第03話 入口だけのつもりだった
「……ちょっとだけ。入口だけ」
翌日、俺は床下収納の前でそう呟いた。
昨日は蓋を閉めて逃げるしかなかった。
だが、何も分からないまま放置するのは、やはり怖い。
今の所、両親は開けてもどうやら床下収納らしく、大丈夫らしい――しかし、昨日俺が開けたらダンジョンだった。間違いなく。
考えれば考えるほど、確認しない方が怖くなってきた。
だから俺は、最低限の準備をした。
まず、玄関から古いスニーカーを持ってきた。
台所に靴で入るのは抵抗があったが、素足で謎の地下階段を降りる勇気はもっとない。
次に、台所の隅にあった古いモップを手に取った。
包丁は流石に怖い。
自分で怪我をする未来しか見えない。
ほうきは頼りない。
結果、モップになった。
モップ一本でダンジョンに挑む二十八歳無職――字面だけで泣きたくなる。
「よし……いくぞ……うん、いくぞ!」
俺は床下収納の蓋を開け、ゆっくり階段へ足を下ろした。
一段目。
石は冷たく、硬かった。
幻覚ではなく、少なくとも、足裏にははっきり感触がある。
そのまま二段目。
三段目。
家の台所から離れていく感覚がした。
たった数段なのに、ものすごく遠くまで来てしまったような気がする。
頭上を振り返ると、四角い床下収納の入口が見えた。
台所の明かりがそこから差し込んでいる。
逃げ道はある、だから大丈夫。
やばかったらすぐ戻ろう。
俺はそれを何度も確認しながら、さらに数段降りた。
階段の曲がり角を越えると、そこには小さな空間が広がっていた。
「……なんだよ、これ」
そこは地下室ではなかった。
石造りの通路。
高い天井と、壁に生えた青白い苔、そして足元に散らばる細かな砂利にところどころに生えた、小さな草。
明らかに、家の下の空間ではない。
広すぎる――うちの敷地面積どころか、近所の道路の下まで伸びていそうだった。
通路の奥から、ぴちゃん、ぴちゃん、と水滴の音が聞こえる。
そして、何かが動く音も。
――ずるり。
濡れたものが床を這うような音。
俺はモップを両手で握りしめた。
「うん、帰ろう!」
即決だった。
情報収集は大事だけど、命はもっと大事だ。
俺は一歩後退するしかなかったのだが、その時、目の前にまた文字が浮かぶ。
【浅層第一区域】
【危険度:低】
【推奨行動:周辺確認】
「低って何基準だよ……」
俺にとってはもう十分高い。
さらに文字が表示される。
【管理者はダンジョン情報の閲覧が可能です】
【表示しますか?】
その下に、二つの選択肢が浮かんだ。
【はい】
【いいえ】
俺は思わずその場で固まった。
こういう選択肢は、ゲームなら迷わず【はい】を選ぶ。
説明書は読む、攻略サイトも読む、効率表も見る――俺はそういうタイプだ。
だが、これは現実だ。
押した瞬間、何かに同意したことにならないか。
利用規約を最後まで読まずに契約して、あとで後悔するやつではないのか。
俺は悩んだ末に、モップの先でそっと【はい】を突いた。
理由は直接触るのは怖かったからだ。
すると、文字が淡く光り、次の瞬間、俺の視界の端に半透明の画面が広がった。
【道明寺家地下ダンジョン】
【階層:第一層のみ開放】
【魔物:スライム】
【資源:低級薬草、光苔、粗鉄鉱】
【宝箱生成率:極低】
【侵入者:なし】
【管理者:道明寺佐宗】
「……本当にダンジョンじゃん」
口から、乾いた声が出た。
そして、スライム、薬草。鉱石、最後に宝箱。
どれもゲームでは見慣れた単語だ。
だが、自分の実家の地下に表示されると、怖さしかない。
俺は画面を凝視した。
魔物、スライムーー本当にいるのか?
やっぱりいるのか、魔物。
さっきの、ずるりという音が聞こえた。
あれがスライムなのか。
ゲームなら最弱モンスターーー最初の草原で出てきて、主人公に倒されるための存在。
だが、現実の俺はレベル一どころか、チュートリアル前の一般人である。
モップを持ったニートが勝てる保証はどこにもない。
「…………うん、無理だな」
俺は小さく頷いた。
撤退、即撤退だ。
情報は得た。
ここは本当にダンジョンらしい。
意味は分からないが、とにかく分かった。
今日はここまでで十分、俺はゆっくり後ずさり、階段へ戻ろうとした。
その時、通路の奥で、青白い苔が揺れた。
――ぷるん。
半透明の丸い何かが、石床の上に姿を現した。
大きさはバスケットボールくらい。
水色で、ぷるぷると震えている。
目も口もなく、だが、確かにこちらへ向かって動いている。
間違いなく、ゲームでもよく見た事があるスライムだった。
俺の全身から汗が噴き出した。
「……こんにちは」
なぜ挨拶したのか、自分でも分からない。
スライムは返事をしない、ただ、ぷるん、と震えた。
そして、こちらへ一歩分だけ近づいてきた。
「帰ります」
俺は即座に背を向けた。
モップを抱え、階段を駆け上がる。
いや、駆け上がったつもりだったが、実際は足がもつれてかなり情けない動きだったと思う。
背後で、ぷるぷるという音が近づいてくる気がした。
「無理無理無理無理ー!!」
俺は台所へ飛び出し、床下収納の蓋を閉めた。
その上に、近くにあった米袋を置く。
さらに椅子も置く。
意味があるかは分からないが、ないよりマシだ。
俺は台所の床に座り込み、荒い息を吐いた。
心臓が痛いし、手が震えてしまっている、モップを握りしめたまま、しばらく動けなかった。
床下収納の隙間から、青白い文字が浮かび上がる。
【管理者権限を付与しました】
【このダンジョンは、あなたの所有物です】
俺はそれを見て、力なく首を振った。
「だから、いらないって言ってるだろ……」
だが、文字は消えない。
俺の拒否など関係ないと言わんばかりに、静かに光っている。
俺の家の地下は、どうやら本当にダンジョンらしい。
そして最悪なことに、その管理者は俺らしい――何度も目に見えるモノに対し、涙目になってしまうのだった。
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