか」
「慌てて擦れば、粉を次の木へ運びます」
止めることと、触ることも同じではない。
作業を始める前に、全員の靴底へ濡れ布を巻いた。終わった者から外す。使った布はその場で木灰水へ沈める。菌床を消しながら、人間が新しい道を作らないためだ。
「全部の木を切る?」
村人が聞く。
「切りません。傷の樹脂を石鹸と木灰で除き、菌糸を失活させます」
「見落としたら」
「夕方に匂いを取り直す。昼にだけ夜の匂いが立つ木を追加する」
一度で森を元へ戻せるとは言わない。今日できるのは、昼の合図を減らし、本物の夕暮れを選べる余地を作ることだけだ。
◇
風が変わったのは、沢沿いの七本目を処理した時だった。
北から南へ。菌粉の残る道の空気が、果樹畑へ流れ始める。同時に、共同林側から夜走り鼠の足音が増えた。昼の合図を追い、二方向へ分かれている。
「村へ流れる道を閉じる」
俺が言う。
「共同林は?」
「お前に任せる」
言葉にしたあとで、条件を足す。黙って背中を見るのは、預けたことにならない。
「左肩は使わない。走らない。匂いが強すぎたら戻る。三つのうち一つでも破ったら、俺が撤回する」
ミレアは俺の顔ではなく、風の先を見ていた。それから、同じ速さで返してきた。
「カイルは、試料を増やさない。鼠を追い込まない。頭痛が出たら、村人へ指示を渡す」
「採用」
「採用」
責任を預けるのは、何も言わず任せることではない。止める条件まで渡すことだ。
ミレアは共同林側へ向かった。三歩進んで、振り返る。
「判断が割れたら?」
「人か森に戻せない害が出る方を先に止める。分からなければ介入を小さくする」
「同じ答え」
「お前もか」
「だから分かれる」
自分と同じ判断をするから任せるのではない。違う場所で迷った時、どこへ戻るかを共有できているから任せられる。
ミレアは今度こそ共同林へ消えた。俺は果樹畑へ走る。
村人には石垣の仮設休息所を開けてもらう。追い立てない。明るい畑へ出た鼠の進路だけ、板と湿った土で暗がりへ曲げる。宵灯蛾には果樹の北側へ濡れ布を吊るした。こちらから夜醒苔の匂いは足さない。昼の合図が消えたあと、自分で休む場所を選べるようにする。
森鷹が一羽降りた。村人が棒を構える。
「殺さなくていい。布を振って畑の外へ」
「鼠を守って果実を落とされたら?」
「入口の番号紙が動いたら閉じる。被害が出る前までです」
守る条件と、諦める条件。両方を伝える。
村人が二人、板の左右へ立った。夜走り鼠が石垣へ入る。今度は、果実へ向かわない。
◇
日が傾く頃、ミレアが戻った。
外套の裾には木灰。焦茶の髪は風で乱れ、右手の手袋は濡れている。走ってはいない。左肩もかばえている。ただ、長く歩いた上衣には体温がこもり、薬草の下から薄い汗の匂いが戻っていた。作業の跡だ。分類はできる。それでも、一日の作業を終えて戻ってきたミレアの匂いだけが、一拍ぶん残った。
「共同林側、既知の五本は止めた。鼠は沢の巣へ戻り始めてる」
「頭は」
「取れる。肩の痛みは一。増えてない」
「俺も頭痛なし。村の被害なし」
二人の記録を重ねる。
その間に、太陽が森の端へ触れた。空気が冷える。湿った土の匂いが戻る。沢の奥から、自然の夜醒苔がゆっくり青い匂いを立てた。
昼に嗅いだものと似ている。けれど、今度は風と温度と光が同じ時刻を指していた。
一匹の宵灯蛾が濡れ布の裏から出る。青白い斑点が、本物の薄闇で淡く光った。夜走り鼠も石垣から顔を出す。走らない。果実へ向かわない。土の中の虫を探りながら、森へ戻っていく。
葉を踏む小さな足音。
薄い翅。
それを追う夜の捕食者。
空だった森へ、音が順番に戻った。
「丸、つけていい?」
ミレアが聞く。
「既知の範囲だけ」
「そこは変わらないね」
「変えない方がいいところだ」
今度は二人とも笑った。
その時、共同林から伝書鳥が降りてきた。脚の紙は、ナージャの字だった。
――北六の先で、白い菌糸を確認。
――昼なのに、巣から出てきた。
石槽に残っていた種布は八枚。
溝は九本。
足りなかった一枚は。
俺たちが夜を返した森より先で――もう、次の昼を作り始めていた。




