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第05話 ニート、スライムに完敗する

 スライムが、こちらへ飛んできた。


「ひっ!?」


 喉から出た声は、自分でも驚くほど情けなかった。

 俺は反射的にモップを横へ振った。

 狙ったわけではなく、剣道の心得があるわけでもない。

 ただ、目の前に半透明の塊が迫ってきたから、手に持っていたものを必死に振り回しただけだ。

 モップの先端がスライムに当たる。

 同時にべちゃっ、と湿った音がする――すごく、嫌な音だった。

 そのままスライムは横へ弾かれ、石床の上を転がった。


「や、やった……?」


 一瞬だけ、そう思った。

 だが、その期待はすぐに裏切られた。

 スライムは潰れたわけでも、裂けたわけでもなかったらしい。

 石床に広がった身体を、ゆっくりと丸く戻していく。

 まるで水風船に弾力を与えたように、ぐにゃりと形を変え、それから何事もなかったようにぷるぷると震えた。

 ダメージを受けたようには見えない。

 むしろ、こちらを見ている気がした。


「ま、マジか……」


 俺は思わず再度悲鳴を上げてしまった。

 目も口もなく、表情なんてもちろんなく、それでも、なぜか分かる。

 こいつは、俺を認識している。


「効いてない……のか?」


 自分の口の中が乾いた。

 ゲームなら、スライムは最弱モンスターだ。

 最初の草原で出てきて、主人公に倒されるための存在。

 木の棒で叩けば倒れるし、レベル上げの踏み台になる。そういうものだ。

 でも、目の前にいるこれは違う。

 現実のスライムは、柔らかくて、冷たそうで、何を考えているか分からなくて、そして、モップで叩いても平然としている。

 俺の攻撃は、ほぼ無意味だった。

 次の瞬間、スライムがひときわ大きく震えた。

 もしかしたら、怒ったのかもしれない。

 いや、怒るという感情があるのかも分からない。

 けれど少なくとも、友好的には見えなかった。

 次の瞬間、スライムが再び跳ねる、今度は俺の足元へ。


「うわあああっ!」


 俺は全力で横へ逃げた。

 逃げたつもりだった。

 しかし、普段の俺は部屋とトイレと台所を往復する程度の生活しかしていない。

 急に地下通路で華麗な回避行動などできるはずがなかった。

 足がもつれ、そして石床に散らばっていた砂利を踏む。

 身体のバランスが崩れた。


「あっ」


 短い声が漏れた直後、俺は膝から石床に倒れ込み、鈍い痛みが膝に走る。

 だが、痛みに構っている余裕はなかった。

 冷たいものが、俺の右足に触れたからである。


「――っ!?」


 間違いなく、スライムだった。

 足首に、半透明の粘液がまとわりついている。

 水のようで、水ではなく、ゼリーのようで、ゼリーでもない。

 冷たく、重く、ぬめっており――痛みはないが、感触が最悪だった。

 背筋から頭のてっぺんまで、一気に鳥肌が立ってしまった。

 全身の毛穴が開いたような感覚がして、俺は反射的に再度叫んだ。


「ぎゃあああああ!」


 情けないとか、近所迷惑とか、そういうことを考える余裕はなかった。

 右足に、魔物が絡みついている。

 それだけで、思考が半分くらい死んだ。


「取れろ!取れろって!」


 俺はモップの柄で、足首に絡みついたスライムを剥がそうとした。

 だが、焦れば焦るほど上手くいかない。

 柄が滑り、手が震え、足を引こうとすると、スライムの身体がぐにゅりと伸びる。

 まるで粘着質のゴムだった。

 スライムはゆっくりと、俺の足首から膝の方へ上がろうとしていた。

 その動きは速くなく、むしろ遅い。

 けれど、遅いからこそ怖かった。

 じわじわと、確実に、逃げ場を奪われていく。

 目に見えているのに止められない。

 まるで処刑の準備を見せられているみたいだった。


 終わった――そう思った。


 二十八歳無職、死因、実家の床下でスライムに敗北。

 そんな死亡記事が頭に浮かぶ。

 いや、新聞には載らないだろう。載ったとしても困る。

 近所の人たちに「道明寺さんちの息子さん、床下でスライムにやられたらしいわよ」と噂される未来を想像して、恐怖とは別の意味で死にたくなった。


「いやだいやだいやだ!」


 俺は半泣きで足を振った。

 その時、右足のスニーカーがずるりと脱げかけた。

 普段なら最悪なのだが、地下の石床で靴が脱げるなんて、衛生的にも精神的にもかなりきつい。

 だが、その瞬間だけは違った。

 靴――そうだ、靴だ。

 スライムは俺の足そのものではなく、スニーカーごと足首に絡みついている。

 まだ完全に膝まで覆われたわけではない。

 なら、足だけ抜けるかもしれない。

 俺は急いで右足を強引に引いた。

 スライムが伸び、スニーカーが引っ張られ、同時に足首に冷たい感触がまとわりつく。

 気持ち悪い、怖い、無理。

 でも、ここで失敗したら、本当に終わる気がした。


「こんなの、くれてやる!」


 俺は叫び、右足を思いきり引き抜いた。

 ずぽっ、と嫌な感触とともに、足だけが抜ける。

 成功――スライムは俺のスニーカーに絡みついたまま、ぷるぷると震えている。

 俺の足は、靴下だけになってしまったが、そんなのどうでも良い、今は!

 冷たい石床に靴下が触れ、じわりと湿気が染み込んでくる感覚があったが、そんなことはどうでもよかった。


 ――逃げる、それしかない。


 もう確認は十分だ。

 スライムは危険だし、俺は弱いし、そんでもってモップや塩も役に立たないのに気づいた。


「無理無理無理無理無理!」


 俺は片足だけ靴下のまま立ち上がり、階段へ向かって走った。

 いや、走ったというより、転びかけながら必死に進んだ、という方が正しい。

 息が切れながらも階段までの距離は、たぶん大したことはなかった。

 十メートルもなかったかもしれない。

 だが、その時の俺には、永遠に続く通路のように感じた。

 背後から、ぷるぷるという音が聞こえた気がする。

 振り返る余裕はない。

 振り返ったら、また足がもつれる――そうなったら終わりだ。

 俺はモップを抱え、石段を駆け上がった。

 十年ニートの身体は、たかが階段数段で悲鳴を上げているが、そんな事言っていられない。

 太ももが重くなり、肺が焼けるように痛む。

 それでも止まれない。

 頭上に、台所の明かりが見えた。

 あんなに頼りない蛍光灯の光が、今だけは天国の入口みたいに見え、俺は最後の力を振り絞って、床下収納から台所へ飛び出し、そのまま蓋を閉める。


 ――ばたん。


 音が台所に響く。

 すぐに米袋を乗せた。

 椅子を乗せた。

 段ボール箱も乗せた。

 昨日よりも雑な封印だったが、今はそれで十分だった。

 そして俺は台所の床に倒れ込んだ。


 ――最悪だった。


 人生で何度も「終わった」と思ったことはある。

 学校に行けなくなった時や、アルバイトを一日で辞めた時、そして父さんと目が合って、何も言えずに部屋へ戻った時。

 けれど今は、実家の床下でスライムに負けて、片足だけ靴下で台所に転がっている今の状況は、その中でもかなり上位に入る。

 床下収納の隙間から、青白い文字が浮かび上がった。


【戦闘結果】

【スライム:生存】

【管理者:撤退】

【損失:スニーカー片足】


「ひ……表示しなくていい……!」


 俺は床に転がったまま呻いた。

 分かっている、そんなことは、わざわざ表示されなくても分かっている――完全敗北だった。

 ゲームなら最弱モンスター。

 現実では、十年ニートの俺を片足裸足にするには十分すぎる敵だった。

 しばらくして、ようやく呼吸が落ち着いてきた。

 俺は仰向けになったまま、台所の天井を見上げた。

 白い蛍光灯がぼんやり滲んでおり、身体は疲れ切っているのに、頭だけは妙に冴えていた。


 ――スライムは強い、少なくとも俺には倒せない。


 モップで叩いても効かなかった。

 塩も効かなかった。

 とりあえず、結論からすれば正面から戦うのは駄目だ。


 俺は戦えない。


 その事実を、嫌というほど理解した。

 けれど同時に、分かったこともある。

 スライムは速くない。

 こちらを追っては来たが、階段までは上がってこなかった。

 スニーカーに絡みついた後は、それを吸収するように動いていた。

 もしかすると、あいつは何でも襲うわけではないのかもしれない。

 何か、好むものがあるのか?

 俺は粘液まみれのモップを見た。

 怖いし、気持ち悪いし、もう二度と近づきたくない。

 けれど、あのスライムを倒せないなら、別の方法を考えるしかない。

 俺は床下収納を睨み、考えた。

 あれを倒すのは無理。

 だったら、倒さずにどうにかする方法を探せないか。

 すると、床下収納の隙間から、青白い文字がまた浮かぶ。


【浅層第一区域にスライムを確認】

【管理者による対応を推奨します】


「対応って……」


 俺はため息をついた。

 戦って勝つのは無理――だったら、観察するしかない。

 十年ニートの俺の初めてのダンジョン戦闘――結果は、スライムに敗北。

 得たものは恐怖と粘液まみれのモップ。

 失ったものは、右足のスニーカー。

 そして、俺の中にあった「スライムくらいなら何とかなるかも」という甘い考えだった。

読んでいただきまして、本当にありがとうございます。

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